「御堂筋、別れてくれんか」 狭い部屋の中。 そこに押し殺したような彼の言葉が、響いた。 メランコリーキッチン 「ほんとなんなんやろうねぇ」 御堂筋は狭い部屋の中でため息を吐く。 しかし、他の人のいない部屋の中では御堂筋の呟きもため息も誰にも拾われることはなく、宙に浮かんで、ぽとりと落ちた。 ワンルームマンションの三階。 一人で暮らすには十分な部屋から見える景色はすでに闇に沈んでいた。 ベッドと自転車と、そして机が一つ置かれただけの部屋。そんな部屋の中で御堂筋はベッドに寝転んでいた。 御堂筋の食卓の上にはスーパーで買って来た惣菜類の容器が並んでいる。 唐揚げ、ポテトサラダ、野菜の炒めもの。 それは大学の部活での練習が終わった後、御堂筋が閉店間際のスーパーで買ってきたものだ。 しかし御堂筋はそれらに一口ずつ手を付けたところで食べるのをやめていた。 店頭に並んでいる中ではできるだけ自分が好きなものを買ってきたつもりだった。 それなのにまったくもって食欲がわかなかった。なぜかはわからない。具合が悪いわけでもない。だがどれも味気なく、美味しく感じることができなかったのだ。 もちろんその理由はスーパーの惣菜だからというわけではない。スポーツ選手として体調管理には人一倍気を使っている方だと自負はしているが、別に普段から凄い凝った料理を食べるわけではない。自炊をすることもあるし、出来合いの料理を買ってくることもある。もう少し野菜が多い食卓であることが多いが、大抵は似たようなメニューが並ぶ。 酷い時はコンビニの弁当を食べるときだってあるし、牛丼チェーンのテイクアウトをすることだってある。ファーストフーズチェーンのメニューを買ってくることだってある。それに比べれば今日のメニューはもう少し、まともだと思う。 では何が違うのか。 そんなことはわかりきっている。いつも自分の目の前に座る人―石垣光太郎がいないからだ。 『御堂筋、話が在るんやけど』 彼が、自分の前に座り、ペットボトルのお茶をガラスのコップに注ぎながら話を切り出したのは、そう、つい二週間ほど前のことだった。 御堂筋が大学に入り、久屋の家から出て一人暮らしを始めてから石垣は御堂筋の家に時々来ては晩御飯を食べていた。いつも二人で、小さい机を挟んで向かい合って。 一緒に料理を作ることもあったし、どこかで大量に買い込んできた食材を並べることもあった。冬はディスカウントストアで買ってきた卓上コンロで鍋をして、入れる野菜や、その切り方について言い合いをした。 その習慣は石垣が大学を卒業し、会社の寮に住むようになっても大きく変わることはなかった。 スーツを纏い、ネクタイを締めて、手にスーパーの袋をさげてやってくる彼は学生時代の彼から見ればだいぶ大人びて見える。ただ、服装が変わっただけだとはいえ、まだ学生の身分である御堂筋はそんな石垣にイライラすることもあった。 しかし石垣は石垣だ。社会人になって寮暮らしを始めたといっても、それで自炊を始めるようになったといっても相変わらず料理はからきしであるし、家事全般もできない。 そんな彼の悪い意味で成長しない部分を見つけては、小さく安堵して、彼のパリッとしたワイシャツから伸びる腕が、わかめしか入っていない塩っ辛い味噌汁や、ちゃんと包丁で切ることができずぐちゃぐちゃになった冷奴や、何で味付けをしたのかわからない豚バラ肉を炒めたものや、微妙にヘタの残るトマトを申し訳なさそうに並べるのをいつもどこか楽しく眺めていたのだが。 『話?』 差し出されたコップを受け取りながら御堂筋は首をかしげた。 その言葉に石垣は少し困ったように小さく頷く。 