終わったと思った物語が
実は終わっていなかったというのは
往々にしてよくあることだ
それならば最後、物語の終着まで








ハッピーエンドはまだ遠い#01







「石垣チャン、ほんといい加減にしてくれる?」

死ぬぞ、そう荒北が声をかけるが石垣は半分意識がないのかうん、と気の抜けた声を出すだけだった。
それにしても重い。そう思いながら荒北は自分の肩に回させている石垣の腕をもう一度しっかり自分の肩に回し直し、歩きやすいように石垣の体を自分に固定した。

「ぜってー分かってねえだろォ」

はあ、とため息をつく。しかし、そんな荒北の嘆きを聞き届ける人物は残念ながら誰もいない。
人影もない、深夜の住宅街の一角。適度に年季の入ったマンションの廊下を荒北は歩いていた。
しかしここは荒北のマンションではない。このマンションに住むのは石垣であり、荒北の家はここから五分ほど歩いたところにある。

石垣の家の前についたところで、荒北は石垣を一度床に座らせ、壁にもたれさせる。
しかしすっかり夢の国に旅立っているのだろう石垣は自身の首を支えることができず、ぐったりと首を前に倒してしまった。そんな石垣を尻目に荒北は石垣のカバンのチャックを開けるといつものように石垣が普段家の鍵を入れているポケットに手を突っ込み、家の鍵を取り出す。
シンプルなキーホルダーが付いた何の変哲もない鍵。そしてそれを躊躇なく鍵穴に差し込んだ。

「ったく、オレだからいいけどさァ。悪い人だったらどうすんだよ。金とかとられても知らねえぞ」

しかし、それも結局独り言に終わり、荒北はため息をついた。

荒北と石垣と再会したのは荒北が大学を卒業し、大学院に二年通った後、入った会社でだった。
中堅のメーカーの研究職として就職し、二年ほど違う事業所で働き転務となった先。そこに見慣れた顔があることに荒北は気がついた。
若手の営業職。成績もそこそこよく、ホープだと紹介された二期上の同じ年の先輩。それはかつて高校、大学時代とロードレースで競い合った京都のオールラウンダーの選手、石垣光太郎だったのだ。

『荒北くんやん、久しぶりやなあ。まさか同じ会社に就職しとったとは』

荒北と石垣は顔見知りの知り合いではあったが深い交友があったわけではなかったのに加え、入社年次で言えば先輩と後輩という微妙な関係にはじめこそどういう風に接すればいいのか困惑をしたものだった。だが分け隔てなく誰とでも仲良くなれる石垣の性格が幸いし気づけば一緒に昼食をとり、家が近かったこともありお互いに残業で遅くなった時には飲みに行く仲になった。

そんな関係も既に半年ほど。その中で見えてきたものもあれば変わったものもあった。
まずは石垣に対する印象だ。
学生時代の石垣といえば荒北のなかには真面目でしっかり者でとても頼れる人間だというイメージだった。
しかし、親交を深めていくうちに荒北が石垣に持っていた印象というのは彼のたった一つの面しかとらえていなかったことに気付かされた。
勿論、仕事では彼は誰よりも頼れるし、しっかりとしており上司からの信頼も厚く優秀である。
しかし、私生活の部分ではそれがかならずしも当てはまらない。
料理洗濯掃除はまず苦手で殊に料理に関しては壊滅的。何をどのように調理すればいいかもわからない始末で、そもそも自炊の概念がない石垣の家のキッチンは使用した形跡が全くない。
また他人への奉仕精神が強い石垣は仕事に関しても平気で無茶をする。
時に自分を犠牲にすることすら厭わない彼は他人の体調の変化には敏感に気が付く癖に自分に対しては酷く鈍い。
加えて我慢することを美徳とする彼は熱があろうが体調が悪かろうが薬で誤魔化して無理やり出勤し、週末は寝込んでしまうというようなことも平気でする。
極め付けが酒の席だ。仕事柄取引先との会食やらで接待をすることも多いが、サービス精神からだろうかついつい飲み過ぎるきらいがある。しかも厄介なのが緊張している場面では全然酒が回らないため、いくらでも飲めてしまうところだ。そのため、飲み会が終わって気が抜けた瞬間に一気に酔いがまわる。
そんな時、普段夜遅くまで残っており彼と家が近いという理由で彼や彼の上司から電話がかかってき、助けてほしいと懇願されるのだ。

