二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。 そんな言葉ですんでしまえば簡単なのだろうに ハッピーエンドはまだ遠い#02 「荒北くん、料理上手いなあ」 そういうと石垣は嬉しそうに頬を綻ばせた。 1DKの少し散らかった石垣の部屋のローテーブルの上には所狭しと料理が並んでいる。 しかしそれらのほとんどがじゃがいもをベースにした料理だった。 じゃがいもとたまねぎの味噌汁、定番のおふくろの味肉じゃがに、じゃがいもをスライスしたものにミートソースとチーズを掛けてフライパンでカリカリに焼いたもの。そして乱切りにしたじゃがいもをレンジですこし火を通した後、同じく大きめに切った野菜とベーコンと一緒に炒めた野菜炒め。 それらを前にして満足そうに笑う石垣の前に最後の一品であるポテトサラダを置きながら荒北は石垣の向かいに座る。 「別にィ、そんな大したもんじゃないよォ」 「いやいや、こんな種類つくれるなんてほんま凄いわぁ。オレやったらじゃがバターくらいしか作れん!」 「それは流石にダメでしょ」 石垣はそうやなあ、とちっとも反省をしていないように笑うと、一応取引先さんにみせないと!と写真を一枚撮った後、お行儀よくいただきますと手を合わせ、まず肉じゃがに箸をつけ始めた。 そして美味しいなあ!と満面の笑みを浮かべる。 荒北は石垣のご機嫌ぶりに辟易しながらため息を吐いた。 『荒北くん、助けて欲しいんだけど』 そんなメールが荒北のPCメールに飛んできたのが今日のこと。 金曜日の定時の十五分前だった。 今日、石垣は午前中はオフィスで業務をこなしていたが、午後、資料とパソコンを鞄に詰め込み、得意先の営業の為に社外に出ていった。 出かけ際に書きなぐった行動予定表にはNRの文字。 金曜日の直帰とはなかなか羨ましい。内勤が多い荒北が羨ましく思っていたときに届いたのが石垣からのメールだった。 石垣が会社のPCにメールを送ってくることなどほとんどない。というのも荒北と石垣の業務領域が重なるということは皆無といっていい状態だったからだ。 そんな石垣からメールが届いた。それはよっぽど困っているということではないだろうか。 何か取引先と揉めたのだろうか、それともなにか急に必要になった資料でもあったのだろうか。 そう、ひやりとしながら慌てて「どうしたんですか」と返信したのだったが、程なくして帰ってきた石垣の返信に荒北は拍子抜けしてしまった。 『取引先の社長さんがご自宅で農園やってて大量のじゃがいももらったんだけどどうやって調理したらいいかと思って』 (確かに冷静に考えればさァ、何かトラブったらオレに連絡してこないよねェ) 自分のうかつさに荒北はうんざりする。 確かに務めている事業所は同じだが、荒北と石垣は部署が違う。 石垣はバリバリの営業部だし、荒北はどちらかというと開発などを行うチームに所属をしている。 事務や経費処理など共通するような業務でならまだしも、営業に出ている石垣が出先でトラブルに見舞われたとしても荒北では対応できないし、普通に考えて自分が何か問題を抱えたとしたら他の部署の課員ではなく、同じ部署の課員に助けを求める。 すれば彼が自分に助けを求めることといえば仕事以外のことだと自明であるというのに。 しかしそんな荒北の憂鬱をよそに石垣は能天気に笑う。 「なあ、どうやったらこんなに料理上手くなるん」 「大学時代自炊してたからだよ。慣れだよ慣れ」 「自炊かあ」 耳が痛いなあ、と石垣は言いながらポテトサラダに箸を伸ばす。 粗く潰したポテトサラダは芋の食感が程よく残っており、おまけに人参を混ぜてシャキッとした食感もプラスしてある。 本当は胡瓜も入れたかったがおそらく今日食べきれない量を作ってしまったため、痛むだろうことを考慮し混ぜるのは諦めて塩で簡単にしぼって上に乗せるだけにとどめていた。 