その時、ガラスのコップが濡れていたように感じたのは石垣が中身をこぼしたのが表面を伝っていたからか、はたまた。 彼は机の端に置いてあった冷奴用の醤油を御堂筋の方に押しやりながら続けた。 『実は、今日人事が発表されてな、オレ、異動になってん』 『ふうん?どこ行くん』 『東京や』 石垣の言葉に御堂筋は一瞬だけ、豚バラ肉を掴もうとした箸を止める。そして京都と東京の間に横たわる距離を推し量り、そっと息をついた。 『そりゃあまた遠いとこやね、いつから』 『再来週』 『ふうん、それはなかなか急やね。社会人さんは大変やなあ』 『せやなあ、まさか二週間で引っ越しから引き継ぎから全部やらされるとは思うてへんかったわ』 石垣はそう言うと机に置いてあった味噌汁の椀を取り上げ箸でくるりと味噌汁を混ぜる。その拍子に緑黒いワカメが水面でその身を翻す。 『そんでな、京都にもしょっちゅう帰れんようなるし、お前も春から海外やろ』 『そうやね』 『だから、ちょうどええと思うんよ』 丁度いい? その言葉に御堂筋はのっそりと顔を上げる。 そして、石垣は申し訳なさそうに眉を下げながらそれでも彼にしてははっきりと言い切ったのだった。 「なーにが丁度ええや」 確かに売り言葉に買い言葉。 御堂筋はそんなことを言ってきた石垣に、そしてもう決めたのだと言わんばかりに自分をまっすぐに見つめる石垣に無性に腹が立った。 そして苛立ちついでにこう返したのだった。 『だったら別れてやるわ、嬉しいやろ』 そんな御堂筋の態度に石垣は少し傷付いたようなそぶりを見せたが、すぐにそうやな嬉しいわ、といって塩辛い味噌汁をすすっていた。 そして全てを食べ終えて、食器を全部洗ってから、じゃあと、あっさりと、まるでいつものように帰っていった。それを御堂筋はいつものように玄関まで見送ることもせず、そのまま閉じる扉の音を聞いていただけだった。 それが二週間前。 それ以降、彼が自分の部屋にやってくることはなかった。 もっと言えば連絡さえ一度もなかった。二週間。彼の話からすれば彼はすでに東京に行ったということになるだろう。 荷物を引き払って、きっとあの赤い自転車は連れて行って、もうこの街にはいないのだ。 御堂筋の視界に入ることのない東京の空の下、彼は変わらず笑っているのだろう。 清々する。そう、あの時は確かにそう思った。 勝手で、いつも人のためだと言いながら自己保身に走る男にいい加減うんざりしていたはずだった。 堂々としているのかと見せて自分との関係に関して言えば意外と臆病で、マイナス思考を見せる彼を鬱陶しいとも思っていた。 しかし、面倒臭いことに日を追うごとに気分が塞ぐ。もっと言えば、世界の色がくすむ。なによりも食事が美味しくない。 彼が立たない台所も、空っぽの向かいの席も。使われず食器カゴにしまわれたままの、今自分の食卓に置いてあるのと揃いの食器と箸も。 「あの男いい加減にしてほしいわ」 御堂筋は溜め息を一つ。 そしてベッドから体を起こすと、床に投げ出されていたカバンを掴む。 そのまま玄関に向かい、放り出していた靴を履き、玄関を狭くしている原因である銀色の愛車のハンドルを掴む。 これから走る距離。それを考えて整備をするべきかを一瞬だけ考えるが、しかしその時間すらーたとえ到着時間がそう変わらないと想定してもー惜しい。 ヘルメットだけしっかりと装着すると自転車を抱えながら背中でドアを押しあける。すると春の夜の空気が御堂筋の体を優しく包んだ。 「ボクのこと振り回すことができるんはキミぐらいやよ、石垣くん」 ◇ ◇ ◇ 「ああ、そうや買いたいものがあったんやった」 石垣が実家を出て会社の寮に住むと決まってしばらくした日曜日、御堂筋と石垣は一緒にホームセンターに来ていた。 