かちりと。 錠が落ちた棚の中。 そこに並ぶもの。







宝物は誰にも見せてはいけません








初夏へと季節は向かっている。枝に芽吹いた緑はだんだんと色を濃くし、空気が熱を帯びてくる。風に水の匂いが混じり、コートもすでに必要なくなるそんな季節。
そんな空気の中、安は一人、車を走らせていた。川沿いの道には他に車は見えない。そのため、誰にも迷惑をかけないことをいいことに窓を開けてアクセルを緩めゆっくりと。
こういう風にゆっくり車を走らせるのは久しぶりだった。
殆どの生徒が進学をする進学校である京都伏見高等学校で、数少ない就職組である自分は周囲の友達が大学の新歓だ、履修がどうだとのんびりしている間も社会人として仕事に奔走していた。
時間で区切られた業務。一日のノルマ、週次のノルマ、月次のノルマ。
考え方も学生のものから社会人のモードへと切り替えながらその中で安は必死に安は仕事をした。高卒だと舐められても癪だ。そしてなによりあまり表には出してこなかったが強豪である京都伏見高等学校でロードレースを、そのなかでも主将を務めた人間だ。それなりに負けず嫌いなところもある。同期の誰よりも、そういう思いがないかと言えば迷うことなくあると、そう言える。
入社してからの怒涛の二か月が過ぎ、ようやく体も気持ちも仕事に慣れてきた。そう思えるようになるまでは週末が来れば一日眠るか、だらだらと過ごしていたがそれにも飽きて外出をしようという気にもなってきた。それで家族の車を借りて出かけたのだった。
全開にした窓からは川を渡るひやりとした風が吹き込んでおり、少し上がった気温に暑さを感じていた?から熱を奪っていく。その感覚が無性に気持ちがよく、そして懐かしく、安は目を細めた。

(自転車に最適な季節やなあ)

冬が終わり、春の肌寒く、そして新入生の勧誘という期待と面倒くささに満ちた季節も抜ければそこは楽園だった。
昨年まではこの季節に差し掛かると、新しく入ってきた後輩の実力も素質も見えてきて、夏をどう過ごそうか、どんなレースをしていこうかとそんなことに思いを馳せたものだ。
クライマーは誰を選ぶか、スプリンターは、そしてアシストは。そう同級生と話し合った。
しかし今はすっかり逆の立場なのだろう。
今年入ってきた新人は誰が一番使えるのか。成果を出すのか、便利なのか。選ばれる側に何としても食い込まんとあかんなあ、と思う。一年生や二年生の時にレギュラーに入ることを許された時のように。

そんなことを思いながらぼんやりと川の方に視線をやっている時だった。
ふと、視界の端を過った色。
それに思わず安はブレーキを踏んだ。

安は後ろに車がいなかったことをサイドミラーで確かめ、ほっと胸をなでおろしながらももう一度視線をその色のほうに向ける。
そこにあったのは赤い―新緑や川の青から対極にある色であるロードバイクだった。
細く、華奢な印象を持つ車体に塗装された色。
そこに刻まれたメーカーのロゴ。傷がないわけではない、それでも丁寧に手入れをされた車体。
見間違えるはずがない、見慣れたそれから連想されるのはその自転車の所有者である一人の男の笑顔だった。

(光太郎のアンカーやないか)

ここ最近しばらく沈みがちだった気分がわずかに高揚するのを感じながら、安は自転車のそばに人影を探す。しかし、自転車の周りに人影は見えない。休憩でもしているのだろうか。それともトイレか何かか。それにしてもあんな高価な自転車をチェーンもかけずに河原に止めるというのは無防備に過ぎる。
安は首をかしげながら、視線を巡らせる範囲を広げた。すれば自転車から少し離れたところに一人の高校生ぐらいの年頃の少年が立っているのを見つけた。
スラリとした体躯。バランスよくついた筋肉。スポーツをする者らしい短めの黒い髪。メーカー品の黒いジャージに身を包んだ男。
それは、自分の学校のジャージを着ていなかったとしても見間違うはずはない、自分のことを慕い、懸命に自転車を走らせていた後輩の一人、石垣光太郎だった。
彼は川に巡らされている柵に上体を預けて川のほうを覗き込んでいる。傍には投げ出されたリュックが落ちているだけで他に人影はない。止められている自転車は一台だし、他に誰かと来ているというわけでもなさそうだ。
少し、声をかけてやろうか。久しぶりに見る石垣の姿に、少し嬉しくなり、もう一度後続に車がいないことを確認すると路肩に車を寄せ、安は車を降りた。そしてそのまま石垣のほうに足を向ける。
そんな安に、石垣は全く気付く様子もない。

