キミの手にかかればなんだって
溶けて消えて。それは初めからなかったように。





メルト






「この前、井原の新居に行ったんやけど」

石垣は御堂筋の前に麦茶の入ったグラスを置きながら、そんな風に話をし始めた。
湿度の高く、暑い日本に帰ってくるのは久しぶりで、京都駅から石垣の住むマンションにたどり着くだけで御堂筋はすっかりと疲れてしまった。
暑いのはまだしも、湿度の高いのはどうにもいけない。
御堂筋が石垣の家について、ソファに座ったタイミングで稼働をし始めたクーラーは部屋の温度を下げるには至っていない。
石垣は、迎えに行く前にクーラー入れとけばよかったなあなどと暢気なことを言いながらせめて、少しでも御堂筋の熱さを緩和しようとそう思って出してきたのがいっぱいの氷と麦茶の入ったグラスだった。
透明なグラスに入った茶色の透明な液体は、涼しげに氷を揺らしている。そしてグラスの表面にびっしりと浮いた水滴はその中身が冷たいことをはっきりと示している。
御堂筋はそのグラスを掴むと、喉に一気に流し込む。ひやりとした液体が喉を伝って、胃の中へと落ちていく。そんな御堂筋の様子を彼は楽しそうに目を細めて眺めていた。

「井原くぅんはあのかわいい奥さんとうまくやってるん。結婚詐欺にあったんやないかと思っとったけどな」
「酷いな、ちゃんと仲良うしとったよ」
「それならよかったんちゃう」
「そやな」

井原の奥さんめっちゃ料理上手でな、水田が羨ましがっとって。
辻は自分の方がうまいから、拗ねて奥さんが作らへんようなったんやって。
ヤマはまだ独身やから、相手いるだけええやないですかっていうとって。
そんなことを石垣は一通り御堂筋に説明をする。御堂筋は別に聞いていないと思いながらも、そんなことを言わずに黙って石垣の言葉を聞いている。

石垣も別に御堂筋に話を聞いてほしいだけで、その中身を理解してほしいとか相槌を打ってほしいとかそんなことは思っていないのだ。
石垣が仕入れてきた京都伏見のメンバーたちの報告が終わり、御堂筋がグラスの中身を空にしたのに石垣が気付いたところで、マシンガンのように話していた石垣の言葉は止まった。そして、空になったグラスを持って台所に戻り、麦茶を注ぐ。
すれば丁度、麦茶と氷のバランスがちょうどよくなっており、なるほど、始めに氷をあんなに大量に入れたのは二回目の氷の補充を省くためだったのかと、石垣の大雑把さに妙に納得してしまう。
石垣はグラスをもう一度、御堂筋の前に置くと、机を挟み、御堂筋の前に座った。
机に頬杖を付きながら、彼はいつも通り楽しそうに笑っている。

「そこで、みんなで理想の老後について話してな」
「理想の老後、ねえ」
「うん。井原は孫に囲まれて楽しく笑っていたいとか、辻は奥さんと猫を飼ってのんびりしとりたいとか」
「ふうん。で、キミィはなんて答えたん」

御堂筋の問いに石垣は、オレはなあと言葉を続けた。

「孫が五人くらいおって、一緒に庭でスイカ食べたりしたいなあとか」
「まあキミらしいな」
「一人くらい自転車に興味持ってくれんかな、一緒に試合見に行ったり」
「ふうん」
「お小遣いねだられたらお母さんに内緒やよ、って渡したり」
「それあかんやつちゃうの」
「そうかなぁ」

孫には好かれたいやんか。
石垣はそういうと、自分用のグラスを手にし、煽った。
からん、と氷が音を立てる。
石垣は中身を半分ほど飲み干すと、結露した水が水たまりのようになった場所にそれをもう一度置いた。

「御堂筋は」
「は?」
「御堂筋は、理想の老後、ないん?」

石垣にそう問われて御堂筋は眉を顰めた。
というのも、老後のイメージ事態が上手く描けていない自分に気が付いたからだった。
そもそも、御堂筋の中に「老後」という概念がない。
母親も早くに死んでしまったし、あまり親戚付き合いがあったほうでもなかったため、久屋の家しか御堂筋は知らない。
そこには息子の嫁に世話をされている祖父のイメージしかなかった。
石垣の言う、孫との交流をする祖父の姿も、おこづかいをせがむようなことも一切イメージにはない。
もっと言ってしまえば、母親の年齢を追い越して生きている自分のイメージも良く、湧いていないというのが正解だった。
そして自転車を降りて生きている自分の姿さえも。