今日も助けてほしいと明らかに具合の悪そうな声で電話をかけてきた石垣を駅のトイレで介抱し、終電を逃したためタクシーで彼の家まで連れてきた。
本当に仕方がない男だと思う。それでもどこか憎めないのが彼が彼たる所以なのだろう。

「ほら、着いたよ石垣チャン」
「ん・・・・・・」
「ったくさあ、そろそろ彼女でも作って面倒見てもらったほうがいいんじゃなあい?」

引きずるようにして石垣を家の中に入れると荒北は石垣を玄関に放り出した。
そのまま荒北は靴を脱ぐと石垣をまたぎ越し、台所へ向かい、ガラスのコップに水道水を注ぐ。
一杯目は自分で飲み、もう一度水を注ぐと荒北は玄関に戻った。
そして石垣を抱き起こしながら水の入ったコップを強引に手に持たせる。
石垣は弱々しいながらもそれをなんとか受け取ると緩慢な動作で口をつけた。
なんとか飲めるらしい。
その隙に石垣の足から靴を抜き取り、玄関に乱暴に放っておく。あとはここで寝てしまおうが風呂に入ろうが石垣の勝手だ。
丁度いいことに明日は休みだ。何時まで寝ても何か予定があれば別だろうが少なくとも仕事には支障はでまい。
石垣がコップ一杯を飲み干すまでは様子を見てやるか。ああ、なんて自分はお人好しなのだろうか。またこんなことをしていると知られたら昔の箱根学園のメンバーや洋南大学で一緒だった友人には笑われるかもしれない。そんなことを思っている時だった。

―ピリリ

夜の部屋に何の前触れもなく鋭い機械音が響く。
荒北は突然の音にびくりと肩を震わせた。
というのも自分の携帯はほとんどマナーモードにしており、呼び出し音を思い出せないくらいになっていたため、電話の電子音がしたという状況に驚いてしまったのと、終電もとっくに終わり午前二時を回ろうとしているときに電話がかかってくるということがイメージができなかったからだ。
音は石垣のスーツのポケットから聞こえてくる。荒北はコップを持ったままうつらうつらとしている石垣に手を伸ばすと、具合が悪くならないように優しく揺すった。

「石垣チャン」
「・・・・・・」
「石垣チャン携帯鳴ってるよォ」
「・・・・・・ん」

幾度目かの荒北の呼びかけに石垣はのろのろと少しだけ瞼を持ち上げると億劫そうに手をポケットに突っ込む。
しかし、握力も不確かなようでそれを取りだそうとした時、石垣は携帯を取り落としてしまう。
ごつん、と無機質なものが床に落ち、夜中に不釣り合いな音が部屋に響いた。
石垣は少し床の方に手を伸ばしたがうまく掴むべき対象を見つけられなかったようだ。
彼は困ったように眉根を寄せながら息を吐くとなあ、と呂律の怪しい舌で続けた。

「荒北くん」
「ん」
「すまん、代わりに出てくれへん」

きっと、心配しとった、先輩やと思うんや。
たどたどしい石垣の言葉に、荒北はどうしてもそれを突っぱねることができず頭をガシガシとかいた。

「ハァ?またかよ。なんで俺が」
「・・・・・・」
「わーったよ。でりゃいいんだろォ」
「すまんなあ、おおきに」

荒北はふわ、と笑った石垣に小さく舌打ちをすると床で鈍く振動する携帯を拾い上げると画面に表示された名前もろくに確かめず通話のためボタンをスライドさせる。
そして携帯を耳に押しつけると「荒北ですけどォ」と続ける。

