幾つの季節を経ても 譬えこの世界が消え墜ちても 変わらないものがあるとしたら、それは。 「では最後の質問です。今までの競技人生で一番印象に残っている試合は何ですか」 視線が全て、東堂に集まっていた。可愛い女の子のものも、外国人のリポーターも、協賛企業の人々も。 試合を終えたばかりの選手も、大会の関係者のものも。 彼らは一様に表情を綻ばせ、興奮に頬を紅潮させ、今日の英雄の言葉を、もっと言えば表情を覗き込もうと躍起になっている。 それもそのはずだ。今日東堂はある一人の選手を王座から引きずり下ろした。彼は長らく、世界最速と目されていたクライマーで、東堂も何度か対戦をしたことがあったがその度に悉く歯が立たなかった選手だった。そんな選手に、東堂は今日、初めて勝利した。もう一人の日本国籍を持つ選手と一緒に彼を躱して、そしてゴールしたのだ。 もしかしたら彼の体調が悪かったのかもしれないし、マシントラブルに見舞われていたのかもしれない。今日の気候がたまたま苦手だったのかもしれない。それでも勝利は勝利だ。 久々のキングの交代に、今日のゴールはいつも以上に沸き立っている。 自分も相当気分が高ぶっていたらしい。矢継ぎ早に投げつけられた質問に東堂も興奮気味に応えていた。だがしかし。 『一番、印象に残っている試合?』 ハウリングしながら、会場に響いた自分の言葉に東堂はふと、我に返った。 日本語で話したためだろう、会場にいた人は一瞬、困った顔をして、それでもはやくはやく、と東堂を急かす。 東堂は眉根をひそめる。東堂にとって今までの人生で一番印象に残っている試合なんて考える間もなく、自明だった。 あの試合以外に、ない。 しかし、この場でそれを口にしてもいいものだろうか。 周りにそれを聞けるチーム関係者も、広報担当もおらず、東堂は一人途方に暮れていた。 どうするべきか。 助けを求めるように東堂は改めてその会場を見渡し、そして自分を囲む人々の外に知った顔があることに気がついた。 玉虫色の長髪を高く結った一人の選手。 視線を向けると彼はゆったりと頷いた。 東堂は、その姿に口角を持ち上げる。そして向けられたマイクに自信満々に声を向けた。 『今日の試合、っていいたいところですが高校のインターハイの一日目の山岳リザルトです』 ざわり、と会場が揺れた。恐らくみんな今日の試合という回答を期待していたのだろう。 目の前の美人のインタビュアーもハイスクール?と首を傾げていた。それに東堂は、イエスと返す。 『その舞台で、俺はずっとライバルだった人と決着をつける約束をしていました。それでも、相手チームのトラブルからそれが叶いそうになかった。俺は泣きながら走った。ライバルと決着をつけることができないことが悲しくて。それは俺のライバルもいっしょだったと思います。それでも相手チームは俺とライバルの最終決着をつける機会を作ってくれました。トラブルを何とか解消して、彼と俺を戦わせてくれました。おかげで俺と彼は最後、完全燃焼で勝負をすることができたんです。だから、俺は感謝をしています。当時の自分のチームメイト、相手校のチームメイトにも。彼らとは今でもいい友人です。そして、』 東堂は顔をあげる。 そしてその先に、一人の男を捉えた。 『その時ライバルだった男とは今でもライバルで、一番の友人です』 永遠の、春 「よくあんな恥ずかしいこと言えるっショ、尽八」 やっと解放され、人垣の中から抜け出してきた東堂に一人の男が呆れたように声をかけた。 巻島裕介。 玉虫色の髪と、特徴的なダンシングで注目を集める日本出身のクライマー選手で、今は東堂と同じくプロの選手として世界で活躍している。 同時に東堂の高校時代からのライバルで、友人である選手だった。 本来であれば、先ほどのインタビューには彼も含まれてしかるべきだっただろう。あの選手を抜いたのは東堂だけではない。東堂と共にゴールを競ったのはこの巻島だった。 しかしそこは勝負の世界。常に讃えられるの勝者だけであり、負けてしまえばたとえ王者を抜き去ったとしても、賞賛の言葉はないのだ。 証拠に彼は呆れたような顔をしているが、悔しそうな表情を浮かべていた。 そして同時に、東堂に対する賞賛も。 あの時もそうだった、と東堂は思う。あの夏の日も、彼は悔しそうな顔を浮かべながら東堂の勝利を讃えていた。 そういうところも含めてあの試合は特別なのだと、東堂は改めて思う。 「恥ずかしいことなどないだろう、だって事実だ。あの試合は本当に美しかった。勿論巻ちゃんと戦えたということも勿論あるが、あそこにいた十二人、誰か一人が欠けていてもあの勝負は成立しなかったのだよ。俺たちだけの中に在った勝負が、あの場所にいた十二人全員にとって意味を持っていたというのはドラマチックじゃないか」 「大げさだ」 「或いはそうなのだろう。