予備校から帰ってきた雨の夜
すっかり雨に濡れた制服を干すことを考えながら家に差し掛かれば
ずぶ濡れの彼を見つけた
家の前で、膝を抱えて、寒さを凌ぐ様にする彼に声を掛ければ
銀色の髪を持つ彼はいつか自分の前を横切っていた猫のように


「風邪をひきますよ?」


《梅雨》


庭に降り注ぐ雨に世界は一層暗い色を落とし、新緑は本来の色をくすんだ物とした。
空は灰から、漆黒へと姿を変え、それでもしとしとと止まぬ雨を世界に落とし続ける。
開けられた縁側から吹き込む風はただ、生ぬるく湿気ている。
整然と手入れされている庭に向かって彼はその体を横たえる。
畳の上に洗われ、乱雑になった髪を広げ、前髪から少し、水滴を落としながら。
タオルを濡れた髪に落としてやり、彼は暖かく柔らかなタオルの感触にくすぐったそうに笑った。

猫のようだ。

そう揶揄してやろうかと思ったが、自覚はしているだろうと思いそのままにする。
猫は機嫌を損ねると扱いが面倒だから。

「こんな夜分遅くになんのようです?」

柳生の服を着た仁王は、余ったズボンの裾を気にしながら、楽しそうに笑う。

「雨を凌ぎにきた」
「雨ならご自宅で凌げるでしょう?」
「ん・・・迷い猫拾っといて庇護せんと?紳士もなにもなかね」

言い訳にもほどがあるなと柳生は思う。
この週は親が出払うから一人だと、そんな話を柳と交わした記憶がある。
その会話をきっとどこかで聞いていたのだろう。
この男は、自分が話した全ての発言を余すことなく網羅しているようだったから。
彼は優しい、それをまっすぐに表現することはないが、ただ優しい。

「では、牛乳だけ与えていればいいのですか、私は」
「・・・そやね・・・でも柳生は料理下手じゃけ、恩返しくらいはしてもよかよ」
「ああ、それは助かる」

はらりとノートを机の上に広げ、淡い光の中でペンを動かす。
彼は身動ぎせずに雨を眺めていた。
鳴り止まぬ雨粒が世界を叩くその音と、そして僅かな呼吸音。
仁王も柳生もただ自分の世界で時間を過ごす。
ただ、空間を共有しているだけだった。

弱さを全面に曝け出せるほどは近くない、かといって強がって虚勢のままに接するほど愚かでもない。

このような時間の共有は今に始まった話でもなんでもない。
柳生と仁王が同じ部活に属し、同じような毎日を流れ落ちていくように過ごしたときと変わらない。
柳生は基本的に出無精であり、雨になればその傾向も顕著に現れる。
雨が降れば柳生は縫いとめられたように家や図書館に篭る日々を過ごす。
対して仁王は基本的に外が好きであったから、雨が降れば会うこともない柳生の元へとよく来たものだった。
何を持ってくるでもなく、何を目的とするわけでもなく。
ただ、柳生の部屋に外の匂いをそっと連れて来て、雨が止むまでと、そういった。

その度に柳生はその向けられた背を見つめながら、雨など止まなければ良い、そう思ったものだ。

「雨なのに・・・柳生何処に行ってた?」

雨の日は必ず家にいるのが常だったのに、仁王の背はそう告げた。
柳生は小さく苦笑し、窓の外へと視線を向ける。
まだ雨は止まない、天気予報は何日先まで雨だと自分に告げただろうか?
テレビをつけようかと、そうふと考え、まずは仁王に応えようと鉛筆を置きそっと近くへと膝を進める。

「予備校ですよ・・・ほら、鞄を持っていたでしょう?」
「へぇ?前まで俺がいくら外へ連れ出そうとしても頑として動かなかったのにな?」
「必要に差し迫られれば、なんだってしますよ、そういうものです」
「・・・まぁ、俺と出掛けることは確かに必要事項じゃないだろうからな」

仁王は不機嫌そうに柳生を睨みあげた。
彼の角度から見れば眼鏡の下の柳生の眼も見える、そして表情も簡単に読み取れる。
このように寝転んでいつも彼が話していたのは柳生の眼鏡に隠された感情を見破るためだったのだなと今更のように気が付いた。
ただけだるい振りをしていたわけではないのだ。
他人に悟られないように自分の知りたいものを見落とさない、隙がない男だと、そう思う。
対抗してそっと目を伏せれば仁王は小さくした打ちをした。

「柳生」

欲しいものは全力を持って手に入れるくせに。
そんな甘えたような声を出されたところで揺らぐ感情などもうありはしない。
柳生は雨の音を掻き消そうとぷつんとテレビの電源を入れる。
柳生の指が今の時間、天気予報を報じようとする局のボタンを押そうとするのを認め、仁王はその手を払った。