「今日も石垣はちゃあんと家に連れて帰りましたんでご安心ください」
『・・・・・・』
「ん?」

荒北は電話の向こうから反応が帰ってこないことについて首をかしげる。
おかしい。石垣の部署の先輩たちは自分が石垣の世話を焼いてやっていることくらい承知しているはずだ。
前も出たときはああ、よかった!と間髪入れずに電話の向こうから返答が帰ってきたのだが。

と、そこまで考えたところで荒北はふと我に帰る。
そういえば先程画面にはなんという名前が表示されていたか。
見慣れない、難しい漢字が並んではいなかったか。
そして石垣の部署に難しい漢字の名字の先輩はいたか。
そもそも、あの画面に表示されていた名前は―。

と、その時だった。

『なんで、キミがこの電話に出とるんかなァ?』

地を這う様な、抑揚のない声。
しかしその実そこには言い知れぬ不快感が滲んでいる。
そしてその声を、荒北は知っていた。
忘れるわけなんてない、あの夏は、そしてあの人物の存在は荒北を始め多くの人の記憶に嫌というほどにこびりついている。
その男の名前は。

「御堂筋」
『そんなこと今どうでもええわ、ボクの質問に答え?』

いやそもそも。
なんでこんな時間に御堂筋から石垣の電話がかかってきているのだ。
そしてなんでこんなにこの男は不機嫌な声で自分に対して凄んでいる?
今まで石垣の口からまだ御堂筋と交流を持っているという話は一度も聞いていなかったはずだ。
それなのになぜ?
荒北は思いがけず巻き込まれた自分の想定以外の事態に混乱をしたままただ押し黙る。すれば電話口で御堂筋が酷く苛立ったようにため息を吐いた。

『荒北くぅん?』
「・・・・・・」
『なんや聞こえてへんみたいやからもう一度聞くわ、耳の穴かっぽじってよおく聞き』


『なんでキミがこの電話に出とって、石垣くんの家におるんや』


荒北は助けを求めるように石垣の方に視線を向ける。
しかしすっかりと酔い潰れた石垣は荒北の混乱状態などつゆ知らず、幸せそうにぐっすりと眠りこんでいるだけだった。



◆ ◆ ◆



「金曜はほんまにすまん!」

会社の食堂でぱん、と石垣は手を合わせると荒北に頭を下げた。
荒北の前にあるのは会社の食堂で一番高いとんかつの定食だった。勿論石垣の奢りである。
とはいっても何千円とするわけではもちろんない。良心的な社食の値段の域はでない価格設定。
こんなものではお詫びにならない。石垣はそういいながら近くのそこそこいい値段のする定食屋を提案してきたが荒北がそれを固辞したのだった。
確かに掛けられた迷惑を思えばそれくらいをしてもらってもよかったのだがお互いの懐事情もそこそこ把握している上に普段、荒北は仕事の面では石垣に相当助けられている。
今日だってそうだ。社内の関連部署に提出する書類の作り方がわからずにいると石垣が手伝ってくれた。だから、そもそもどっこいどっこいなのだ。
荒北は山と盛られたキャベツの千切りととんかつにソースをたっぷりかける。そしてそれを口に運びながら苦笑した。

「別にいいけどさァ」

だから気にすんなよォ。いつまでも眉を下げたままの石垣に荒北はひらひらと手を振る。
そして箸を手にしていない石垣の足を蹴っ飛ばし、お前も食べろと声をかける。
そもそも。
このコミュニティに限ったことでもなく荒北は誰かの世話を焼くことが圧倒的に多い。
今でも箱学のメンバーと飲みに行けば泣き上戸の福富に絡まれ、東堂の自慢話に付き合わされ新開には飲み比べをしようと誘われる。
洋南の時もカナちゃんと喧嘩した!とすぐにやけ酒をする待宮の世話を何回焼いてやったかもうわからない。
だから別に彼のことを介抱することに関して何か不快感があるかと言われれば全くないし、それ以外の世話を焼くのだって好きなくらいだ。
故にそんなことくらいで荒北は腹を立てるようなこともないし、礼を言われる謂れもないと思っている。
しかし、普段ならそれならと引き下がる石垣だったが、今日はそういうわけにはいかないらしい。というのも、金曜日の夜は少しそれとは違っていたことがあった。