周りに意識を全く配らず、川のほうに集中している石垣はいったい何をしているのだろうか。遠目にはわからなかったが近づいていくとその手に彼はカメラを持っている。彼の手の中にあるのは望遠レンズが付いた本格的な形状のものだ。彼はどうやら写真を撮っておるらしい。そしてどうもアングルを決めあぐねているようで、時々眉を顰めながら角度を調整したり、ズームとズームアウトを切り替えたりしている。
それにしても、と安は思う。なにか珍しいものでもあるのだろうか。このあたりになにか特別なものはなかったはずだし、今日は何かのイベントが開催されているわけでもなかったはずだ。
そんなことを思いながら石垣のカメラのレンズが向いている方向をたどりながら視線を動かすと、そこには川に架かる橋があった。
大きな川を跨ぐ何の変哲もない、橋。
流れの速い水流をものともせずに雄大な格好で、どっしりと構えるそれ。
しかし、それは何の特別さを秘めているわけではない。いつも通り、そう安が知っている通りのいつもと変わらぬ姿でそこにあるだけだった。
安は首をかしげる。なんで石垣は何の変哲もない橋のことをこんなに一生懸命に眺め、そして写真を撮っているのだろうか。そもそも石垣が写真を撮ることが好きだということだって安は知らなかった。
彼との付き合いは短くない。そして浅くもないと自負をしていたが彼がこんな本格的なカメラを持っていることも知らなかったし、思い返してみても彼が自分のスマートフォンで何かの写真を撮っている姿すらあまり目にした記憶がない。
それこそいろんな場所に行った。大会で。練習で。何れの景色の中でも彼がカメラを構えることはなかったように思う。

安は邪魔をしてはいけないかと思い、しばらく少し離れたところから石垣の姿を眺めていた。しかし、彼が全くこちらに気付きそうもないのに加え、客観的に見れば自分は高校生男子をじっと観察している明らかな不審者だろうということに気づき、申し訳ないと思いながらも残りの距離を一気に詰めると、石垣の肩に手を置いた。

「よお、光太郎。何しとるん?」
「わ!」

安が彼の肩に置いた手に、石垣はびくりと肩を震わせた。その拍子に石垣は思わずカメラを取り落しそうになる。
彼は慌てたような様子を見せたがしかし首にストラップをかけていたこともあり、カメラが地面に落ちることはなく、彼は一瞬ほっとしたような表情を浮かべてから機敏な動作で安のほうを振り返った。
振り返ったときは、き、と険しそうな警戒をしたような目つきをしていたが、肩に手を置いた人物が誰かということを認識すると彼は驚いたようにぱちぱちと瞬きをしてから深く安堵の息をついた。

「や、安さん・・・びっくりさせんといてくださいよ」
「はは、悪い悪い。お前がそんなに驚くと思わなくてな」
「心臓止まりましたよ」

そういうと彼は困ったように眉根を下げながらふわりと笑った。



「お前、写真好きやったんやな」

安の車に石垣の自転車を積んで、助手席に座らせてやってきたのは大きな幹線道路沿いにある中華料理メインのファミリーレストランだった。
四人掛けの席に二人で向かい合って座ると、石垣はラーメンと春巻き、安は麻婆豆腐とごはん、スープが付いたセットを注文した。
大方食べ終わり、ドリンクバーのジュースとコーヒーでデザートの杏仁豆腐を食べているときに、そういえばと安は言葉を発した。
安の言葉に、石垣は机の端に置いていたカメラに視線を向ける。そして嬉しそうに笑った。

「内緒やったんですけど、ばれてしまいました」
「はは。折角やし、見せてや」

手を差し出すと、石垣は少し逡巡した後、おずおずといった様子でカメラを差し出した。
安が持っているのは軽くて旅行とか仕事やイベントで使うのには使い勝手が良くて、そこそこ画質が良いデジカメだったが石垣のは安がもっているものとは全く違っている。
重厚感と重さを持つデジタルの一眼レフ。おそらく望遠の距離も、画素数も、もっといえば光の入り方もきっと違うのだろう。
幾らしたのだろうとか、下世話なことを考えながらスイッチを入れれば液晶ディスプレイに色とりどりの景色が映った。安はボタンを操作しながらそのディスプレイに保存されている写真を映していく。

