例えばなんのつもりもない時に。 届いてしまったりするのだ。 この想いは。







この想いにリボンをかけて








「今年はどうするん」

井原の言葉に石垣は今年?と首を傾げた。
センター試験も終わり、私立の入試もある程度落ちついたこともあり石垣をはじめとした三年生は部室に集まっていた。と言っても後輩主導で始まっている練習の邪魔をするわけにはいかないため、自転車をこぐ前と後、ただ着替えるために部室を借りているだけだった。
三人で京都伏見のジャージを着て、公道を走った。現役時代に使った練習コースも、使わなかったコースも当時ほどのスピードではなかったが息が切れるほどには一生懸命に。
そしてまた着替えるために戻ってきた部室で、練習が終わった後輩たちが着替えているタイミングに重なったのだった。
久しぶりにあった後輩たちはどうやら話したいことがたくさんあったようで、無遠慮に受験はどうだったのかとか、今日はどこを走ったのか、とかそんな質問を矢継ぎ早に浴びせかけられた後、最近の練習はどうだとか、タイムがどうだという話を通過し、そして雑談―今週末に控えるイベントごとに話が及んだ。
曰く、当日には何年何組が調理実習でお菓子を作るとか、女子たちが誰に義理チョコをあげるか話し合っているだとか、そんな話だ。
それをぼんやりと聞き流しながら着替えていると、突如井原が石垣の顔を覗き込んだ。そして悪戯っぽく笑う。
得意げな井原の顔に石垣は眉をひそめる。こういう顔をする井原は大抵めんどくさいことを考えていることを経験則で知っているからだ。おまけにたちの悪いことに辻まで揶揄するような表情を浮かべながら石垣のことを見ている。
石垣は二人の視線から逃げるようにしながら言葉を返す。

「どうするって、なんの事や」
「バレンタインの話や」
「バレンタイン?」
「今年は自転車の事しか考えられんって言い訳は使えんよ、石やん」

な、と笑う井原に石垣は一瞬何のことかわからずぽかんとしていたが、やがて去年と一昨年のことを思い出した。
下駄箱に入っていた手紙、呼出し。渡されたチョコレート。
そうだ、去年と一昨年の二月十四日は。
石垣は去来した光景に思わず額を押さえた。

「あー、そういうことか」 「受験があるから、って言うてももう受験終わるやろ。そこまで待ちます、って言われたら逃げ道ないしな。いやーうれしいなぁ!石やんに彼女ができるんは」
「そういって、井原は僻むやろ、石やんのこと」
「当たり前や!彼女なんてできたら石やんと遊ばへんよ」
「え!なんすか!石垣さんやっぱりそんなモテるんですか」
「そうや、去年の子はノブのクラスの子やったで」
「マジっすか、誰ですか」
「井原」

もうええやろ。石垣は調子に乗る井原を黙らせようと彼の頭を乱暴にはたく。
何故かはわからない。思った以上に力が入っていたらしい、いい音が狭い部室に響いた。
その音に、一瞬視線が集まる。それに石垣は余計に狼狽えた。

「あ、すまん」
「石やん、暴力反対」
「お前が悪いんやろ。調子乗りすぎや」
「だって、なあ。羨ましいやんか」
「しゃあないっすよ、石垣さんイケメンですもん」
「ノブ、俺がイケメンじゃないって言いたいんか」
「あれ、そう聞こえました?」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人をたしなめる他のメンバーたち。
彼らの興味が自分のほうに向いていないのをそっと確かめながら、石垣は部室の中に視線を走らせる。そして一点で止めた。
高い身長、長い手足。丸まった背中。
しかし、石垣が気遣った見慣れた背中の男は喧騒の中、話の内容を特に気にした様子も見せず、そして石垣の視線に気づいた様子もなく、いつものようにのんびりとシャツのボタンを留めているだけだった。