適度なマヨネーズとちょっと多めの粗挽き胡椒(これも全部買ってきた)でピリとパンチの効いた味付けは荒北自身の気に入っている味だ。 今日の夕飯は九割九部荒北が作った。 石垣がしたこといえばジャガイモを水で洗い、一個分の皮を剥いたところまでだ。 苦手だと前から言ってはいたがまさかここまでとは正直思っていなかった。 基本的に石垣は器用な人間だったが、包丁捌きは恐ろしく不器用で危なっかしかった。 まあきっと、彼のことだ。きちんと基礎から覚えればすぐに上達するのだろう。しかし、根本的に彼は料理を作ることに興味がない。荒北自身は大学時代に必要に迫られたということと、料理が好きな金城と待宮といっしょに過ごしたということもあり、料理を作る楽しさと、それを食べて喜んでくれる人を見るのが楽しいということに気付いたが、おそらく石垣にそれは望めない。 何が彼をそうしたかわからないが石垣には料理は女性がするものだという亭主関白的な固定観念があり、料理を作るのが苦手な上にまたあまり彼は食に執着がない。 食に対して興味がない人間に料理を覚えろというのはなかなか酷だ。 (それにしてもさァ) ビールを片手に美味しい美味しいといいながら机の上の料理を平らげていく石垣を眺めながらふう、と息を吐く。 今日の石垣は輪をかけてテンションが高い気がする。 もっとも石垣はいつだって機嫌がいい。彼がへこんでいるところも怒っているところもあまり見たことがない。 仕事中に議論が白熱した時に声を荒げるところは何回か見たことがあるし、意外と頑固でプライドが高い石垣が先輩や上司に言い負かされてむくれているところも見たことがないわけではないが、ちゃんとそこは受け入れようと努力し、気づけばけろっとしているのが常だ。そして人懐っこくにこにこ笑っている。 だから笑っている石垣というのは見飽きるほどに見ているのだが、しかしそれにしても今日は相当ご機嫌らしい。 ご機嫌というか浮かれているというか。 いつもより反応が大きいし、声もふわふわしている。 それがどういう時なのか。最近ようやくそれを知った荒北はジャガイモの味噌汁をすすりながら揶揄するように口角を持ち上げた。 「石垣チャン、今日機嫌よくない?」 荒北の言葉に石垣はぴたりと箸を止める。 そして顔を上げると、驚いたように瞬きをした。 「いやーさすがやなあ。ようわかるなあ」 「わかるよォ。そんだけ浮かれられたら流石に気付くでしょ」 「うーん」 そんな浮かれとるかなあ、石垣は少しアルコールがまわり赤くなった頬を押さえながら唇を尖らせる。 荒北はそんな石垣を見ながら苦笑した。 「で、何かいいことでもあったの」 「いやあな、実は御堂筋が日本にくるんよ」 「へえ?でも今ってシーズン中じゃないの?」 「なんかイベントで都内でクリテリウムのレースやるらしくてな、それにくるんやって」 「ふうん」 「日本で開催されるやつやし、日本人選手が来た方が盛り上がるやろって白羽の矢が立ったらしくてな」 御堂筋が走るところ、生で見るのめっちゃ久しぶりやなぁ。 石垣はレースの概要と他に走るらしい世界で名の売れた選手の名前を並べた後、そういって優しく目を細めた。 御堂筋が拠点を海外に移して以降、そして石垣が就職して以降、石垣は御堂筋のレースを映像で見ることはあっても実際会場に赴いて観戦するということはなかっただろう。 仮にあったとしても精々一回か二回だろう。 それは確かに楽しみになるに決まっている。 石垣はそこではっとしたように顔を荒北の方に向けた。 そして半ば体を机に乗り出して、なあと荒北のことを呼んだ。 「荒北くん、荒北くんも試合観に行かへん?」 「別にいいけど...いつ?」 「明後日」 「明後日?」 荒北は今週末の予定を頭に思い浮かべる。 