「理想も何も、老後の生活のイメージすらないわ。歳とっとる自分なんて全く想像できひん」
「ふうん、じゃあ理想の最期とかないん?水田は一人で死にたくないから、奥さん見つけたいいうとったけど」
「理想の最期なあ」
「うん」
「でもそやね、自分が死ぬ時、誰かが悲しむんやったら一人でおって、一人で死ぬほうがええな」

あの夏。母親を失った夏。
ひとりで虚無を耐えたあの体験。
それをもう一度体験するのも、誰かに強要することも。
それはきっと、違う。

御堂筋の言葉に、石垣は不思議そうに首を傾げた。

「なんで」
「なんでって、誰かに残されるんも、誰か残すんもいややし」
「ふうん」

納得したのか、それともしていないのか。
御堂筋はグラスを手に取る。ちりり、幾らか小さくなった氷の粒が先程よりも高い音を響かせる。
口の中に紛れ込んできた小さなかけらを、歯で噛み砕く。
少し密度が緩んでいたのか、それはあっけなく口の中でくだけた。
と、その時だった。


「だったら、一緒に死のうや」


明瞭に響いた石垣の言葉に、御堂筋は思わず顔を上げる。
そしてハァ?と言葉を返した。
この男は今、なんといったのだ。
御堂筋は呆然と石垣の方を見つめる。
石垣はそんな御堂筋に気にした様子もなく、だって、と言葉を継ぐ。

「一緒に死んだら誰を残すとか残されるとかないやろ」

名案やろ?
そう、にっこりと笑う石垣に御堂筋は眩暈を覚える。
何を言い出すのだ、この男は。
御堂筋は頭を抱えながら、深くため息を吐いた。

「キミ、アホやろ」
「アホちゃうわ」
「一緒に海入って?」
「毒薬飲むんでもええよ」
「電車飛び込んで?」
「車で崖から落ちてもええし」
「キミ、メンヘラやね」
「メンヘラちゃうわ」

「だって、お前と年取って縁側座って、お茶飲んどるイメージよりそっちの方がしっくりくるやろ」

孫に囲まれて幸せそうに笑っているイメージより。
その隣にお互いがいないことより。
かといって、お互いが働けなくなったり自転車に乗れなくなった先の世界で手を携えて共に生きている姿より。
よっぽど美しくて、よっぽどリアリティがあって。
そして。
そこまで考えたところで御堂筋は大仰にため息を吐いた。
石垣は、楽しそうに笑っている。
本当にこの男は自分の斜め上を行く。
しかし、この男がそうと決めたときはそれを貫くことを御堂筋は嫌という程に知っていた。
高校一年のインターハイ、自分のアシストに徹すると決めた時、彼はそれをやりきった。
そして自分を支える礎になりたいと決めた時、その役割をしっかりと果たした。
初めは男同士の関係を貫くことにしり込みをしていたくせに、彼の中で何か納得した時からその迷いは消え、御堂筋との関係に真摯に向き合ってくれている。
だとすれば、今回だってその言葉に嘘偽りはないのだろう。
御堂筋が、そろそろ死のうか、そういえば彼がきっとその行先が地獄であろうがきっとついてくる。
それが正しいのか、正しくないのかは知らない。
それでも、彼はそうするだろうという、確信めいた信頼があるのも確かなのだった。

御堂筋はソファから身を起こし、石垣の方に手を伸ばす。
途中、手が当たり、自分のグラスが倒れ、中身が机の上に零れた。
しかし、そんなことは気にせず、御堂筋は石垣に顔を寄せると彼の目を覗きこむ。
そこには、大きくまっすぐな双眸があり、御堂筋のことを見つめていた。

「石垣くん」
「なんや」
「そんなこと言って。知らんよ、ボク」
「うん」
「取り消すんなら今のうちやよ。そうやなかったらボク、キミのこと、きっちり連れてくよ」
「かまへんよ。お前に千切られてもついてくよ、オレ、お前のアシストやし」



どこまでも連れてってや。
そう、石垣は幸せそうに笑う。



引き寄せて重ねた呼吸の中、御堂筋は机の上にそっと視線をやる。
机の上に零れ、すっかり広がった液体。
縁からはぽたぽたと雫が垂れ、フローリングに水たまりを作る。
しかし、その中。
そこにはもう、形のあるものは何も残っていなかった。










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