◆◆◆


放課後になっても教室はいつもより騒がしかった。普段であればホームルームが終わればみんなすぐに帰路につき、予備校や自習室、図書館に向かうところだが、今日はすぐに帰ることはなく、話に花を咲かせている。
その傾向は特に女子たちに強い。
昼休みはクラスの中で披露しあっていた製菓の腕をクラスの枠を超えて共有しているらしい。家で何時間もかけて作って、綺麗にラッピングしたお菓子をお互いに交換したり、味見したりをしている。
その会話の内容はこの子が作ったクッキーが美味しい、だの、トリュフが綺麗に形成できただの、どうやったらこんなにおいしく作れるのかとかそういう話が大半を占めている。そしてそんな女子たちに余ってるならくれとプライドも何もなく詰め寄る男子もいれば遠目に 眺めながらカバンを手に教室を出て行く人もいる。
それでも普段、受験に向けて少なからず殺伐としてピリピリとした空気に満たされている教室は、今日に限っては空気が緩んでおり、笑い声が絶えない。それは少なからず石垣や他のクラスメイトのささくれ立った気持ちを静めてくれていた。

そんななか石垣はクラスの喧騒の輪に入ることはせずに自分の席に座ったまま、ぼんやりと外を見ていた。一つは一緒に帰ろうと言っていた井原と辻を待っていたからで、もう一つは一人の後ろ姿を探していたからだった。
ひょろりと長い、背中。
それは石垣の部活の後輩である御堂筋翔の背中だ。
自転車置き場は昇降口から石垣のクラスの窓の下を通らないといけないため、時々窓の下を通る彼の姿を見ることができる。しかしまだ彼は石垣の眼下を通ってはいなかった。
まだ練習に行かないのだろうか。寧ろ今日は練習は休みなのだろうか。そんなことを思いながら石垣は携帯電話をぎゅ、と握りこむ。

(あいつのことや、気にしとらんとは思うけどなぁ)

御堂筋のことを思い、石垣は小さくため息をつく。

何故このタイミングで石垣が御堂筋のことを考えているのか。
それは石垣と御堂筋がインターハイの後しばらくしてからありていに言えば恋人のような関係にあったからだった。
部活の実権を奪われた三年のキャプテンと、怪物新入生。エースとアシスト。
夏までは半ば対立関係にあった二人が付き合い始めたきっかけはどちらかが明確な告白をしたりしたわけではなく半分事故のようなものだった。
それでもそれ以来、御堂筋は石垣を隣に置くようになったし、石垣も御堂筋の隣にいるようになった。恋人がするだろうことは一通り済ましてしまっている。
なあなあで始まった関係だったため、始めはどうなるものかと思っていたが、あの気難しい御堂筋と想像していたよりはうまくやっているのではないかと石垣は思っている。
なんとなくだが必要とされているような気はするし、自分も何となく御堂筋の事を必要としていると感じられる。
そしてともにいる時間が増えれば増えるほど石垣はあの理解不能な御堂筋翔という人間の様々な側面に触れる機会が増えた。
石垣は彼の純粋さとストイックさに驚き、俗物的な自分との価値観の違いや、人間関係の結び方の違いに感心したりする。
どうでもいいところにいきなり前触れもなく腹を立てることもあるし、逆に世間一般的にこだわるであろうところにドライだったりもする。
特に自分との関係に関してはあまりこだわりがないのか御堂筋は自分に対してもなにか恋人らしい言葉をねだったりしたこともないし、口にすることもない。嫉妬とかそういう感情からも無縁に見える。そして自分も彼に対して彼に対して感じている感情や気持ちを言葉にしたことはなった。
それでいいと思うこともあるが、だからこそ見えないことも多い。

その一例が先日の部室での会話だ。

御堂筋が石垣の過去の恋愛遍歴を聞いて何か思うところがあったらと思い言葉を掛けるべきかとも思ったが、しかしそんなことを言っても彼にボクがキミの過去を気にするとでもおもっとんの、ほんま自意識過剰やねえだとか別に何とも思ってへんよとか言われて馬鹿にされるような気もして結局石垣は御堂筋に何も言わなかった。
そして御堂筋もそれについて何か言及することもなければ、 普段彼がよくするように揶揄するような言葉を口にすることもなかった。
そもそも言おうが言わまいが御堂筋が素直に気にしていたとか、気にしていないとか言葉にするとは到底思えないのだが。
と、そんなことを考えていた時だった。