途中まではいつも通りだった。
いつも通りぶっ倒れていた石垣を助け起こしタクシーに押し込んで連れて帰って、いつも通り水を飲ませていた。
違っていたのはその後だ。
唐突に鳴りだした彼の携帯電話。
そして聞こえてきた声。
あまりに衝撃的で二日経った今でもあの声のトーンも、凄みも会話の内容すらもはっきりと記憶に残っていた。

『なんで、キミがこの電話に出とるんかなァ?』

てっきり石垣の部署の先輩だと思って出た電話。
しかし通話が繋がったその先にいたのは数度言葉を交わしたことのある石垣の部署の先輩ではなかった。
電話の向こうにいたのは、御堂筋翔だったのだ。
京都伏見の怪物エース。インターハイでは徹底的に他校を挑発し、しかし実力は荒北が敬愛する福富と伯仲するほど。
荒北と御堂筋は残念ながら学年が一年しかかぶらなかった上に試合でもそんなにやり取りをしたわけでもないため彼に対して特別何か思うことはないし、高校を卒業してからは時々後輩の話から御堂筋の話題が出るくらいで彼とコンタクトをとったことは正直皆無だった。
が、それでもあのひとを食ったような態度と、勝利への異常と言える執着はひどく印象に残っていた。
だからといっていいだろう、そんな男と卒業してしかもこんなにたって話すことになるだなんて荒北の想定の範囲をゆうに超えている。
しかも御堂筋は高校を卒業した後、海外に行ったと後輩の誰かが言っていたはずだ。
そのため荒北はただ黙り込むことしかできなった。
すれば彼はしびれを切らしたのかいらいらとした様子でもう一度口を開いた。

『なんでキミがこの電話に出とって、石垣くんの家におるんや』

呆然とした荒北に彼は低いゆっくりとした声で一言一句ちゃんと伝わるように言葉を紡いだ。
しかしその実その優しさとは裏腹に声にはひどく凄みが感じられた。
どうやら怒っているらしい。
何故、親切心から電話に出た俺が、しかも一度もまともに話したことのない御堂筋に怒られなきゃいけないのだろうか。
だからといって電話を切ることもできまい。そして当の石垣はすっかり眠り込んでおり、起きる気配もない。
多少、納得の出来ない思いを感じながら荒北は言葉を続けた。

「会社の飲み会で酔いつぶれた石垣チャンのこと送ってやったんだよ。で、石垣チャンのこと心配してた先輩からかと思って電話出ただけだっての」
『ふうん?』
「悪かったなちゃんと名前確認しないで電話でてよォ」

ガシガシと頭を掻きながら言うと、御堂筋は電話口で小さく舌打ちをした。
そして口の中であのザクが、と忌々しそうに呟いた。

「まあそういってやるな。仕事だから仕方ねえだろォ?」
『・・・・・・石垣くん、そこにおるん』
「ああ、いるぜ。隣で寝てる。かわる?」
『・・・・・・・』
「ん?」

いきなり黙った御堂筋にどうしたと続ければ彼は一拍置いたあと、別にぃ、とため息まじりにつぶやいた。
そこには呆れた、という雰囲気と同時にやはり苛立ちが垣間見え、荒北は首をひねる。
呆れるのはわかる、しかしそもそも何故この男はこんなに苛立っているのだ。
実は今日飲む約束をして反故されたのか。
それともー。
荒北は壁に背中を預ける。そして耳に携帯を当てたまま言葉を続けた。

