※未来。御←石 最近石垣さん、帰るの早いっすね。 書類に忙殺されている後輩が羨ましそうに呟く。 今日もまだ帰れないようだ。 彼女でもできたんじゃねえの。 コーヒーを啜りながらそう答える。すれば向かいの女子社員がくすりと笑った。 なんでも、自転車の練習してるらしいわよ。 10年先も愛してる 夜風は酷く透き通っていて、ひやりと気持ちいい。 そんな風を感じながら石垣は夜の街を疾走していた。 自分が跨がるのは相棒のアンカーだ。 この暗い中ではあまりわからないが鮮やかな赤色の車体をしている。 手に馴染むハンドルの感触はやはりこの自転車が自分の所有物であることを如実に語っている。 「は、」 上がる息を感じながらそれでも石垣はペダルを踏み込む。 サイコンに表示されている速度とケイデンスはなんとか一定を保っていた。 それに僅か口角を持ち上げると筋肉痛と疲労でがちがちの足を石垣は気力だけで回す。 前に前に前に、前に。 社会人になって、もうしばらくたち、仕事に追われる中で運動らしい運動から遠ざかっていた石垣が急に自転車に乗り始めたきっかけは約二週間前にさかのぼる。 それはなんの前触れもなく届いた一通のメールだった。 『まだ自転車やっとる?』 メールの差出人は十年前程に海外に旅立っていった高校の後輩である御堂筋翔だった。 今や世界で活躍する有名選手となった彼から、それこそ十年ぶりに届いたメール。 その内容に石垣はかつて彼と交わした約束のことを思い出した。 それは御堂筋が海外に行く前の日の出来事だった。 卒業後も御堂筋と石垣は時々一緒に自転車に乗っていた。 否、正確には一度、偶然に朝の自主練で遭遇したのがきっかけだ。それから約束をするでもなく、時々自転車に乗った。 何か話す訳でもない。ただ一緒に自転車に乗った。 朝の京都を。寒い冬の朝を。爽やかな夏の朝を。桜の舞い散る春の朝を。 そんな静寂を御堂筋が初めてと言ってくらいに初めて、崩したのは「明日フランスに行く」という言葉だったのだ。 その言葉に石垣は息を呑んだ。 それは彼の言葉に驚いている自分に気づいたからだ。そして何故か、この時間が永遠に続くと信じていたことにも。 そして失うと気づいて初めて心にきざした感情にも。 しかし、石垣はその感情を言葉にすることをやめた。 明日、御堂筋は旅立つのだ。 それに水を差すのは本意ではない。石垣は誰よりも御堂筋の活躍を望んでいた。誰よりも。 とはいいながらもこのつながりを失ってしまうのも惜しいと思った。朝練の時間を共有するというつながりに代わるもの。何か一つでも彼との間に繋がりを。 石垣は喘ぐように、しかしその焦りを読み取られないように悠然と、言葉を紡ぐ。 『なあ。オレ、自転車やめんから、だから日本帰ってきたらまた自転車一緒に走ろうや』 御堂筋は石垣の言葉に少し、驚いたように目を見開いて。 そしていつも通りのシニカルな笑みを浮かべながら、言葉を口にしたのだった。 『プロにならん石垣くんなんて一瞬で千切るけどええ?』 (覚えとった、御堂筋が) 石垣は溢れかえってくる記憶に押し流されそうになりながらもそのメールに「やっとるよ」と嘘を書き込み、メールを返した。 次に石垣は実家からひっそりと眠ったままになっていたかつての相棒を連れてきた。 車体はまだどうにかなった。しかし、タイヤをはじめパーツのいくつかはすっかり傷んで劣化をしていたため慌てて自転車屋で一式交換をした。 そして一か月後に帰国するという彼に合わせて石垣は終業後に自転車の練習を始めたのだった。 自動車を使用しての営業に慣れ切った体はすぐに悲鳴を上げた。 全身が筋肉痛になるし、疲労感で昼間は体が重いし、何より眠い。 それでも石垣はそんな自分に鞭を打って効率的に仕事を進め、できる限り毎日、自転車に乗るために生活リズムをがらりと変えていった。 仕事が終わったらサイクルジャージに着替えて夜の街を走る。 そんな生活を続けていくうちにサイコンに表示されている数値は現役時代に比べれば劣ってはいたが、それでも自転車を再開した時と比較すると飛躍的に改善をしている。 そうはいっても御堂筋はプロだ。 自分が長年自転車に乗っていなかったことなど、自分の走りを見れば一瞬で気付くに違いない。 それでも、構わない。 変わっていないものもたくさんあるのだときっと、伝えることができるだろうとそう思っている。 自転車が好きだということも。 御堂筋のことを応援しているということも。 約束を忘れずにいたということも。 そして。 ーあの日伝えられなかった思いも。 顔を上げる。 暗闇に塗りつぶされた道の果てに懐かしい景色が見える。 その景色に石垣は高揚感を覚え、またペダルが軽くなるのを感じる。 もうすぐだ、もうすぐ。 『三週間後の土曜の朝、いつもの場所で』 ようやく、たどり着く。 material:Sky Ruins |