ー石垣くん?
雑踏の中。見かけた横顔に思わず唇からは名前が、溢れ落ちた。
御堂筋の声に気付いた彼の人は不思議そうにしかし優しく溌溂とした表情で笑う。





イマココノセカイ






「もしかしてスランプってやつなのか?」

アキラ?と自分の顔を覗き込んだ男はどこか楽しそうに笑っていた。
レースが終わった後の控室。そこにいるのはチームのエースである御堂筋と、今の御堂筋のアシストを務める選手の二人だった。
彼はシャワーを浴びた後の短い髪を拭いながら御堂筋の前に立っている。精悍で人情に篤いストイックな選手。それが彼の世間からの評価だったが今日は何故か軽薄な笑みで彩られている。
しかしそれも無理のない話だ。
それはいつも暴君としてチームに降臨し(とはいっても学生時代ほど向こう見ずで唯我独尊ではもちろんない)優勝を?ぎ取ってくる御堂筋がどこか精彩を欠いた走りをし、そして結果も散々だったこと。加えて普段は何処から湧いてくるんだと言わんばかりの自信にあふれ、大言壮語を吐く御堂筋が珍しく落ち込んでおり、溜息なんぞを吐いている。その状況をどうやら彼は心配を通り越して楽しんでいるらしい。
勿論それは彼だけではない。他の選手も御堂筋を怒るというよりも御堂筋のどこかしおらしい様子を楽しんでいるのだった。
尤も、チームのオーナーたちはそうはいかないのだが。

御堂筋は楽しそうにしている相棒に辟易としながら、眼を逸らす。
そして虫を追い払うように手を振った。

「そんなんとちゃうわ」
「へーえ?じゃあどうしたんだ?」

朝の練習までは絶好調だったじゃないか。
にやにやと、笑う彼に御堂筋は眉を顰める。すれば彼は肩をすくめながら続けた。

「さてはレース前に彼女に振られたとか」
「そんなんおらん」
「わかってるさ。冗談に決まっているだろう?お前の恋人はデ・ローザだもんな」
「......」
「わかったわかった、無用な詮索はやめておくさ」

でも、何か力になれることがあればいってくれ。俺は一応お前の相棒なんだからな。

そういって笑った相棒に御堂筋はさき帰るわ、と言い残すと立ち上がった。そしてロッカールームからでて、なるべく人のいないルートで出口に向かう。
大理石の張られた廊下に靴の音が反響する。かつんかつんかつん。その音を聞きながら御堂筋は今回のレース前の出来事を思い出す。

『ニューフェイスのジャパニーズが、ひとり入ったらしい』

そう、口にしたのはチームのキャプテンである選手だった。
優勝候補の、御堂筋の所属するチーム。そこに肉薄する可能性があるチームのデータを彼はいつも試合前には共有をしてくれる。
御堂筋としてはそれらの情報は勝利を組み立てていくうえとても重要だと考えているため、普段は真剣に聞いているのだが。

(日本人?)

思わず御堂筋は首を傾げていた。
というのも以前よりも自転車競技は日本でもメジャーになってきているとはいえ、ヨーロッパでプロとして活躍できるレベルにはまだまだ十分に達しているとは言えないから、自分以外の日本人がこのフィールドで走ると思っていなかったからだ。
そして何よりも海外をフィールドとするプロの壁は相当に高い。
同時期で言えば福富などが代表選手となるのだろうが彼はプロになることもなく、日本の実業団で走っている。
他もほとんど同じ状態だ。
そんな中日本からプロとなって一人、この欧州に来ているだなんて。
試合で見つけたらからかってやろう。日本人はこの欧州では嫌に目立つからすぐに見つけられるだろう。
そんなふうに考えていたのだが。

『御堂筋』

試合会場、レースが始まるまでの時間を待っていた時。
目に飛び込んできた人物。その時反射的に零れ落ちた、名前。
それは忘れもしない、御堂筋が高校一年生の時、部活のキャプテンを務めた男。

『石垣くん』

そこからは正直散々だった。
試合中、ライバルチームのエースのアシストとして走る石垣はレース終盤に来ると必ずと言っていい程御堂筋の視界に入ってきた。
石垣が視界に入ってくる度、御堂筋は何故か無性に苛立った。そして彼を振り払うために計画外の加速をしたり、過剰なオーバーペース状態となったが故、速さを急激に緩めるなどレースの配分がガタガタになった。
それはいつも合理的で効果的なレース展開を常とする御堂筋を全面的に信頼をしているチームメイトが珍しく御堂筋を咎めたくらいだった。