「なあ、石やん、幾つ貰ったん」

突如降ってきた声に石垣は我に帰ると、慌てて顔を上げる。
すればそこにはにこにこと笑う井原と辻の姿があった。
井原の機嫌が良さそうな所を見るとどうやらいいことがあったらしい。
最近は受験で忙しそうでムードメーカーの井原もふさぎ込んでいたり難しい顔をしていることが多かったため、石垣はどこかほっとしながらも笑顔を返した。

「おう、なんや井原チョコ貰えたん」
「なんとか一個!石やんは」
「まあ、そこそこ」

ちょっと見して。
井原はそういうと石垣の鞄を覗き込みながら、あからさまに大きなため息をついた。

「はーなんで石やんはそんな貰えるんや・・・不公平や」
「井原は強請るからあかんのやろ」
「そういう辻はどうなん。もろたんか」
「それなりに」
「明久はな、意外と隠れファン多いんよ」
「なんやそれ!お前たちばっかりズルいやろ!」
「井原、大学で頑張り?」
「めっちゃムカつく!」

帰りうち寄ったら妹が昨日つくっとったチョコがあるよ、そんなことを話しながら石垣は鞄を手にし、マフラーを巻く。
そして椅子から立ち上がると、まだワイワイとしている教室から出る為に後ろのドアを目指す。

「そんで石やん、今年は本命もろたんか?呼び出しは?」
「残念ながらないよ。ご期待に添えずすまんなあ」
「はー流石に三年連続はなかったんか、残念やなあ」
「まだ下駄箱にあるかもしれん」
「なんでお前たちそんな楽しそうなんや」

うきうきと楽しそうな二人に辟易しながらも、今日はどこか気晴らしに寄ろうか、などと話しつつ教室を出ようとした時だった。石垣たちは一人の女生徒とぶつかりそうになった。
すらりと高い身長。少し茶色に染まったショートヘアの彼女は石垣のクラスメイトで石垣と同じ委員会に所属している女子バレー部の元主将だった。
女子にしてはさばけた性格をしており、どちらかと言えば男子とつるんでる印象の強い彼女は石垣にとっても接しやすい女子の一人でもある。
前を見ていなかった自分たちの行動を反省しながら「すまん」と石垣がいうと彼女は腰に手を当て、呆れたようにため息を吐いた。

「アンタたち、引退してもつるんどるんやなんて相変わらず仲ええんやね」
「まあな」
「お前はあっち混じらんでええの」
「だって作ってへんもん。めんどくさいし私料理苦手やし」
「あかんやろ〜お菓子くらい作れんと」
「そういうこというから井原はモテへんのそろそろ自覚したほうがええよ」

なんやと、そういきり立つ井原のことを辻となだめる。
井原のことをそうやって刺激するのやめてや。そういうと彼女はべ、と舌を出していたずらっぽく笑った。
そして彼女はくるりと石垣の方へと向き直ると、それはそうとと続けた。

「私、石やんのこと探しとったんやった」
「オレ?」
「ちょっと委員会の仕事手伝って。先生に力仕事頼まれてな」
「ああ、ええよ」
「オマエ、一人でできるやろ」
「できひんからいうとるんやろ。そんな意地悪いうんやったら井原が手伝ってくれてもええんやけど」
「井原、いい加減にし」

彼女から離すように井原の背中を辻は乱暴に押す。そしてひらひらと手を振った。

「じゃあ、石やん先帰っとるわ」
「おう、すまんな」
「ごめんね、なんか用あった?」
「どうせファミレスか何かで話すだけやからええよ。いこか」

で、どこいけばいいん?そう問うと彼女はとりあえず職員室、と笑った。

◆◆◆

(ほんま、くだらん)

御堂筋はげんなりとしながら廊下を歩いていた。手には自転車のシューズと鞄がある。鞄の中に歯いつも通り京都伏見のサイクルジャージが詰め込まれている。今日もこれから練習だった。
しかし、御堂筋は今日は昇降口の方には向かわず、人の少ないであろう渡り廊下を目指している。