「ところで、御堂筋」
『ファ?』
「お前こそこんな時間に石垣チャンになんの用な訳?非常識なんじゃなあい?」

そう、荒北が言った瞬間だった。
御堂筋は荒北の言葉に絶句し、そして大仰に何度目かわからないため息を吐いた。
暫く、御堂筋は沈黙をし、そして捨て台詞を残し、電話は唐突に切れたのだった。

『キミィには関係ないことや』

ぶつりという音に続いて、ツーツーと無機質な電子音が流れだした。荒北は携帯を耳から外すと、それを眉を顰めながら睨み付ける。
なにがだよ!そう携帯電話をフローリングに叩きつけなかったことについては褒めて欲しい。
学生時代の自分だったらこの携帯を叩きつけて恐らく画面を割っていただろう。社会人になって会社や上司からの理不尽な要求をのんでいく中でどうやら多少、気が長くなったようだ。
そのあと、荒北は石垣の手の中からグラスを取り上げると代わりに携帯を彼の手の中に戻し、今の出来事を伝えようと石垣の肩を揺らした。しかし、今度は完全に寝入ってしまっており全く目を覚ます様子がない。
暫くしても起きない石垣に荒北はため息を吐くと、彼のことを放り出して家を出て、鍵をかけて、新聞ポストから鍵を中に入れて帰った。それが一昨日の話だ。

不可解なかみ合わない電話から二日。
特に予定がなかったのも手伝い荒北にとってこの週末は珍しく悶々と過ごす二日間になってしまった。
荒北にとって御堂筋と言えばはどうしてもインターハイの時の印象が強い。
他校を挑発し、自校の先輩たちを傅かせている、そんなたちの悪い選手。
それ故に石垣と御堂筋の関係について想像を巡らせた時、まだ支配者と被支配者の関係にあるのだろうかとか、寧ろ金とかを巻き上げられていたらどうしようかとかそんなことを邪推してしまった。

石垣は金曜日の飲み会がどんなものだったかを自分の行動の反省を踏まえ、苦笑しながら話している。
初めはビールから始まって、気付いたら先方のお偉方が日本酒が好きだったらしく、機嫌のよくなった先方が次々に酒を注いできたためにそれをガンガンあける羽目になったこと。 正直、取引先と別れてから朝までの記憶が全くないこと。
翌朝も二日酔いがガッツリ残り、玄関から全く動けなかったこと。
昨日、御堂筋から電話がかかって来、金曜日に荒北と話したことなどなどを告げられ血の気が引いたこと。
荒北はその話が一通り終わり、ちょうど御堂筋の名前が出たところでねえ、と石垣に声をかけた。

「ところでさァ、石垣チャンと御堂筋とまだ連絡取ってたんだねェ」
「ん?」
「あんなに夜遅くに電話くるってなんか、訳ありなわけ?」

それくらい聞いてもいいよねえ?
荒北がそう、首を傾げると石垣はぴくりと表情をひきつらせた。
そして荒北から視線を外し、彼にしては歯切れの悪い態度を見せる。

「あーえっと」
「別に、言いにくいんだったらいいけど?困ってるようなことがあったらいけないと思っただけだし」
「困ってるとかそういうんはないんやけど」
「けど?」
「・・・・・・誰にも言わんでな」
「言わないって」

すれば石垣は顔を上げまっすぐに荒北のほうを見た。
そして困ったようにへらり、と笑う。



「あんな、御堂筋とオレ、付きおうてんねん」



突然の石垣の発言に。
荒北は理解が追い付かず絶句する。
そして理解が追い付いた次の瞬間、荒北は思わず机をたたき立ち上がっていた。

「は!?」

がちゃん、食器が当たる音と、大声を出してしまった荒北に周りのほうから視線が集まる。
目の前では石垣が慌てた様子で荒北に落ち着くように宥めながら椅子に座らせた。

「ちょっと、声でかいわ」
「っとワリィ・・・ってマジかよ。あの御堂筋と?」
「うん」
「え、だって石垣チャンと御堂筋って仲よかったっけェ?」
「ん?ああ、インハイの時か。インハイと、その後いろいろあってなあ」
「ああ、そう」