「リミットなんて、知らんほうが楽しかろう?」
「私は、差し迫る時間より、決められた中で足掻くほうが比較的楽で好きなんですけどね」
「ああ、死ぬ日取りを先に知らされていたほうが良いってことか?」
「ええ」

「まあ・・・」

仁王は柳生を引き寄せ、耳元で優しく囁く。

「たまには、先の見えない世界に生きるんもよかよ?」


そうですね、と笑えば、仁王は満足そうに微笑んだ。


三日が経た。
柳生は朝には雨で重い体を引き摺るように学校へと向かい、夜遅くにまた、のろのろと帰ってくる。
学校に行かない仁王を柳生は咎めもしなかった。
そういう奴だ、仁王に干渉などしない。
変わらないなと、柳生の行動を観察しながら、空になった彼の部屋を観察しながら、仁王はそう感じ、笑みをこぼす。
部屋の隅に積み上げられた教科書は高校のものになり、科学雑誌の専門性がさらに上がり、
本棚に並ぶ学術書と文庫本の比率が逆転しただけ。
そして部屋の隅にたてかけられたラケットケースに薄く埃が被っているだけ、ただそれだけだ。

「珍しいですか?使われていないラケット」

いつの間にか後ろに立っていた柳生が、眼を細めて仁王を見た。

「うん?いや?ほんまに、やめたんだなっておもって」

「やめましたよ・・・埃被っているでしょう?」

ほら、テニス部にだって私は属していないでしょう?と柳生は今更だと、肩をすくめて笑った。

雨が止んだら、仁王はそう言おうとして、止めた。
雨が止んだら、自分はここから出て行くのだから。
雨なんて止まなければいい。
ずっと降り続けばいい。

ああ、それでも雨が止まないと、外の世界で笑う彼はみられない。

矛盾の連鎖の渦に巻き込まれそうになり、仁王は首を振った。
思えばあたりはまだ明るい。
時系列が曖昧になっているように思い、柳生、と呼べば、彼はもっともらしい顔をして、今日は日曜日ですよと世界を定義した。

柳生の手が仁王の眼の前にあったラケットを取り去り、しゅと靴下が畳をすべる音が雨に混じっていく。
柳生は雨の世界に正面を切って向かい合い、そこに座り、ラケットを膝の上に出した。
埃が少し、空気に浮き、直ぐ湿気を帯びて床に降り立つ。
仁王は体を引きずるように柳生の前に回りこみ、ラケットの変わりに、そこへしな垂れかかった。
柳生は苦笑すると、ラケットを直ぐ左に置き、雨が止んだら、いえ、いつかまたテニスをしましょう、と笑う。
柳生が仁王の髪を優しく梳き、さらりと零れ落ちていく髪を何度も掬い上げながら指に優しく絡ませていく。
少し上方に引かれる髪と、意識を感じる。
少し湿気を帯びた髪を今度は仁王が手を伸ばして触れる。
さらと前髪が揺れ、その下で柳生は優しく微笑む。
指に絡ませるには少しその距離は遠く、仁王が柳生の肩を軽く押して高さを揃えると、薄い茶の髪を指へと軽く巻きつけた。
変わらない感触に笑みを零せば、柳生は弄られ乱れた前髪を少し鬱陶しそうに払い、仕様がない人だと呆れ顔で仁王を見つめた。
はらはらと雨はただ降り続くが、さすがに三日も泣き続ければ涙だって枯れるらしい。
空に小さく亀裂が走り、空が覗き始めていた。
そしてそれは再びの断絶を意味する。
空の亀裂はこの空間さえ切り裂いていく。
雨の匂いで満たされていた緩やかの拘束は去り、外へと世界は開いていく。
繋ぎとめられていた足は、また確かな足取りを取り戻し、世界へと駆け出す準備を整える。
柳生は体を起こし表情なく開かれていく光の世界に眼を細め、仁王に絡みつかせていた手を外した。
見上げた表情に特に表情は浮かんでいなかったがその姿は物悲しく、儚く仁王の目に映る。

「止まなければ・・・良いのに」

ゆるゆると満たされていく意識の中で、そんな言葉が聞こえた気がした。
帰らないでと、柳生の意思表示を見たのは初めてだった気がする。
嬉しい、そう思ったのに落ちることをやめない意識がその表情を網膜に映すことを静かに拒絶した。

抗い、意識の淵へと手をかけようと伸ばしてみてもいつもはつかめるはずのそこに手はかからない。

柳生はそんな仁王を見て優しく笑んでいるのだろう、小さく、囁く。
さらりと、自身の髪をやさしく梳く、彼の確かな体温。

「おやすみなさい、仁王くん」

*****≫≫*****