人がいないだろう経路を選んだこともあり、廊下にもほとんど人はいない。それにほっと、息を吐く。
御堂筋は元々騒がしいのがあまり好きではない。自転車が関わらないのであればうるさい場所に好んでいくこともなければ、自分で騒いだりもしないし、自己主張だってしない。もっと言ってしまえば積極的に人とかかわることすらしない。寧ろ交友関係については消極的だった。
家でもおとなしくしているし、学校でも周囲の人と一歩引いたところで接している。周りだって高校生になればある程度大人になるらしく、そんなスタンスを貫き続ける御堂筋に対して無理に関わろうとする人もいない。そのため御堂筋の学校生活は基本的には平穏無事に過ぎていく。
しかし、例外は何かのイベントがあるときだ。体育祭、文化祭、球技大会、クリスマス。そして今日の様なバレンタイン。そういうときはさすがに周囲からの干渉があり、御堂筋の周辺も多少騒がしい。
他のクラスの人が教室に入ってくるわ、学年が違う人だってやってくるわで今日は一日騒がしかった。
しかもただ傍観しているだけならばいいのだが、今日に限っては御堂筋も巻き込まれてしまい、殆ど普段関わりないクラスの女子たちから「クラスのみんなから」とかいってチョコレートを渡された。
カロリーの高いそれは自転車を漕ぐにおいて栄養補給には申し分ないため、一応形だけはありがとうと返答はしてみたものの、正直これ以上煩わされるのも面倒だった。
そのため、本来なら昇降口から部室に回るのが通常だが、この様子だと昇降口も人であふれていそうだと判断し、通常の教室が入っている棟と特別教室と職員室の棟をつなぐ渡り廊下の一階から外に出ることにした。通学用の靴は帰るときに下駄箱に寄って回収すればいい。もっと言えばどうせ自転車で通学しているのだ。一日くらい指定の靴を履かなくても問題ないだろう。

(それにしてもようやるわ、何が楽しいのかわけわからん)

バレンタインの喧騒に辟易しながら御堂筋は先日部室で交わされた会話を思い出す。
久しぶりに引退した三年生が部室にやってきたときだ。あの時、三年生たちはひどく浮かれていた。受験もひと段落つき、久し振りに自転車を漕いだこと、そして後輩たちと話せたことと相まって二年生と揃ってバレンタインのことで妙に楽しそうにしていた。
御堂筋はそんな会話を特に興味もなく、聞いていた。チョコをもらえようが貰えまいが御堂筋にとってはどうでもいいことだ。御堂筋にとっては女子に騒がれることというのは大して価値を置いていない事項だからだ。
一つ気になったことは石垣が自分に対して気遣わしげな態度を取っていたことくらいだろうか。

恐らく、石垣は自分の過去の恋愛遍歴のようなものを聞かれて御堂筋がへそを曲げるのではないかと考えたのだろうが、それはお門違いも甚だしい。
御堂筋は石垣がモテることを当然だと思っている。絶対に口にしないが顔もそこそこいいし、性格だって悪くない。確実に人好きするし、図々しいが親切だ。
何よりも石垣光太郎という男は何もいらないと思って生きてきた自分が唯一欲しいと思ったものだ。裏を返せば他の人が欲しいと思わないわけがない。
だから、過去に誰に好かれて、告白をされていて、それでどうなっていても―付き合っていようが別れていようが御堂筋には関係がない、というか何を思っても仕方がないのだということも。
だがそうはいってもそれは過去であるからして御堂筋にとってどうでもいいことではあるだけで、今後についてはよくわからないというのが正直なところだった。
そもそも御堂筋は石垣から自分に向いている感情が上手く理解できていない。
御堂筋もそうだが石垣も自分の気持ちを何か明確な言葉にすることをしない。だから隣にいるようになってある程度の時間を経過した今も彼が自分に抱いている感情が同情なのか、憐憫の感情なのか、捨て猫を拾うような形のただの庇護欲からきているのか全く見えないのだ。
御堂筋からしてみれば同情や、可哀想といった感情から一緒にいてくれているのだと思うのが一番納得がしやすい。
しかし、そうだとするともしも今、自分より可哀想な存在が目の前に現れたら、彼が手を貸したいとか構いたいと思った対象が目の前に現れたらあのお人よしの石垣光太郎は同じように手を差し伸べてしまうのだろうと思う。
可哀想だから、自分がいないと進めないから。そんな感情を想起させる相手が現れたら。その時彼はどうするのだろう。迷わずそっちに行くのではないだろうか。
あの優しい手で掴んでいた御堂筋の手を、なんの躊躇もなく、手放して。
そこまで考えたところで御堂筋は我に返り、そして自分を嫌悪するようにため息を吐いた。