そのいろいろについても聞いておきたかったが、その話を聞き始めると長くなりそうだったためそこは後日、夜飲みながらでもするとして。
それにしても、御堂筋と石垣が。
あの、性格の悪さに関しては定評のある御堂筋と善人である石垣が。

「石垣チャンと御堂筋・・・」
「そんな意外やろか」
「まあ、オレ、あまり御堂筋のこと知らねえし。でもうまくイメージできねェ」

並んで歩いているところを想像してみるが、どうしてもベースが高校時代の彼のためしっくりとこない。
そもそも御堂筋に関する知識が少なすぎて自転車を降りた御堂筋がどんな風なのかまったく想像ができない。
言動を見る限りはあまり変わってはいなさそうだったが。
と、そこまで考えたところで荒北は金曜日のことを思い出す。
つまり、金曜日の深夜、かかってきた電話は御堂筋は恋人である石垣に電話をかけてきたわけで、それを自分がとってしまったということになる。
普通に考えれば、それはあまりいい状況ではないだろう。
自分の恋人が自分以外の人間を家の中に連れ込み、あまつさえ代わりに電話に出るというのは。
それともそれは友人だ、という認識で処理がされるのだろうか。

「石垣チャン」
「ん?」
「大丈夫だったのォ?金曜日」
「ん、大丈夫やで。飲みすぎんように気を付け、って言われただけやったわ」
「気を付けろって・・・石垣チャン、何時もじゃなァイ?」
「はは。まあ今までのばれてへんし」
「そういう問題な訳ェ」
「はは」

「あまり、心配かけたくないんよ」

下手に心配かけて競技に影響出たりしたらあかんからな。だから。
そう石垣は優しく笑った。


 * 


昼休みの終わる数分前に席に戻った荒北は缶コーヒーを飲みながらぼんやりと今日の昼休みのことを反芻していた。
金曜日の事件。そして今日のカミングアウト。
それぞれ荒北の想定していなかった展開に荒北は頭の中の処理がどうも追いついていない。
取りあえずわかったことは石垣に恋人がいるということ。しかもそれが男で、その上、あの御堂筋だということ。
どうやら付き合いもそこそこ長いのだろう。
何度も家に行っていたがそれらしい写真とかがあるわけでもなく、全く気が付かなかった。
確かに既に自転車競技を辞めていると聞いていた割に自転車に関する雑誌が多いなとは思ったのだが。

(それにしても心配かけたくないねエ)

曰く、御堂筋は海外のプロチームでエースとして走る将来有望な選手らしく、ほとんど日本には帰ってこないらしい。
だが、フランスでの競技生活が御堂筋にとって最大の夢であり、目標であって、そんな御堂筋の真っ直ぐさを石垣は応援しているため、この遠距離恋愛を許容したのだとか。
そしてそんな御堂筋に自分のことで心配を掛けたくないから、石垣は自分のマイナスな情報は御堂筋にはほとんど流していないとか。
確かに石垣は何よりも他人の感情を慮る人間だ。
周囲の人間に自分のことを起因としたマイナスな空気を与えることをひどく嫌う。
故に、周りに心配されるのもあまり好きではないし、そう気づかれないように簡単に無茶をしてしまう。
そんな彼が荒北に対してそういう弱さや失態などを見せるをよしとしているのは偏に自分がそういうのに対して目敏いのと、あとは。

(フランス、年下。確かにあまりいい条件じゃないってことかァ)

石垣がああいうということは御堂筋はそうはあまり見えないが心配性なところもあるのかもしれない。
そして、職場での彼を見ていてもわかるが意外とプライドが高いところがある。
後輩に対してはしっかりとした先輩の姿を見せたい。そう、肩肘を張っている節がある。
それが二人の間に残っているのだとしたら。