しかしそんな御堂筋の混乱をよそに彼はといえば御堂筋とは反対に淡々とエースの指示通り車体を進めていた。
力強い踏み込み。どんなに辛い場面でも足を緩めず妥協しない姿勢。
まっすぐに伸びた背中。精悍な表情。
時々後ろを伺い、敵チームとの距離を測り、エースとコミュニケーションをとる姿。
それはあの夏から何も変わっていなかった。
高校一年生のインターハイ。暑い夏の日。二人で走った道。その間ずっと御堂筋の前を走り、自分を導いた背中。

それは自分が捨てたものでもある。

夏が終わってから自分より二年先に学校を卒業する石垣のことを御堂筋は、徹底的に遠ざけた。
それはあの夏で石垣の御堂筋のアシストとしての役割が終わったからであり、必要がなくなったからだ。
そして同時に石垣は御堂筋にとってひどく都合の悪い人間でもあったからでもある。
御堂筋はその当時から石垣が視界に入ると心がひどく乱れるのを感じていた。
イライラするし、腹がたつ。そしてそんな自分に御堂筋は酷く困惑をしたのだ。
自転車と自分しかいらない世界で、自分の心を乱す異分子。
それが石垣光太朗だった。
だからこそ、御堂筋は石垣を、排除したのだった。

彼がいなくなった世界。
それはどこか喪失をもたらしたが、その感覚もすぐにふさがり、また以前の快適な世界に戻っていたというのに。

と、足音が変わる。
大理石の廊下から、コンクリートに変わったと思ったと同時に御堂筋の眼前に広がったのは真っ赤に染まった夕暮れの世界だった。
それを御堂筋は見上げながらため息をもう一つ。
どこか世界の見え方も違う気がする。
それは自分が負けたからか。それともー。

「くだらん」

御堂筋はそう自分に言い聞かせると、一つ空に向かって伸びをする。そして出口付近に止めてあった愛車にまたがり、暮れて行く街に飛び込んでいった。



+ + +



「時々、思うんよ。御堂筋の目には何が見えているんやろうって」

それは何時だったか。
夏の前か、夏の真っただ中か、夏の終わりか。
しかしいずれにせよ、過去の話であることには変わりはない話だ。
御堂筋は高台の上に立っていた。
その傍らには二台の自転車が止まっている。そして御堂筋の隣には一人の男が立っていた。
恐らくその時御堂筋とその男―石垣は他の部員たちがこの高台まで上がってくるのを待っていた。
京都の町が一望できる展望台。
僅かに日が傾きかけている所為で赤い光が家々の壁を焼き、黒い影が家々の間に落ちており、普段よりもいっそう町は立体的に見える。
それを御堂筋が眺めていたところ、隣の男がそう、声をかけてきたのだった。
御堂筋は石垣の言葉に一瞬だけ石垣に視線を向けた後、また街並みの方へと視線を戻す。そして言葉を紡いだ。

「別に変わらん。京都の街が見えとる」
「まあそうなんかもしれんけど」
「それ以外に何が見えるっていうんかなァ?オバケ?キミ、そういうん信じとるん?」
「そういう意味やないよ」

石垣は少しそこで言葉を切ると、短く息を吸った。
そして秘密を話す様に、言葉を続ける。

「お前はすごく遠くを見とる気がするから」
「遠く?」
「未来とか、夢とか、目標とか」

今、この場所のことなんて視界に入っていないんやろうなあって。

御堂筋は石垣の言いたいことがわからず、首を傾げる。
しかしその思考を追うことも面倒だ。
そもそも石垣の感傷等御堂筋には関係ない。
御堂筋は前を向いたまま、キモいと小さく呟く。

「イマココなんてただの通過点やろ」
「……」
「キミも下らんこと言うんやね」
「……」

「今なんて、どうでもええ」

少しでも早く未来へ。
未来の先にある栄光へ。
自分の目指している世界へ。

迷いなく、間髪入れずにそう返した御堂筋の、言葉に。
石垣はそうかと、返しただけだった。



+ + +



「絶好調だな」

ミーティングが終わり、各自が自分の練習メニューをこなすためにミーティングルームを出ていく。
そして、室内に御堂筋と二人となったとき、御堂筋の隣でニュースペーパーを読んでいたチームのキャプテンが、唐突にそう言い放った。
その言葉に御堂筋はのっそりと顔をあげ、そして大仰に眉を顰める。
というのも御堂筋は彼が口にした言葉の意味を理解することができなかったからだ。