(くうだらん)

本当に無駄な感情だ。
こういう下らないことに心が捕らわれたときは無心でペダルを踏むに限る。早くデ・ローザに跨ってこの学校から抜け出して道路を走ろう。練習コースも人がいない道に変えよう。
そんなことを考えながら御堂筋は渡り廊下へと続く扉を開ける。するとそこには御堂筋の予想通り、他に誰もおらず御堂筋が求めていた静寂があった。
やっと戻ってきた日常にほっと息を吐く。渡り廊下から一歩出たところのコンクリートが打ちっぱなしになっているところに靴を投げ出すとしゃがみこんだ。
一年たって薄汚れてきた上履きを脱ぎ捨て、履きなれたロードレース用の靴に足を突っ込む。そしてマジックテープの部分を止めていた時、なにやら特別教室等の方から声が聞こえてきた。ついで、特別教室棟から外に出る方の扉ががちゃりと音を立てて開く。

「ほんま助かったわ、ありがとう」

静かな渡り廊下に少し楽しそうな女子生徒の声が響いた。そして続く二人分の足音。
先を歩く恐らく今の声の主であろう女生徒の足音は少し、軽い。相当機嫌がいいようだ。
対して、その後ろを行く人物は特に浮かれた様子もなく普通に歩いている。しかし、歩幅と足音の感じ、それは恐らく女性のものではない。
異性の、特に恋愛沙汰の感情の機微にはあまり敏感ではない御堂筋だったが女生徒の声のトーンに何か嫌な予感が背中を駆け抜ける。
楽しげな中に少し緊張を含んだ声音。恐らく性別の違うであろう二人の足音。今日の日付。学校の浮かれた雰囲気。

(ファ、勘弁してや。キモ)

また都合の悪いことに、自分が今いる場所は二人が歩いて来ている方からは死角になっている。恐らく彼女は二人以外に誰もいないと、そう思っているだろう。
面倒なことに巻き込まれないためにはさっさとこの場所を立ち去るが吉だ。そう御堂筋は判断すると部室に行くべく、まだちゃんと靴が履けていなかったが立ち上がろうとした。
と、その瞬間、御堂筋の耳に届いた声。それに御堂筋は動きを止めた。

「ああ、ええよ。あんなに重いもん、流石に持てへんもんな」

高くもなければ低くもない。そして柔らかい、優しい落ち着いた声。
その声が強張るのも、恫喝するところも頼りなく揺れるところも全て知っている。
それは聞き間違えるはずはない。顔を確認しなくてもわかる。聞きなれた男の声だった。
石垣光太郎。
自分のアシストで、二年上の先輩で、御堂筋の世界に唯一存在を許されている人間。
ひとりになろうとする自分の腕を引き、ひとりにさせまいと干渉してき、隣でにこにこと笑う煩わしい人間。
しかし、どうしても振り切ることができない上に、いつの間にか自分の荷物の一つになりいろいろな煩わしい事象や感情を齎すそんな存在だった。
のほほんとした石垣の声音に御堂筋は大仰にため息を吐きたくなった。
立ち上がり振り返ってやろうかと考える。
が、そうした後そこに流れるであろう微妙な空気のことを思うとそれも憚れた。
そんなことを考えて御堂筋が動けないでいると、女生徒の足音がぴたりと止まる。
そして、緊張したような少し硬い声音で、ねえ、と言葉を紡ぐ。

「石やん」
「ん、何や」
「ちょっと話があるんやけど」
「話?」

御堂筋は心の内で小さく、舌打ちをする。
よりによって。よりによってこの男のこういう場面に出くわすとは運がない。
こんなんだったら昇降口で知らない生徒同士が面倒くさいやり取りをしている中を抜けてきた方がよっぽどましだった。
そして何より自分のなかに生まれた動揺のようなものに御堂筋は混乱をしていた。
この男は、彼女が紡ぐだろう言葉に何と答えるのか。切実な感情に、どうこたえるのか。それが気になってしまい、足が動かない。
他人なんてどうでもよかったはずなのに。なんて思われていようが、どう評されていようがどうでもよかったはずなのに。
ただ、母親にだけ、自転車の神様にだけ、褒められ認められていればそれだけでよかったのに。
何故、こんな何の意味もない、お気楽な男に自分がかき乱されなくてはいけないのだ。

