たまには人に優しくする、
そんな日があってもいいでしょう?









やさしいよる








定時はとうに過ぎていた。
石垣は欠伸を噛み殺しながら眠気を覚ますために給湯室でコーヒーを入れていた。
給湯室に設えられた小さい窓から見える景色は既に闇に沈んでいる。それを見ながらそういえば最近明るい時間に帰ったことが全くと言っていいほどに無いことに石垣は苦笑した。
下期に入って半月ほどが経過し、業務の先行きが見通せるようになってきたのに伴い残業も増え、なかなか早く帰ることができていない。新人だった時はいくら無茶をしてもなんとかなっていたが、疲れが蓄積している所為か、はたまた認めたくないが歳のせいかなかなか体力的にも堪える。
この進行状況であればあと二時間くらいで終わるだろうか。そんなことを思いながら、安い味のするインスタントコーヒーをすすっていた時だった。

「ん?」

スーツのスラックスに入れていたスマートフォンが鈍く振動した。
短い振動で止まったため、電話ではなさそうだ。
こんな時間に誰だろうか。同じように東京に出てきている友達からの飲みの誘いだろうか。
そんなことを思いながらスマートフォンを取り出す。すればメールの受信ボックスの上に見慣れた、とはいってもほとんど相手からはメールを送ってくることがない同居人の名前が表示されていた。

『キミの会社の側まで来たからすぐ出てこい、腹減った』





「遅いで、石垣クン。もっと早く降りて来れんの」

慌てた様子でエントランスの自動ドアを抜けてきた男に御堂筋は声をかけた。
恐らくメールを見て、急いでパソコンを切り、出てきたのだろう。スーツの上着とカバンを小脇に抱えて、彼ー石垣光太郎は声をかけた御堂筋の方へと視線を向けると、手で謝るようなジェスチャーをしながら、御堂筋とその隣に止まっているデ・ローザの方へと足早にやってきた。

「悪い悪い。これでも急いだんよ」
「知らんわ。来いって言ったらすぐに来い」
「もう学生じゃないんやからそんな無茶言われてもなぁ」

石垣は御堂筋のそばまで来るとお疲れ、と笑った。

「珍しいなあ、お前がここら辺におるの」
「自転車のメンテナンスするのに必要なものがあって買いに来たらちょうどキミの会社の近くやっただけや。そんなことどうでもええ、ボクゥ腹減ったんやけど」
「ああ、せやったな。なんか食って帰ろか」

なにか食いたいもんあるか?
石垣は首を傾げながら御堂筋の顔を覗き込む。
保護者面をする石垣の態度に辟易しながら御堂筋はため息をついた。

「・・・キミが好きなもんでええよ」
「オレ?」

石垣はきょとんとした表情で御堂筋を見た。
それもそのはずだ。
御堂筋が他人の意見を尊重するということはほとんどないからだ。
特に石垣の中には高校時代の御堂筋の印象がかなり強く残っている。あの時期は自分の意見を通すやり方しか御堂筋はとっていなかったため、驚くのも仕方がないことだ。
石垣は一瞬、虚空に視線を向け、やがておずおずといった様子で言葉を続けた。

「そんなこと言ったら中華になるで」
「キミィなんであんな油っぽいもん好きなん。理解出来ひんわ」
「じゃあ、止めよか」
「イヤやなんていうてへんやろ、せめて美味しいとこにしてな」
「お前ほんとめんどくさいな」

じゃあ、いこか。
石垣が歩き出した後ろを御堂筋は愛車を押しながらついていく。
揺るぎない足取りを見る限り、どうやら行く店は決めているようだ。
その背中を追いかけながら、御堂筋は一人、思う。

(今日はたくさん食わせんといけん)

ここ最近も石垣は帰宅が恐ろしく遅かった。
そして見ている限り家で夕食と朝食を摂っている形跡がない。
石垣は料理をほとんどしない。
するとしてもパックから何かを出したり、最低限味噌汁を作るくらいの程度だ。何度か料理(といっても豆腐を切ったりする程度だが)をしているところを目にしたが、その手つきは非常に危なっかしく、到底料理を作れるレベルではなかった。
それに加え、一緒に暮らして初めて知ったことだがどうやら石垣は食事に関して執着がない。
自転車をしていた学生時代はかなり気を遣っている印象を受けたが最近は運動人として体を作る必要がないのと、食事に時間と労力をかけるくらいなら一瞬でも長く睡眠をとりたいという優先順位で生きているようだ。
一応活動できているということは昼ごはんはそれなりに食べているのだろうが、それでも1日1食というのはあまりにもバランスが悪い。
反対に、御堂筋は御堂筋で運動を生業にするものとして食事に関してはこだわりを持っている。自分で作ればいいのかもしれないが理想のカロリーや栄養素を摂取するには手間と時間がかかりすぎるのもあり、大抵は職場の仲間と食べることにしている。
その生活を基本的に崩したくはない、だが、と考えて思いついたのが今日の手段だった。
石垣の頼まれたら断れない性格を利用し、強制的に仕事を切り上げさせ、強制的に外食に連れ出す。
我ながら自分らしくない行動だとは思うが、まあ仕方がない。
そんなことを思いため息をついていると、少し前を行く石垣が御堂筋の方を振り返った。
そして嬉しそうに、笑う。

「御堂筋は何食べたい?」
「どうせキミは春巻やろ」
「当たり前やんか」
「ボクは回鍋肉と、青椒肉絲や。まあ麻婆豆腐は食うとくか」
「野菜ばっかやな」
「・・・誰のせいやと思うとるんかねえ」
「ん、何か言うたか」
「なんも言うとらんよ」

ほら、早よ歩きぃ。
怪訝そうな顔をする石垣に御堂筋は並ぶと、その背中を手で押した。


秋の透き通った空の下。
少しの優しさをもって過ごす夜。












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