石垣が入る寮は寮といってもワンルームの集合住宅で食事が出るわけでもないし、みんなで共用する部屋があるわけでもない。そのため、家具やら生活必需品は各自用意をしなくてはいけなかった。 引っ越しは確か終わっていた。家電は親と買ったらしいし、家具は自分の部屋で使っていた物を持ち込んだといっていた。 あと揃えなくてはいけないのは細々としたものだ。タオルとか、それを入れる棚だとか、歯ブラシだとか、そんなもので。 結構な金額になるだろうものを石垣はカゴに詰め込んで、これを持って帰る気なのかとげんなりする御堂筋に構う様子もなく、彼が最後に向かったのは食器売り場のコーナーだった。 「食器?キミ、料理するん」 これ以上荷物が重くなるーそれも一番重いものだーに御堂筋が苦言を呈すと彼はいやあな、と嬉しそうに笑った。 「自分の分は家から持って行くからええんやけど、お前が遊びに来てくれるんやったら買っとかんとあかんやろ」 「ハァ?いつボクがキミんち行くいうたんや」 「来てくれへんの?」 石垣は驚いたように首をかしげる。 そんな石垣に御堂筋は言葉に詰まる。そう言われて仕舞えば、困る。 そんな御堂筋を見越してだろう、石垣は楽しそうに笑った。 「せっかくやから、揃いの皿にしようや」 「...キミ、頭沸きすぎやよ」 「ええやん、てかお前さっきちゃっかり歯ブラシ二本入れたやろ」 「すぐ痛んで交換せんとあかんようになったときのためやよ」 「はいはい」 どれがいいかな。 そんなことを言いながら石垣は食器を次々とカゴに入れていく。お茶碗、お椀、平皿、箸などなど。 その枚数に、御堂筋は眉根を寄せた。 「石垣くん」 「ん?」 「なんで四枚なん?」 「ああ」 すぐわかるよ。そういった石垣が、4枚のうち2枚を御堂筋の家に持ち込んだのはその次の日曜日のことだった。 ◇ ◇ ◇ 「はー今日も疲れたなあ」 ばたん、とスーツのままベッドに倒れこみながら石垣はため息をついた。 つい二、三日前に入居したばかりの東京の新居は雑然としている。 山と積まれた段ボールはいつになったら片付くのだろうか、と石垣はげんなりした。 とりあえず洗面台と風呂場で使うものと、布団・ベッド類の箱だけは空いていたが他はまだ積まれたままだ。 食器も書籍類も、全部、箱に詰まっている。それらを棚に押し込む作業のことを考えるとひどく憂鬱だ。 「飯食うか」 石垣はのっそりと起き上がると台所に置いたままにしている晩御飯のところへと歩を進めた。 それはコンビニで買ったパスタと、つまみ、そしてビールだった。 パスタは店で温めて貰っていた(電子レンジもまだ使えないからだ)し、つまみもそのままに食べればいい。 ビールは、と思ったところで仕方なく石垣は台所に積まれた段ボールに視線を向けた。 辻や井原と飲んだ時に、ビールは缶から飲むのではなくでグラスから飲んだ方がうまいというウェブの記事を実践をしたことを思い出したからだった。 慣れない東京の生活、耳になれない言葉。関西に比べたらどこか冷たい印象を受ける東京の人たちに戸惑いながら仕事をしていて、それなりに頑張れているような気はしているが、いかんせん精神が疲れている。 そんな自分のことをねぎらうためにも少しでもおいしく酒を飲みたかった。 幸いなことに当時の自分は大したもので、段ボールに食器、とか調味料とか、調理器具、とか入っているものをざっくりと書いてくれていたため、少し段ボール箱を積み替えて、中身を改めるだけで済んだ。 ビールを飲むためのグラス、段ボールの中を少し乱暴にかき回しながら見つけたそれを取り出しながら石垣はふと、手を止めた。 