(だから面倒なんや、こういうイベントごとも、誰かに振り回されることも)

御堂筋はため息をつきながらも、それでもそこから逃げ出すこともできず、音がしないようにそっと浮かしかけた腰を打ちっぱなしのコンクリートの上に下ろした。


◆◆◆


「私ずーっと、石やんのこと好きやってん」

手伝いを終え、渡り廊下に差しかかったその瞬間、彼女が振り返ったときに浮かべていた表情。
それに石垣はしまったと、そう思った。
大きな目の中に揺れる感情。それに石垣は既視感を覚える。
しかし、全く想定していなかった状況に思わず冗談やんな、そんな言葉が零れ落ちそうになるのを必死に押しとどめる。
冗談なんかではないのを石垣はひしひしと感じていたからだ。それほどに彼女の視線は何処までもまっすぐで透き通っている。
彼女は恐らく呆然とした表情で見つめる石垣に、優しく笑って見せる。

「でもずーっと言えへんかったん。石やん、自転車が一番やってわかっとったし、自転車理由に断ってるのも知っとった。それが嘘でもなんでもなくて、本当にインハイで勝ちたいんやろうなってわかってた。だから今年しかないんやろうなーって」
「そうか」

石垣は彼女の真剣な視線を受け止めながらも、心の中でこの状況から抜け出すための言葉を探す。
彼女のことは嫌いではない。クラスもこの三年間で二回一緒で、あの男子と女子分け隔てなく接してくれるところに何度も助けられていた。
快活で、クラスの雰囲気を明るくしてくれた。石垣の苦手な教科は教えてくれたし、寝ていた時はノートを貸してくれた。
クラスの女子の中で誰が一番仲がいいか。そういわれたら石垣は迷うことなく彼女の名前を上げるだろう。
それでも石垣の中に彼女の気持ちを受け止めるという選択肢は浮かぶことすらなかった。
裏切りたくない、とかいう意味ではない。純粋に彼女への好意とあの男への好意はステージが違うのだ。

(なんて言えばええんやろうな)

去年までは明快だった。自転車やインターハイに対する思いが強すぎて恋愛に向けている暇がないから、それでよかったし、正直それが全てだった。
しかし、自転車のことしか考えられないという回答は既に彼女の言葉によって封じられている。
大学受験だって同じ三年生だ、もうすぐ終わることだって彼女は百も承知だろう。
そうなのだとすれば。

(ちゃんと、答えなあかんのやろうな)

その時石垣の脳裏に一人の後ろ姿が浮かんだ。それはいつも周囲に対して興味がなさそうにしながら、ただ真っ直ぐに自分の道だけを見据えている人だ。あまりにも純粋で、まっすぐで、強いながらもひどくもろく、危うげな均衡の上で辛うじて存在をしているような人物。
ひょろりと長い身長。無駄なくついた筋肉。細くて長い指。どこを見ているのか判然としない黒い瞳。歯並びのいい白い歯。
京都伏見のエース。怪物一年生。御堂筋翔。
そしてそれは放って置けないから、あの純粋さに心酔をしているから、酷く思考は大人びている癖に時々見せる子供のような意地の悪さが愛おしいからなど様々な感情が混じり合った上で今石垣が一番大切にしている人間でもある。