端的に言えば今の御堂筋の状態はその言葉のまさに正反対。
昨日も御堂筋はレースで勝つことができなかった。
意識も何処か散漫としておりレースに集中していたとはお世辞にも言うことができない。
戦略のペースもガタガタ。走りにも精彩を欠き、いつも相手を煽り自滅を誘う御堂筋が殆ど黙り込んでいたのだから相当重症だった。
傍若無人でぶれることのないチームのエース。
そんな御堂筋の不調を初めはチームメイトも揶揄して楽しんでいたが最近はどうやら笑えない状態だということを悟ったらしい。
狂った調子は狂ったまんま。
しかし誰もそんな御堂筋に踏み込めないでいた。
そして誰よりも御堂筋自身もこの状況をどう打破すればいいのかよくわからず悶々としていたのだが。
そんな状態にある御堂筋に掛けるべき言葉。それにしては彼が口にした言葉はどう考えても不適当である。

「ハァ?笑えへんなあ。嫌味なんかナァ?ソレ」
「嫌味?」

彼はそういうと首をかしげた。そしてああ、と得心がいったようにお前のことではないさと呟くと手に持っていたニュースペーパーを御堂筋の方に差し出す。
そこには、昨日のレースを制したチームのエースがでかでかと印刷をされていた。
ゴールに両手を上げて飛び込んだ男。その後ろ、小さく御堂筋や他のチームのエースの姿もある。
しかし御堂筋の目に止まったのはその写真ではなかった。
大きく映ったエースの写真。その右下にあったそんなに大きくはない写真。それが御堂筋の目に飛び込んできたのだった。
そこに映っていたのは二人の選手が肩を組み、満面の笑顔を浮かべている写真だ。
ひとりは優勝をしたライバルチームのエース。そしてもう一人はそのアシストをした日本人の――。
気付けば反射的に御堂筋はそのニュースペーパーを払いのけていた。意外と強い力が入っていたらしい。新聞は彼の手から離れてばさり、情けない音を立てながら地面に落ちる。
それをどうとったのか。彼は苦笑しながらその新聞をひろいあげる。そして、ニュースペーパーを広げると御堂筋が読むことを拒否したその内容をゆっくりと読み上げた。

最近好調な要因は何と言っても最近日本から来た石垣光太郎によるところが大きいだろう。彼はあの気難しいエースとうまくやり、チームとの橋渡しを果たしている。そしてその走りはひどく真面目でオーダーされた通りにしっかりとひききるという。そこには妥協も手抜きもない。「彼がいなかったらうちのチームの快進撃はないでしょうね」チームの広報はそう語る。「彼は強いだけではない。性格がとにかくいいんです。彼が来たおかげでチームの一体感も出てきました。エースなんか光太郎のことがお気に入りで(笑)」

「彼、なんだろう」

そういうと彼は御堂筋の横にその新聞を投げ出した。
ちょうど石垣の顔が載っている場所が見える。
御堂筋はそれに何も返す言葉がなかった。
彼は、少し得意げに笑うと続ける。

「別にお前の不調の原因が体調に関わることであるならば甘やかして静養を進めるが、おそらくそうではないのだろう。顔に書いてある」

いつまでも腑抜けエースだと、困るんだよ。

彼はそういうと立ち上がり、先ほどのミーティングで使っていた資料を片付け始めた。
御堂筋はそれを横目に見ながら音を立てないようにして新聞をそっと持ち上げる。
そこに記された文面。写る彼の笑顔。
そこから御堂筋の胸の内にはかつての夏の景色が蘇る。
そこにあった思いも、感情も。諦めたものも、気づかないふりをしたものも。

ため息をつき、顔を上げる。
すれば眼前でキャプテンの男が実に楽しそうに目を細めている。
御堂筋はバツの悪さを感じながらごまかすように彼の顔面に新聞を押し付けた。
がさり、と軽い音が、狭い室内に響く。

「キミって」
「なんだ」
「ええ性格しとるよ」

御堂筋がそういうと、彼は嬉しそうにそれは光栄だと笑った。



+ + +



「鬱陶しいくらいよお晴れとるなあ」

空は抜けるような快晴。雲一つない。
そこを御堂筋は走っていた。ゴールがどこにあるのかは知らない。しかし続く道をまっすぐに。
この道の上には他の姿もない。この道が正しいのか。そんなことは考えたことはない。しかし、この道を歩む時に決めた道だ。正しいも間違っているも自分の判断でしかない。
ただまっすぐに。全てを振り払ってでもまっすぐに全速力で。

「        」

ふと、声が聞こえた気がして、思い立ち後ろを振り返った。
自分の後ろには今まで自分が走ってきた長い道のりが横たわっている。
平坦な道もあれば、そうでない道もあった。登りもあればくだりもあった。
しかし、やはりその道の上には誰もいない。自分以外の誰一人も。