土曜日は大学時代の友人と久しぶりにロードに乗るつもりだったが日曜はたまってしまった洗濯と掃除くらいしかやることがないことを思い出す。 しかも試合会場はここからそう遠くない。 正直、興味がないと言ったら嘘だ。御堂筋の走りがどうなったのかも気になるし、世界的に有名な選手が来るというのももう、競技としてロードをやっていないとはいえ興奮をする。 だが。 「でもいいの?オレが一緒に行ったら話せないんじゃない?」 「大丈夫や、どうせ当日はアイツも忙しくて話せへんやろうし。それに御堂筋には明日会うから」 「ふうん、じゃあお言葉に甘えさせてもらうよ」 「ありがとう、なら明後日十時に家迎えに行くわ」 「りょーかい」 石垣は荒北の言葉に満足そうな表情を浮かべると、再び食事に戻る。 しかしその表情が先程よりも格段に幸せそうで、荒北は半ばあきれながらも、それでも嬉しく思う。 「よかったジャン」 そう、荒北が言うと石垣は嬉しそうに笑った。 ◆ ◆ ◆ 喉の渇きを覚え、目を開けると枕元に置かれた時計は午前二時を指していた。 御堂筋は枕に埋めていた顔を持ち上げると、小さい欠伸を一つ。 数時間前にベッドに投げ出したばかりの身体はまだ覚醒することを渋っており、正直そのまま二度寝をしてしまいたかった。 が、一度喉の渇きを自覚するとどうしてもそこから意識がはがせなく、眠ることに集中ができない。 御堂筋は仕方なく体を何とか起こすとベッドを降り、キッチンに向かう。 ぺたぺたとはだしの足が音を立て静かな部屋の中に音が響いた。 (ほんま、日本遠い) フランスを出たのは今から何時間前のことだっただろうか、と今日一日にこなしたことを思い出しながら御堂筋はぼんやりと思う。 練習が終わった足でフランスの空港にいき、チームのマネージャーが用意していたチケットで飛行機に搭乗して。 飛行機の中は基本的に日本の時差に会わせるために睡眠時間を調整しながらレースのコースのイメージトレーニングをして過ごして。 そして空港に着くと事前に許可は取っていたが、もう一度親戚の家に顔を出す、明日―試合の当日の朝九時までにはチームと合流するということを説明してチームメイトと別れた。 そのままの足で石垣が住む町―今回のレース会場と近かったことが救いだ―に向かった。そして駅まで迎えに来てくれた石垣とそのまま晩飯を食べに行く。石垣の家にはほとんど食料がないのと、石垣が料理が得意ではないため、御堂筋と石垣が合う時はほとんど外食だ。そうでなければ御堂筋が作る羽目になるのだが、流石に今日はそんな気力は残っていない。 石垣は明日試合の御堂筋に「やっぱり勝負事の前はカツだろう」と言い張り、そんな彼に連れられて二人でトンカツを食べに行った。恐らく彼が仕事でいつか使ったのだろうそこそこいい値段のカツが出てくる店に。 始めこそ、出てきたカツのボリュームに辟易した御堂筋だったが、ソレが思いのほかいい肉で作られており、また脂がしつこくなかったことも手伝い想像より簡単に胃袋に収まった。なかなか美味しい、そういうと彼は嬉しそうに笑った。 食事を終えると御堂筋と石垣は石垣の家にやってきた。 そして掃除をしたという割に綺麗ではなかった彼の部屋に悪態をつき、部屋の隅に積み上げられていた自転車雑誌を読みながらだらだらとテレビを見て、少し近況の報告を交えながら交代で風呂に入り明日は試合だからと早々にベッドに入ったのが確か十二時くらいだった。 (絶対トンカツの所為やわ) 朝までぐっすりと寝て明日の試合に備えようと思っていたというのに。憂鬱な気分で御堂筋は深くため息を吐く。 救いは石垣は御堂筋が日本に帰ってくるときはちゃんと御堂筋が好んで飲むミネラルウォーターを用意しておいてくれるところだ。 はやく喉を潤して、もう一度寝よう。そんなことを考えながら御堂筋は相変わらず使われた形跡のないキッチンに入り冷蔵庫を乱暴にあける。 