(オレもあまりそういうの得意じゃないから人のこと言えないけどさァ)

面倒なことにはならないで欲しいよねェ。
そんなことを思いながら、荒北は午後の仕事を再開するためにノートPCの蓋を開けた。


◆ ◆ ◆


どうやらアキラの機嫌が悪いらしい。
そんなことを話しているチームメイトの言葉をイアフォンを耳に突っ込むことで追い出す。
そして御堂筋はトレーニングルームで一人、ローラーを回していた。
ぐんぐんとスピードあげる。すればそれに比例して皮膚の表面からは汗がにじんだ。

機嫌が悪い。
そんなチームメイトの指摘は当たっている。

御堂筋の機嫌の急降下の原因は金曜日の夜中にさかのぼる。
ふと、そういえば最近は試合が込んでいて電話をしていなかったと気が付いた御堂筋は石垣に電話を掛けた。
ダイアルをしてから壁にかかった時計を見、日本時間に変換し、ああ、この時間なら寝ているかもしれない、そんなことを思いながら留守番電話に切り替わるまで待っていた。
長いコールの後、そろそろ留守番電話になるかと思ったタイミングでぶち、と音がし、電話がつながる。
遅い、そう言ってやろうと思っていたところ、聞こえた声に御堂筋は息を飲んだ。

『荒北ですけどォ』
「・・・・・・」

知らない声。自分がかけたのは石垣の個人携帯だったため石垣以外が出るとは想定しておらず、流石の御堂筋でも驚いた。
驚きついでに訳が分からず、御堂筋は電話に出た荒北を反射的に糾弾した。
しかし今、御堂筋を苛んでいるは、それが原因ではない。
石垣だって一人で日本で暮らしていれば誰かを泊めることだってあるだろう。
しかも今日は金曜日だ。家に集まって飲み会をしている可能性だってある。
前も電話をしたときにちょうど井原と辻が泊まりに来ていた時だってあったのだ。
御堂筋を苛んでいるのはそのあとに荒北が続けた言葉だった。

『今日も石垣はちゃあんと家に連れて帰りましたんでご安心ください』

今日も、と荒北はそういった。
今日もということは初めてではないということだ。
そして腹が立つのはそのことを後日石垣に電話をしたときに言外に匂わせた時に石垣が返した言葉だ。

『ちょっと、金曜は飲みすぎたんや。取引先の人が日本酒好きでな。でも普段はそんなこと全然ないから心配せんでええよ』

こういう時、御堂筋がどちらの言葉を信頼するか。
それは明明白白、荒北の言葉だった。
石垣は率直で性格がいいと思われているが、素直と言われればそうではない。
特に御堂筋に対しては変な意地を発揮するところがある。
もう学生時代からは大きく離れているのにもかかわらず、相変わらず先輩としての威信を保とうとするため、石垣は御堂筋に自分の弱さを殆ど見せない。
寂しい、会いたいといった感情面ではもちろん、仕事で心身ともにギリギリの状態であってもそれを御堂筋に見せることはない。
それは起こった事象や、体調の不良といった部分についてもそうだ。この前、一度もらい事故で二、三日入院したことも後から他の人物に聞いたくらい石垣は御堂筋に何も言わない。
そして隠していたことについて指摘するとそれをすぐ「心配かけたくないから」で済ますところが余計腹立たしいところだ。

(何回言うたら理解するんかねぇあの男は)

御堂筋は今すぐにあの男の頬を抓りあげて、説教をしてやりたいと思う。
しかし、すぐにあの男の頬を掴み上げるには日本とフランスは遠すぎる。
それにもうすぐ大きな試合がある。今からそれを放り出して日本に帰るなど到底できない。
御堂筋は消化不良な感情を歯噛みしながら、あの能天気な男に対して悪態をついた。

「キミごときがボクを苛むなんて、許さへんよ。石垣くぅん」











material:Sky Ruins