自分の前の道も、後ろの道も。
地平線までただただ道が続いているだけで、それ以外には何もない。

(いや)

それでも、ひとりだけ。
自分と一緒にこの道を歩んでくれた人がいた筈だった。
歩んだ、というのは適当ではないだろう。
少しだけ並走した、というのが正しい。
御堂筋の道の上に少しの時間だけ現れ、そして御堂筋になんの断りもなくいなくなってしまった人物がたった一人。

赤い自転車。まっすぐ伸びた背中。肩越しに振り返った時の表情。

そこまで考えたところで御堂筋は思い出す。
そうだ、彼はいなくなったわけではない。自分は置いてきたのだった。
自分と、唯一共に同じものに向かって走ってくれたその人を。

自分の世界に初めて足を踏み入れてくれたその人を。
自分の事を認め、自分と同じものを見ようとしてくれたその人を。

それは確か、恐怖の感情から来たものだった。
彼を求めて、それに応えてくれなかったとしたら。
その時に何か喪失感を覚えるくらいならば、始めから求めなければいいとそう思ったのだ。
それなのに―。

「ええかげんにせえよ、キミ」

御堂筋は空を仰ぐ。
そして続く空の下、他の「未来」を追いかける世界軸にいるであろう、男に御堂筋は小さく舌打ちをした。



+ + +



「御堂筋」

それはあるパーティーの会場でのことだった。
ロードレースの振興を銘打ったパーティーで各チームの代表選手が一堂に会する場。
そこの会場の廊下の死角になるところで御堂筋は一人の男と向き合っていた。

記憶の中にあるよりも大人びた表情。
身長はあまり変わっていないようだったが体格があの時よりも明らかにしっかりとしていることはダークでストライプラインが入ったスーツの上からでもはっきりとわかっる。
そしてまっすぐで大きな目はあの時と変わらずに御堂筋のことを見上げていた。

そんな男のことを御堂筋は彼の腕を掴んだまま、壁に押し付けていた。
切っ掛けは化粧室に行こうとパーティーの会場を出た時だった。
同じように化粧室に行き、そして会場に戻ろうとしていた石垣と御堂筋はばったりと出くわしてしまったのだった。

『お前もこういうところくるんやなあ。お疲れさん』

石垣はそういうとひらりと手を振り、御堂筋の横を抜けていこうとした。
なんてことのない、やり取り。そして敵チームの選手がとるとすれば自然な態度。
しかしその瞬間、御堂筋は自分の中で感情がささくれ立つをの自覚した。
だがそれは石垣の態度に腹が立ったのでは毛頭ない。
彼が、これから会場に戻り、チームの輪に戻るのだということに。
そして、エースの「アシスト」として振る舞うだろうその事実に。

 『石垣くん』

御堂筋は反射的にそう、彼の名前を呼ぶ。
その声に石垣が緩慢に振り返る。
その一瞬前、御堂筋は石垣に手を伸ばした。
そしてその腕を掴み、強引に壁に押し付ける。
石垣は御堂筋の突然の行動に驚いたように目を見開き、そしてぎこちなく笑った。
石垣の瞳。その中には真剣な鬼気迫る表情で彼を見据えている自分が写っている。

「どうしたん」

石垣は突然腕を取られ、そのまま壁に押し付けてきたとこがじっと押し黙ったまま、まるで人を殺しそうな表情をしていることに若干違和を覚えたのだろう。
首を傾げながらも、かすれた声で石垣は御堂筋に質問を投げかける。
しかし御堂筋は押し黙ることしかできなかった。
というのも、先程感じた苛立ちから彼に自分が何を望んでいたのかということをはっきりと自覚したからであり、その後に続けるべき言葉を図りかねたからだった。
まったくもって気付くのが遅すぎる。
その望みが芽生えたのは、そしてこの内に抱いていたのはそれこそ、高校生の時からであろう。
共にインターハイを走り、同じ目標に向かって二人で走った、そうきっとあの時からだ。
だが、御堂筋は今までずっとその感情に蓋をしていた。
気付かないようにしていたのだった。

< 自分はずっと石垣を求めていた、必要だと思っていた。
ずっと自分のアシストをして欲しいと思った。
同じ景色をずっと見ていたかった。自分の未来を、一緒に見届けて欲しかった。
しかし同時にそれを可能とする唯一の存在である石垣のことを失いたくもなかったのだ。
だから手放した。
それなのに、今同じ世界にいて、他の選手のアシストをし、その選手と同じ未来を見ていることに自分は苛立っている。
なんて勝手なのか。そういわれても言い返すことはできない。それでも。