すれば中からひやりとした冷気と白々とした光が漏れ出てきた。 そしてその中を覗き込めば冷蔵庫の中には御堂筋の好きなミネラルウォーターと、豆腐。そして石垣が習慣的に飲んでいるのだろう缶ビールがいくつかおさまっていた。 他には申し訳程度に調味料がいくつかと、あと。 「ファ?なんやこれ」 空っぽのはずの冷蔵庫に納まっている見慣れないものに御堂筋は首を傾げる。 そこにはラップが掛けられた皿がいくつも入っていた。 そしてそれはどう見ても出来合いの総菜を晩御飯用に買ってきて、余ったものをちょっと冷蔵庫に入れておきましたという様な感じではない。 誰かが料理して作ったに違いないものだ。 勿論、普通に考えればおかずの残りを冷蔵庫に入れておくというのは誰もがすることであり、そんなに疑問に思うべきことではないだろう。 御堂筋だってフランスの家の冷蔵庫には時たま自分で作ったご飯の残りが収められていることもある。 しかし、石垣の冷蔵庫では基本的にそういうことは発生しない。石垣は呆れるくらいに自分で料理をしない。それは短くない付き合いである御堂筋が一番よく知っている。 だとしたらこれはなんだ。 御堂筋は胸の奥がざわざわする感覚を持て余しながら水のボトルを手に提げたまま、リビングを抜けベッドで布団を抱き込んで眠る石垣の元へと戻った。 彼はベッドサイドにある読書灯の下に寝顔を晒し、すうすうと寝息を立てながら寝入っている。 前見た時よりも少しまた大人っぽくなり、筋力が落ちたからだろうか部屋着から覗く手足は一層華奢になったような気がする。 しかしそんなことは今どうでもいい。 御堂筋は乱暴に石垣の頬を手の甲で叩く。 そして何度か彼の名前を呼んだ。 「石垣くん」 「ん・・・?」 石垣は何度目かに名前を読んだところでのろのろとまぶたを持ち上げた。 普段、御堂筋をまっすぐに見つめる双眸はどこかとろりとしている。 その無防備な姿を御堂筋は好んでいたが、しかし今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。 「なんやキミィ、あんなに料理は好かんとか言ってた癖に料理の勉強でも始めたん?やあっと自分の体調管理はちゃんとせんとあかんって気付いたん」 畳み掛けるように口にした御堂筋の言葉に石垣は何度か瞬きをする。 そしてしばらくして御堂筋の言葉からようやく単語を拾いとったのだろう、首を傾げながらりょーり?とつぶやいた。 「なぁにアホみたいな声出しとんの。冷蔵庫の。キミが作ったんやないの?」 「冷蔵庫?」 「ポテトサラダやら野菜炒めやら、肉じゃがは豚肉やったな」 「ん、ああ」 石垣はそこで漸く合点がいったというように深く頷いた。 そしてへらりとぼけた笑みを浮かべる。 「それは荒北くんが作ってくれたんや。取引先の社長さんがいっぱいじゃがいもくれたんやけど、オレ料理できんから荒北くんに助けてもらって」 美味しいから、御堂筋も食べてええよ。 そういうと石垣はまた瞼を閉じようとする。 それに対して御堂筋はしれっと口にされた石垣の言葉に自分の眉がぴくりとひきつるのを感じた。 「アラキタァ?」 それは最近も確か聞いた名前だった。 そう、あれは夜中に石垣に電話をした時に、石垣の代わりに電話に出た箱根学園OBで、今石垣の同僚だという男の名前だ。 そして彼の近況を聞く中で最近とみに名前が挙がる人物でもあり、その度に御堂筋の心をかき乱す名前でもあった。 御堂筋は反射的に手を伸ばすと石垣の肩を乱暴に掴み上を向かせる。 そして御堂筋の力にされるがままに仰向けにさせられた石垣の右の顔の横に勢いよく手をついた。 御堂筋の力に、ベッドのスプリングが軋み音を立てる。 石垣はいきなりの御堂筋の行動に覚醒しきっていない意識では反応ができないようでただ呆然と御堂筋のことを見上げていた。 