というのもその隣に入っているものに目が止まったからだ。 まったく同じ形のグラス。そしてその隣には色違いの茶碗。揃いの箸。 それらに石垣はもう一度蓋をするとへたり込むようにキッチン台に背を預けながらずるずると床にへたり込んだ。 それは考えるまでもない、御堂筋と自分でそろえて買った、そんな食器類だ。 そしてそれらを使ってくれる人はもう、いない。 それらは自分が一人暮らしを始めて、浮かれていた時に彼と買いに行った食器だ。 確かあの時、彼はひどく鬱陶しそうな目で自分のことを見ていた。 おまけに完全に浮かれきっていた石垣は石垣の家に置いておく分だけではなく、御堂筋の家に置いておく食器もペアにしてしまったから彼は余計に呆れきっていた。 それでも、彼はそれを捨てないでいてくれたし、彼が自分のために料理をしてくれるときは絶対にその食器を使ってくれた。 それは御堂筋の家に行った時も、石垣の家に来てくれた時も。 「ずるいよなあ、ほんまに」 ぶり返してくる記憶に眩暈を覚えながら石垣は部屋の天井を仰ぎ、深いため息をつきながら目を閉じた。 別れたいとそう、食卓を挟んで食事をしていた時に切り出したのは他でもない、自分だった。 もうすぐ御堂筋が海外に行く。それだけで不安になっていたのに、それに追い打ちをかけたのが今回の東京への異動だった。 今までも、彼の将来を考えたら自分は重りになるのではないかとかそんなことを考えていた。男と付き合っていると周囲にばれたら、とか、彼にも家族というものがあったほうがいいとか、そんなことを思ってはいた。 しかし、今回自分が異動になり、御堂筋と離れることになって初めて石垣は自分の御堂筋への執着の大きさと、同時に自分こそが彼と歩む未来を恐れていることを知ったのだ。 海外に行った彼とはそう頻繁に会えないだろうし、彼が日本に帰国をしたとしても自分の育ての親である京都の久屋の家に行ってしまうだりう。そんな時、きっと自分は彼と会えないことに苛まれる。 そしてこの先、周囲が結婚をしていくのを目の当たりにした時、もともと同性愛者でもなんでもない自分が、彼との未来を選んだことに傷つくことがあったなら、もっと言えば後悔をしてしまったら。 そんな思いをするくらいだったら、自分が今彼の手を離せばいい。 そんなある種短絡的で衝動的な感傷で石垣は御堂筋の手を振り払った。 御堂筋は、そんな石垣のことを容赦無く突き放してくれた。否、そう仕向けたと言ったほうが正しいだろう。 それなのに。 揃いの皿、箸、湯のみ。 不恰好な春巻き、薄味の味噌汁。 遅くなった自分を待って、冷めた野菜炒め。 それでも手をつけずに待ってくれた、向かいで不機嫌そうにする人。 うまいなあ、というと、次はもっとうまく作るわとそうぶっきらぼうに返す人。 いまさらになって気付く。 あの自分勝手で傍若無人な彼はこんなにも自分のことを大切にしてくれていたということに。 明確に言葉にはしなくとも、自分のことを、そして自分との未来を望んでくれていたことに。 「ほんま、難儀やなあ」 石垣はそう苦笑するとスマートフォンを取り出した。そして、見慣れた男の電話番号を呼び出す。 今更と彼は怒るだろうか、もう捨てたものは拾わないとそう、突き放されるだろうか。 それでも。 石垣は深く息を吸う。 そして思い切って通話ボタンを押そうとしたその瞬間、画面が切り替わった。 着信を知らせる画面、そこに表示された名前に。 石垣は大きく目を見開いた。 腹を空かせた御堂筋が石垣の家の惨状に悪態をつき、揃いの箸と揃いのグラスで、冷めたパスタとぬるいビールを飲んだのは。 また、別のお話。 material:Sky Ruins |