御堂筋は愕然とした気分でじっと石垣のことを見つめていた。
すればそんな御堂筋の微妙な表情に気付いたのだろうか。やがて石垣は警戒の色を解くとふわりと相好を崩す。
そしてゆっくりと口を開いた。


「やっと、見てくれたな」


「……ハァ?」
「はは、すまん。お前の眼にオレがうつっとるのが嬉しくてな」

そこで一度言葉を切ると、石垣はひとつ息を吐く。
そして続けた。

「オレな、お前と見た景色が忘れられんでもう一度同じ景色を見たいとおもっとたんや。でも高校時代、ずっとお前は先の方ばっかりみとったから。まずはお前の視界に入らんとあかんと思って一生懸命頑張ったんよ」
「ボクの、視界?」
「そうや」

彼は誇らしげに笑う。

「敵味方でもええ。でもオレはお前がいる世界で、お前の目指す未来に向かって一緒に走りたいんや」

石垣のその言葉に。
御堂筋は急激に激しい眩暈を覚えた。
御堂筋は自分が自分と同じ道を歩まないだろう石垣を忘れるために捨てたというのに。
この男はあの夏に触れた御堂筋の見る景色を見るために、その為だけに努力をしこのフィールドにやってきたとでもいうのだろうか。
本当に石垣という男は御堂筋の思考の斜め上を行く。馬鹿で、阿呆で―。

「キミって…高校時代と全然かわっとらんのやねえ」
「そうやろうか?」
「ほんまキモいわ」

お節介で、面倒くさくて、自分勝手で。そして黄色いところもなにもかも。

御堂筋ははあ、と息を吐き、動揺を追いだす。
そして石垣に向かってにやりと笑みを描いて見せた。

「石垣くん」
「おう。何や御堂筋」
「世界最高峰、連れてったるわ。ついてき」
「敵でも?」
「敵でも」

キミが望むのがボクの描く夢であり、その為に同じ道を走ってくれるというのであれば。
どの立場であろうと、御堂筋としてはもう離す気はない。
最後、世界の果てがあるならその場所まで。
そしてその時はその眼に見えた景色についての感想を一番に教えてくれたら。

(ここ最近の悩みはなんだったんやろうねえ)

今までの苛立ちも焦燥も全てをこうも簡単に打ち払った石垣に御堂筋はただただ呆れることしかできない。
それでもきっと、今以上に速く走れることは間違いはない。
だって、石垣光太郎は御堂筋翔にとって。


「ほんと、キミはボクにとって最強のアシストや」



+ + +



「速いなあ」

眼前に広がっているのは青い空だった。
そして地平の果てから伸びるのは灰色の一本道の道路だ。
その道路の真ん中で石垣は額に手を翳しながら遠くの先を見通す。
しかしその一本道には他に誰の姿もない。
否、正確には既に一人の人間が地平の果てまで走り去った後なのであった。

今まで、ぼんやりと走っていた道の上。
そこを想像できないような速さで一台の自転車と一人の人間が走り抜けていった。
彼は自分を見なかった。
道の途中で出会い、少しだけ並走した自分の事を振りかえることもしなかった。
その背中を、ただ自分は見送ったのだ。地平の先にその背中が消えるまで。

忘れればいい。
誰かは石垣にそういった。
事故の様な、出会いだった。それこそ流れ星の様な、彗星の様な。
だから忘れてしまえばいいと、そういわれた。
忘れてしまうのは恐らく簡単だ。
彼が走り去ってしまったこの道に背を向けてしまえばいい。
それ以上でもそれ以下でもない。それでこの世界は閉じてなかったことになる。

しかし、幾ら考えても石垣はこの世界をなかったことにできなかった。
だって知ってしまったのだ。あの夏の日に。
彼が生きる世界がどれだけ美しく、悲しくも素晴らしい世界なのかということを。
彼の住む世界に行きたい。同じ世界に居たい。彼の世界に存在を許されたい。
その為に幾つの重なり合った世界を越えていかなくてはいけないとしても。
段々のように重なり合った世界を登って行かなくてはならないとしても。
あの光のようなスピードで走る彼に追いつくために全力を尽くさないといけないとしても。

「どこかの世界で、またお前と走りたい」

だからどうか。 もう一度あなたとどこかで世界が繋がったその時には。
その美しい大きな目に自分の事を一瞬でもいい、映してくれないだろうか。

覚悟をもって一歩を踏み出す。進み始める赤い車体。加速して後方に流されていく世界。
道のりは恐らく平坦ではない。
しかしその動きは酷く軽やかで―。









material:Sky Ruins