石垣の目の中には不機嫌そうな御堂筋の姿が大写しになっている。 それを見て御堂筋はすこし、深く息を吸う。 そして今にも勢い良くこぼれ出しそうな言葉をなんとか押しとどめると努めてゆっくりと言葉を紡いだ。 「石垣くん」 「......」 「酔っ払ったの介抱してもらって?家あげて料理作ってもろとるなんて随分と仲、ええんやね。その荒北くうんと?」 「いや、確かに仲はええけど」 「けど?」 「けど別にそういう関係やないよ?」 オレとお前が付き合ってるのだってしっとるし、ただの職場の同僚で友達や。そう石垣はなんでもないことのようにいう。 だが御堂筋はそんな石垣の態度にイライラする自分を自覚する。 (違うわ、このアホ) 別に御堂筋は石垣が浮気をするとかそういうことに関しては何の心配もしていなかった。 石垣が自分を大切に思っていることは知っているし、裏切ったりするとは思っていない。 それに本当に荒北の事が好きなのだとしたらあの男はそれをどこまでも隠し通すだろう。 御堂筋に対してそういう相手がいることをにおわせたりなどしないだろうし、悟られるようなまねすらしないだろう。 何が気に入らないのか。 そんなことはよくわかっている。 それは荒北に石垣が少なからず心を開いているという点においてだ。 石垣という人間は基本的に他人に弱みを見せない。 隙も見せなければ頼るといったこともほとんどしない。 御堂筋は彼が泣いているところを見たことがない。辛いことがあってもそれを押し込めて「大丈夫だ」と笑って誤魔化されてしまう。 酒だって一緒に飲みに行くことはあるが前後不覚になるまで泥酔した彼を見たことがない。 今回のことだってそうだ。きっと御堂筋がそばに住んでいたとしても、料理を作りに来てほしいだなんてこの男は自分に頼んだりしないだろう。 そしてそれはきっと彼の仲の良い友人だった辻や井原だって同じだろう。 しかし、どうやら石垣は荒北に対しては自分の弱みを晒し、頼っている。 御堂筋の立ち入りすら拒む領域。 その領域に荒北を立ち入らせているということ、それに御堂筋は苛立っていた。 ありていに言えば認めたくはないが嫉妬をしている。 何年も一緒にいながらも何かと彼の中で理由が付けられて取っ払われることのないその最終障壁を軽々と超えていった荒北に対して。 かといってその不満を石垣に対してぶつけるのも違うと御堂筋は思う。 子供の様な感傷をぶつけて石垣に子ども扱いをされるのも、仕方がないなあと年上ぶった態度をとられるのも御堂筋の望むところではないのだ。 しかし、そんな感情をどういう言葉で表せばいいのかわからず御堂筋は黙り込むことしかできない。 まったく、いくつになっても言葉を選ぶのが下手な自分に嫌気がさす。 御堂筋は大仰にため息をつく。そして石垣の顔の横についていた手を外し、石垣の横にごろりと横になった。 「ファー相変わらずキモいわ、まったく」 「は?何がや」 「こっちの話や」 もうええわ。ほらはよ寝ぇ。 石垣の頭にぽんと手を置くと、石垣は苦笑しながらもゆっくりとその眼を閉じた。 ◆ ◆ ◆ 頭上に広がる空は何処までも晴れ渡っており、雲一つなかった。 気温も適温。いつも強いビル風もほとんどない。 つまり絶好のレース日和。 その気候の下、荒北は石垣と連れ立ってクリテリウムのレース会場に来ていた。 自転車競技は日本の中でメジャーな競技かと言われればまだ地上波で定期的に放映されるほどではないためそうではないのだろうが、日本人選手が活躍をしているという状況も相まってすこしずつ認知度とその人気は高くなっている。 街を歩いていてもあの独特なフォルムの自転車を見る機会は格段に増えた。 荒北の部屋に置かれているチェレステ色の車体だってよく見る。特に一番見るのは荒北が自転車を始めるきっかけとなった人物の愛車であるメーカーのものだ。 