「お疲れ様、です」
「おう、お疲れさん」

不安そうな顔で頭を下げる後輩に石垣は笑顔を向けた。
遠慮がちな視線を向けながら後輩は部室の扉のノブに手を掛ける。
扉が開き、もう一度しまる。
そして徐々に足音が遠ざかっていき、それが段々と小さくなりそして聞こえなくなったのをしっかりと確かめたところでようやく、石垣はため息をついた。
今まで何人に対してそうしただろうか。
しかしそれもこれで全員だ。
今部室を出て行った後輩で、最後。
後輩や同輩を含め全員帰宅し、部室に残っていたのは石垣と、辻だけだった。

石垣と二人だけになって、ようやく辻も肩の力が抜けたのを自覚し、ふらふらと部室の真ん中にあるベンチに座った。
そしてゆっくりと息を吐く。
今日は怒涛の1日だった、と辻は思う。
仮入部にやってきたと思った新入生。長身でスラリとしていて、少し暗い雰囲気の男が、突然言い放った言葉。
突如始まったレース。
その勝敗。
そして。
同じことを考えていたのだろうか、石垣はしばらくじっと虚空を見つめると、彼にしては珍しく再びため息をついた。
そしてに、と辻に笑いかけた。
先程まで部員に見せていたものと打って変わりその表情が少し、ひきつっているような気がしたが気付かないふりをした。
感情を表面に出さないことは、得意分野だったからだ。
石垣は自分に言い聞かせるように、続ける。

「しゃーないよな、自分の部のエースがようわからん新入生に惨敗して、部活乗っ取られたんやから不安やろな」
「そうやな」
「負けたオレが悪いんやし、みんなが不安にならんようにどうにかせんとあかんな」

明日からオレ、頑張るわ。
石垣はそう言うと辻に背を向けてロッカーの方へと足を向ける。
足取りは揺るぎない。そして佇まいは平然としている。それでも何故か辻の目にはその背中がどこか小さく見えた気がした。
けして、大柄ではない、石垣の背中。
それでも迷いなく、強い意志を持ってチームを率いるその姿に弱さや、頼りなさを感じたことはなかった。
しかし、それが揺らいで初めて彼はその大きくない背中で自分たちの全てを背負っているのだと、改めて辻は思い知る。
後輩からの憧れも、同輩からの信頼も、先輩からの期待も。
たった一人で。そんなことを悟らせもせずに。
何のためのチームメイトだ、と辻は奥歯を噛む。
部長は、エースは確かに石垣だった。それでも、同じ学年の自分達はその脇を支えてやらなくてはいけなかった。
それこそ、彼が揺るがないように、しっかりと足を地面に突っ張って。

辻はそう思うといてもたってもいられなくなり、座っていたベンチから立ち上がると石垣の後ろに立った。

「石やん」
「なんや、辻」

辻の言葉に石垣は振り返ると首をかしげた。
その大きな目の中に自分が映っているのを認め、辻は小さく息を吸う。

「これからこの部活がどうなってもキャプテンは石やんやし、俺と井原はお前んこと支えるんも変わらんよ」
「・・・・・・」

「だからあんま背負い込むな」

そういうと辻はぽん、と石垣の肩に手を置く。
石垣は驚いたように辻のことを見上げていたが、次第にきゅう、と表情を歪めた。
そしてみるみるうちにその大きな双眸が濡れ、そこから大粒の涙がこぼれ落ちた。
顎と伝って落ちた雫は石垣のサイクルジャージの胸元にぽたぽたと滴り、黒いシミを作る。
石垣は慌てて誤魔化すように笑顔を作ろうとしたがそれもうまくいっていない。
その痛々しいまでの笑顔に、辻は思わず石垣の腕を引いた。そして石垣を腕の中におさめると、左手で自分の肩口に石垣の顔を引き寄せる 。

知っていた。
彼が誰よりも悔しいことを。
負けず嫌いで、努力家で、プライドが高いことを。
この部活を誰よりも愛し、誰よりも大切にしていることを。
誰よりもあの座を、取られたくないと思っていることも。

石垣はしばらく驚いたように息を詰めていたが、やがて辻の肩にぎゅうと顔を押し付けた。
そして聞こえてくる押し殺したような泣き声。熱い呼気と涙が次々と辻の肩口にしみ込み、じわりと熱を広げる。
それを辻は受け止め、やさしく石垣の背中を撫でてやった。
石垣の肩は僅かに震えていた。そして辻のジャージを掴む手も。
彼の、受けた傷と、絶望の大きさ。
それを辻は改めて思い知る。
そして、この夏をかけてそれを共に乗り越えていかなくてはいけないことも。

「辻、すまん」
「ええよ、気がすむまで泣き」

明日からまた、彼は笑顔で部員のために奔走するのだろう。
それでもいい、それでも。
自分が一人ではないことを、どうか。


誰も知らない彼の涙。




月だけが知っていた








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