正直に言えば、彼とのことを誰にも言うつもりはなかった。もちろん、誰と付き合っているかなんて言うつもりはない。それでも、自分に相手がいることさえ石垣は周囲に知られたくはなかった。
自分の想い人が同性だからとかそういう理由でもない。そんなことはきっと少々周囲に気味悪がられるか軽蔑されるだけで、石垣にとっては大きな問題でもない。
ただ、石垣が恐れているのはそれによって彼に迷惑がかかり、彼が自分との関係を解消する方向に傾くことだ。
否、迷惑なんて恐らく掛からない。違う。自分の感情の名前が彼に届くことすら石垣は出来る事なら回避しておきたいとすら思っている。
彼は無駄なものを持たない。そんな彼が自分のことを彼の世界にいることを許してくれている。少なくとも、今は。
しかしもしも彼が石垣の彼に対して抱いている感情の名前を知って、それを邪魔だったり重いと感じてしまったとしたら、それによって彼を煩わせるようなことになれば、めんどくさいといって石垣のことを放り出さない保証はないのだ。どう転んでも高校を卒業しなくてはいけない石垣には、彼が自転車を走らせるうえでの道具としての利用価値すら既にない。その上、彼のことを煩わせるようなことがあれば簡単に切られるのは想像に難くない。思えばなにか明確な言葉を交わして隣にいるわけではない。何が切っ掛けで切れてしまうのかわからないような細い糸で辛うじて繋がっているようなそんな関係なのだ。
でも、と石垣は思う。
かといって、こんな真摯に自分を求めてくれる彼女にその場凌ぎの回答をするのも石垣の矜持が許さない。
嘘なんて吐こうと思えばいくらでも吐ける。だが、そうしたくなかった。それが石垣の精いっぱいの誠意だ。
石垣はそっと息を吸い、ゆっくりと吐く。そして顔を上げると彼女のことを見つめた。彼女は不安そうな目で石垣を見つめている。それに笑顔を、返す。

「ほんまありがとう、好きや言ってもらえてめっちゃ嬉しい。やけどごめん」

そして、誰にも言わんといてな、と前置きをして石垣は真っ直ぐに彼女に告げた。



「オレ、好きな子おんねん」



◆◆◆


「天下の往来を占領して、いいご身分やねえ石垣くぅん?」

女生徒がその場から去り、校舎へと続く扉が閉じたところで御堂筋はハァ、とワザとらしくため息を吐いた。そして、ゆっくりと立ち上がる。
すれば、彼女が階段を上がっていったのを確認したのだろう、校舎の方に戻ろうと歩き出した石垣と目があった。
石垣は突然自分の死角から現れた人物に呆けた顔をしていたが、それが誰か認識したところで大きな目をさらに大きく見開いた。

「み、御堂筋?」
「はー相変わらずアホ面やね、石垣くん」
「な、なんで」

なんでこんなとこおるん。
石垣は卒倒するのではないかと思うくらい顔を引きつらせながらおずおずと御堂筋の傍までやってきた。
そして石垣は御堂筋の足元に転がる上履きと先ほどまで自分が立っていた場所と見比べながら、ぴくりと表情を歪める。
御堂筋がいた場所と石垣が経っていた場所の間にはそんなに距離はない。声が届く距離。石垣はそれに気が付いたのだろう。恐る恐るといったようすで、ゆっくりと御堂筋のほうを振り仰いだ。

「なあ、御堂筋。なんか聞いたか」
「さあ?」

否定も肯定もせず首をかしげると、石垣は眉を顰めながらながら大仰にため息をつき、肩を落とした。そして小さく、最悪やと呟く。

「何が最悪なん。靴履き替えてただけでキミらの恋愛ごっこに巻き込まれる羽目になって柄にもなく気ィ遣わんといけんかったボクの方が最悪や」
「まあそうやけどなぁ」

まさか聞かれているとは。
石垣はまだそんなことを小さく口の中で呟いている。
珍しく煮え切らない態度をとる石垣に御堂筋は自分の中でちょっとした嗜虐心が持ち上がるのを感じる。
そして石垣の顔をぐい、と覗き込むと、目を細めた。

「それにしても結構可愛い子やったんとちゃうの。ええの」
「ええのって、何がや」
「最後のチャンスやったかもしれんよ。この先キミィがモテる保証なんてないんやから。忠告しといたるわ」

石垣は御堂筋の言葉にきょとんとした表情を作る。そして困ったように笑った。

「まあ、今はこれでええよ」
「あ、そ」
「ああ、そうや御堂筋、どっか寄って帰らへん」
「ハァ?ボクゥ練習やで?ほんま受験生様は暢気で羨ましいわ」
「ああ、せやったな。すまんすまん」