その状況に加え、普段日本でのレースにはとてもではないが出ない選手が走るということで想像していたよりも多くの人が集まっていた。 コースに沿ってずらりと並んでいる人々に唖然とした石垣と荒北だったがそれなら俄然、前の方で見てやりたいと思い、なんとか人の波を縫って進む。 流石にゴールの傍は難しかったが少し離れたところでなんとか一番前に出る。 そして試合の開始を二人で待った。 + + + 「いやあ、めっちゃ凄い試合やったなあ!」 歓声に沸く会場で、石垣は満足そうに吐息を漏らした。 それを受けながら荒北もそうだねェと言葉を返す。 長い距離を延々と走るわけではないクリテリウムのレースは自分たちの前をその周回分、選手が巡ってくる。 至近距離で感じるレースの熱気。 周回のたびに刻々と変わる状況に気づいたら石垣も荒北も息を飲んで試合展開を見守っていた。 初めはコースが広くないのも手伝い、かなり密集して走っていたが暫くするとふるい落とされ、前評判通り有名選手が先頭に出てきた。 そして同じ国の選手同士で交互に風よけになりながら走る選手たちもいれば一点突破で一人で先頭に立たんと果敢に挑戦している選手もいた。 一番興奮したのは最後のデッドヒートだ。 最後、残り三周くらいになったときに二人の選手が先頭集団から飛び出してからの勝負は圧巻だった。 まさに最高速度。車体をしならせ、風のようにコースを駆け抜けていく自転車は本当に人力で動いているのかと疑いたくなるほどだ。カーブは倒れるのではないかと思う程深く車体を倒して曲り切る。 鍛え上げられた筋肉が脚力を全て推進力に変換して無駄など一つもない走り。 その姿はさながら芸術のように完成されていて美しかった。 そして勝ったのは―。 「石垣くん」 どの選手がどうだった、などと言って試合の感想を石垣と話していた時だった。 いきなり、石垣の頭が何者かの手によって押さえつけられる。 突然のことに驚き顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。 すらりとした少し猫背の長身。 ユニフォームの上からも、またそこから出た手足からもわかる無駄のない筋肉。 そして表情の起伏の少ない表情。 それは他でもない、今日の試合で優勝した選手である御堂筋翔だった。 今日のヒーローの突然の登場に周囲の観客が一斉にざわめく。しかしなんと声をかけていいのかわからないのだろう、御堂筋選手だ、と囁きあってはいるがどうにも誰も行動を起こさない。 そんな空気の中で一人、石垣は突然現れた御堂筋に表情を明るくし、にっこりとほほ笑んだ。 「ああ、御堂筋。優勝おめでとう。めっちゃはやかったなあ」 「当たり前や、こんな草試合でも手は抜かんよ」 「流石やなあ」 「日本人選手が勝ったんや、主催者さんもマスコミさんも満足やろ」 さっきまでの走っていた時の姿ーそれこそ怖いほどに研ぎ澄まされた鋭さが嘘のように、ぱっと見無表情ながらも若干表情が緩んでいる御堂筋の様子を荒北は半分感心するような気持ちで眺めていた。 どうも石垣と御堂筋が付き合っている図が想像できなかった荒北だったが、実際二人で並んでいると確かに雰囲気がどこか普通とは違う。 それに御堂筋も高校の時の危うく、頑な様子も鳴りを潜めており、成長をしてある程度丸くなったことを感じさせられる。 会社の期待のエースである石垣と世界で有名なアスリートの御堂筋。体格差も相まって同性同士という点すら考えずにいれば、なんだかお似合いの二人だった。 と、そんなことを思いながら二人を眺めていた時、不意に御堂筋が荒北の方を振り返る。 そして御堂筋は荒北を捉えると二回ほど大きく瞬きをし、次いで相変わらず何を考えているのかわからない黒目がちの目が意味ありげに細められる。 