だが俺にとってあの試合は何時までも特別なのだ」 巻ちゃんもそうだろう?そう問いかけると彼はばつの悪そうな表情を浮かべ、まあ、と歯切れの悪い返事をした。 「巻ちゃんは、相変わらずかわいいなあ」 「うるさいっショ」 「はは」 東堂は巻島に対して、思ったことを直ぐに伝えるようにしていた。 自分の中で巻島というライバルがどれだけ大きな存在かということも。 二人で走る坂道どれだけ自分にとって大切で尊い事なのかということも。 もっと言えば部活で、速いタイムが出て嬉しかったことも、その時に見た夕日がとても美しかったとことも。 自分のコンディションが悪い時や、落車をして怪我をして自転車に乗れなかった時にどれだけ自分が辛いかということも。 巻島に置いて行かれないか不安だということも。 正直に東堂は巻島に話してきた。そして同時にそれを巻島に求めてもきた。 彼は口下手だ。すぐに言わなくてもわかるだろうという趣旨のことを口にして逃げようとする。 それに東堂は食い下がり、ちゃんと口にしないといけないこともあると言い続けてきた。 その成果だろう、彼も東堂が問いかければ、仕方ないといった風に自分の感じていることや想いを伝えてくれるようになった。 だが、東堂には一つだけ巻島に伝えずにいることがあった。 それは一番大切なことで、恐らく一番大切な感情だ。 それを、東堂はずっと心の奥にしまいこんでいる。それこそ、初めて会った時からずっと。 だが、この感情だけは伝えまいと心に決めている。 きっとこの先も、永遠に伝えることもないのだろうとも思う。 『巻ちゃん、俺は巻ちゃんのことが好きだ』 勿論、彼に好きだといったことはある。友人として、ライバルとして、人間として好きだと、そういったことはそれこそ数えきれないほどにある。 しかし、もっと切実な意味で口にしたことは一度してない。 有体に言ってしまえば恋愛感情と呼ばれる感情をこめて口にしたことは一度としてないのだ。 だがこのことについて何故かと問われたとしても東堂は明瞭に説明をする術を持たない。 それでも強引に推し量るのだとしたら、恐らく自分は怖かったのだ。 万が一、思いが通じたとして己は変わらずに巻島をライバルと据え続けることができるのか、自信がなかった。 僅かでもその思いが、ペダルを鈍らせてしまったら自分は自分を、そして巻島自体を恨まずにいられるのかと考えたとき、それが絶対にないとは言い切れなかった。 そして同様に巻島にも。 巻島が恐らく自分のことを憎からず、もっと言えば好いていてくれることを東堂は分かっていた。 だからきっと想いを伝えれば彼は答えてくれるだろう。それでも東堂が危惧しているのと同じ事態が巻島にもし起こったとしたら。 だったら、と東堂はその感情を胸の奥にしまうことに決めたのだ。何よりも、巻島には自分の最高のライバルでいて欲しかったから。 始めは苦しかった。何度も彼に想いを伝えそうになった。自分に笑いかける頬に、唇に、触れたいとそう思う衝動をやり過ごした。 それでも何度もその感情を飲み込むことを繰り返していくうちに、衝動めいたものは鳴りを潜めていった。 そして最期、心の中に残ったのは果てしない程、彼のことを尊く思う感情と、彼の隣にいることのできる幸せだった。 きっとこの気持ちは、これから先も変わることなく東堂の中に在り続けるのだろうと思う。 彼のことを尊敬し、愛し、そしてともに在り続けることを幸せに思うのだ。 自分のこの感情と彼への思いの変遷をこれから先も東堂は一度として彼に伝えることはないだろうと思う。彼がかつて自分のことを愛していたかどうかも確かめることもないだろう。 それでも、東堂は願う。巻島が自分と同じような気持ちでいてくれていればいい。そして同じような思考を経て、自分の隣を選んでくれていたらと。 そう、願うのだ。 東堂はふう、と息を吐く。 そして巻島の方を振り返った。 「巻ちゃん」 「なんだ、尽八」 「これからも良きライバルであり親友でいてくれ」 「なんだ、急に。今更っショ」 「言葉にして欲しいときもあるのだよ、巻ちゃん」 に、と笑いかけると巻島は眉を下げて困ったような表情を作る。 いつものことだ。巻島はそういう質問に答えるのが苦手だ。 それでも、東堂はその横顔をにこにこと微笑みながら見守り彼の言葉を待つ。 そう、それこそあの懐かしい高校時代から変わらない立ち位置で。 彼は、昔と変わらない東堂の視線にさらに困ったような表情を浮かべながら、それでもようやく笑った。 「了解した」 これから先もずっと。 ペダルを回し続けて、今以上にどんどんと早くなって。 そして次の大会でもその先の試合でもクライマー勝負をするのだ。飽きることなく。 それがどれだけ幸せな事かを噛みしめながら。 そうずっと、誰よりも隣で。 material:Sky Ruins |