練習頑張ってな。
そう笑う石垣に曖昧に返事をすると御堂筋は地面に落ちていた鞄を拾い上げ、足早に部室へと急いだ。


◆◆◆


「あんな貰っといてお返しせんとか石垣くんはほんま薄情やね」

時は三月十四日、夕刻。部活が終わった後の御堂筋は石垣と川沿いのベンチで休憩をしていた。
傍らにはアンカーとデ・ローザが止まっている。
大学にはいったらなかなか家の周りを走る機会もなくなるかもしれない。そんなことを言いだした石垣に付き合って学校から自転車を走らせてきたのだった。
御堂筋は京都伏見のジャージを、既に卒業をしている石垣は流石に学校のものを切る勇気がないとかでメーカー品のジャージを纏っている。
少し休んだら、家に帰らなくてはいけない。春に向かっているとはいえ、まだ日は長いとは言えないし、走れないこともないが夜の道を走るのはあまり好ましくない。
石垣は隣でスポーツドリンクを喉に流し込みながら、御堂筋の言葉に苦々しく表情を歪めた。

「しゃーないやろ、卒業しとるし。くれたクラスの子もみんな学校きとらんし。不可抗力や。そういう御堂筋はちゃんとお返ししたんか」
「せんと女子って煩いんやろ?ほとんどユキちゃんが食べたからな、ユキちゃんに買ってきてもらってくばっといたわ」
「御堂筋がお返し配るとか、めっちゃおもろいな」

見たかったわ、と石垣は、目を細める。
そんな石垣に御堂筋は辟易する。
クラスの女子にお菓子を配る作業は正直言って苦行以外の何でもなかった。
ありがとう、そんな言葉を添えて机に置くだけだが、正直勘弁してほしかった。
来年からは絶対に断わってやろう。寧ろ学校に行くのをやめた方がいい。そんなことを決意したところで御堂筋はあることを思い出した。
そして傍らの鞄を引き寄せると鞄の中に手を突っ込む。そして指先にあたった紙の箱を引っ張り出した。
白い、シンプルな箱にかかった水色のリボン。それを御堂筋は隣の石垣の方へと押し付けた。

「キミにやるわ、それ」

石垣は突然の御堂筋の行動にぱちぱちと瞬きをした。
そして怪訝そうに御堂筋を見やりながら眉を顰める。

「は?オレなんか御堂筋にあげたか?」
「学校で配ったのが余っただけや、要らんのやったら捨てるからええよ」
「そうなん?やったら貰っとくわ。捨てるの勿体ないやろ」

ありがとうな、そう石垣が笑うのに御堂筋は目を細める。
そして顔を逸らしながら、そろそろ帰るよ、と告げた。

自転車に跨り、いつものようにオーダーを飛ばす。そして二人で縦に並んで公道を走る。石垣はこれまたいつも通り御堂筋の前を走っている。
行きも思ったが石垣は少し現役の時から遅くなっている。受験の期間、自転車に乗っていなかったからだろう。筋力も流石に多少は落ちているに違いない。
それでも、今日も練習で筋肉を酷使したから御堂筋にとっても石垣のペースはちょうどいい。春の風が感じられる丁度いい早さだった。
御堂筋は前を行く、自分と同じジャージを着ていない石垣の背中を見やりながら、それにしても、と舌打ちする。
それにしても柄にもないことをした。
クラスメイトに渡したお菓子は確かに、久屋のユキに買ってもらったものだ。
しかし石垣に渡した箱。それだけは他のものと違い、御堂筋が自分で用意したものだった。

『オレ、好きな子おんねん』

あの時の石垣の言葉を思い出す。少し照れたようにそれでもまっすぐに告げられた石垣の言葉。
正直、驚いた。そしてどこか安堵をしたのだった。
石垣が自分に向けていた感情が同情やらそういう彼らしい感情だけで構築されたわけではなかったことに。
かといって、石垣があの後、御堂筋にそういう言葉を言ったわけでもなければ、御堂筋が石垣に何かを言ったということもない。
石垣にとっては御堂筋との関係というのは今までと何ら変わっていない、正直よくわからないものとして定義されているのだろう。
それでも。

(絶対ゆうたらへんけど)

あの言葉に対する答えなのだと、石垣はきっと気付かないのだろう。
きっと何も気づかないままに石垣はあの菓子を腹の中に収めるのだ。それで、御堂筋の腕に絡め取られたことに気が付かないままに。

(もう離したらへんよ、石垣くん)

石垣の背中に向かって御堂筋はこっそりと口角を持ち上げた。












material:Sky Ruins