爬虫類のようなその様子に荒北は意味もなく眉をひそめた。 「何や懐かしい人がおるやないの」 「・・・・・・」 「インターハイぶりになるんかなあ?」 「・・・・・・」 「どうも、ヒサシブリ。荒北くぅん?」 先程と打って変わり、少し険の混じった声。その声に荒北の中を嫌な予感が駆け巡る。 その調子はどこか、かつて電話で聞いたときの声のトーンを彷彿とさせたからだった。 しかし御堂筋は少しひるんだ荒北の様子など気にも留めず、荒北の方に歩み寄るとぐいっと身を乗り出した。 至近距離でからめ捕られる視線。 御堂筋はそこで少し首を傾げて、声を潜めた。 「なあ、荒北くん?なんか石垣くぅんがいつもお世話になっとるみたいやね?」 「・・・別にィ、世話なんてしてねえけど」 荒北の返答に御堂筋は興味もなさそうにふうん?と相槌を打つと、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。 「まあボクとしてはどっちでもええんやけどなァ」 「・・・・・・」 「石垣くんがキミのことエライ信頼しとるみたいやから、気が向いたらこれからも仲良うしてあげてや」 「・・・・・・は?」 なんだよそれ。 そう荒北が言おうとした瞬間、アキラと御堂筋を呼ぶ声が響いた。 御堂筋は背後から響いた声に億劫そうに首を巡らせる。 その視線の先にいるのは外国人のこれまたすらりと背の高い金髪の短い髪の男性だった。恐らく御堂筋のチームメイトかマネージャーだろう。 御堂筋はそれにち、と小さく舌打ちをする。 そしてそこで荒北から視線を外すと、また石垣の方に視線を向ける。 「そろそろいくわ」 「おう。次はツールか?頑張ってな」 「キミになんか言われんでも頑張るわ」 御堂筋はそれじゃあと言い残し、先ほどと同じように唐突に踵を返す。 そして壁に立てかけていたデ・ローザに跨るとぐ、とペダルを踏み込んだ。 すいと走り出した自転車を御堂筋は軽い調子で操りながら緩いカーブを曲がっていき、やがて見えなくなった。 御堂筋の背中が完全に見えなくなったところで荒北はやっと詰めていた息を吐く。 普段誰かに―それこそ上司からも怒られたりプレッシャーを掛けられて圧倒されるということがあまり多くはない荒北だったが、流石にというか何故かというべきか御堂筋の迫力に認めたくはないが完全に圧倒されていた。 先日電話越しで話した時の迫力も相当だったが面と面を向かうと余計に助長されるらしい。 それに加えプロの世界の荒波にもまれているせいか、高校時代のあの時の比ではない。 いま、同じ道の上で走って競ったらきっとあのプレッシャーに飲まれてしまうだろう。 尤もそれが常時発揮されているのかは流石にまだわからないが。 (それにしてもさァ) 何故、御堂筋の荒北に対する態度には険が含まれているのだろうか。 御堂筋は何か良くわからないが今日も不機嫌だった。 その不機嫌の矛先が何に向いているのかはよくわからないが、恐らく荒北の存在が絡んでいるのは確かだろう。 少し前の金曜日の深夜、飲み会で潰れた石垣を連れて帰って、御堂筋から石垣にかかってきた電話に間違えて出てしまったことについては石垣が弁明をしてくれたとは思うのだが。 それに御堂筋は「いつも」と言っていた。「頼りにしている」とも。 ということは、石垣は不用意に自分との他のエピソードまで披露したのだろうか。 (ほんとさァ・・・石垣チャン御堂筋にいったい何したわけ・・・) しかし隣の石垣本人は久々に御堂筋の走っている姿を見ることができたからだろう、酷くご機嫌で。 その嬉しそうな石垣の表情を見てしまえば荒北が石垣に対してなにかをいうことなどできまい。 仕方がなく喉のところまで出かかった不満を押しとどめ、そして荒北はその不満をため息と一緒に吐き出したのだった。 material:Sky Ruins |