石垣のカメラに収められている写真は大半が橋を写したものだった。
だが、それぞれ趣が違う。
太陽の下、水面に反射した光が橋桁に映った写真もあれば、斜陽の赤い光に煌々と照らされ、燃えるように赤い写真もある。また、ある時は漆黒に満月が浮かび、それが水面に映る景色の真ん中を橋が渡っておりこの世界と虚構が混じり合っているようなそんな錯覚を抱かせる写真もあった。
また、季節も様々だ。桜の花びらが舞う、春。青々と葉がたくましく、また青い空にぽっかりと入道雲の浮かぶ夏。赤と黄色様々に木々が彩られる秋。灰色の雲から溢れた雪がはらりと落ちる冬。
思っていた以上に本格的な写真の数々に、そして繊細な描写に思わず安はほう、と感嘆の息を吐いた。
それはある意味単純で不器用な彼からは想像が難い、それでいてとても彼が大切にそれらを刻んだのがはっきりとわかる一瞬一瞬の集積だったからだ。

「すごいな光太郎。思った以上やったわ。うまく撮れとるやん」
「ホンマですか!」

安が写真を見ている間、伺うように不安そうに安のことを見ていた石垣だったが、安の言葉にぱっと、表情を輝かせると嬉しそうに目を細めた。

「褒めて貰えてほんま嬉しいです」
「それにしてもお前にこんな趣味があったとはなあ。お前のことは結構知っとるつもりやったけど知らんかったよ」
「そりゃそうですよ、誰にも言うてへんですもん」
「誰にも言うてへんて。なんや井原や辻も知らんのか」
「知らんと思いますよ」

だって話したの安さんが初めてですもん。
恥ずかしそうに石垣は笑う。
安はそんな石垣の言葉に目を見開いた。
井原や辻も知らない?
後輩や先輩に言っていないのならわかるが、辻や井原と石垣は仲がいいはずだ。
三人でいろいろ相談をしながら、心が折れそうになったときは励ましあいながらここまで来たことも安はよく知っている。それは部活以外のことに関しても例外ではなく、三人で遊びに行ったり、他にも部活の進め方や進路、もっと言えば井原の恋の相談にも真面目に乗ってやりアドバイスしたりをしていた。
趣味の話だってその中には含まれていたはずだし、安自身そこに混ぜてもらったことも数えきれないほどにある。
石垣は釣りが好きで、春巻きが好きということも安の中の石垣光太郎を構築するデータの中には組み込まれているし、石垣が釣りに情熱をどれだけ持って取り組んでいるかも知っている。
しかし、この写真を取るという趣味は釣りに対する石垣の情熱に匹敵するくらいに熱意を傾けられている。
それだけ時間と熱量を掛けている趣味について石垣が二人に写真を見せることも、もっと言えばその趣味の存在さえ伝えていないというのは安にとって驚き以外の何物でもなかったのだ。

「俺が一番て、光栄やけど意外やったわ。まあ、お前はあんまり自慢とかするタイプやないもんな」
「んーそういうわけでもないんですけど」
「ん?」
「聞かれんかったし、あえて話すことでもないと思って。それに」
「それに、なんや」
「安さん、引かんとってくださいね?」

心狭いって思われるかもしれんですけど、と石垣は苦笑した。

「オレ、好きなもんとか大切なものをばかにされるの、嫌なんです。大切なものを馬鹿にされるくらいやったら、誰にも知られないで、理解されん方が百倍マシなんです」

だから、誰にも言わんことにしとるんですよ。
石垣はそういうと、ごまかすように笑う。

大切だから分かち合いたい。
それと相反する感情。大切だからこそ、わかったふりをされたくない。否定の言葉をもらいたくない。
それが石垣光太郎という男の中では賞賛されることよりも、理解されることよりも勝る感情で。
だから、それくらいならば誰にも知られたくない。理解されなくても構わない。
そのものに対する気持ちを、傷つけられたくない。

安は石垣の言葉に驚きながらもああ、と妙に納得した。
というのも石垣は、石垣光太郎という男はそういう男だったことを思い出したからだった。
そうは見せないが、石垣は恐ろしくプライドが高い。そしてそのプライドを守るために様々な防御線を張り、努力をする男だった。
特に大切なものに対してはその傾向が強かった。たとえば自転車。自転車に対する真摯な姿勢。自転車競技部の部員に対する想い。エースとしてのプライド。
それらを否定されるのを彼はひどく嫌う。だから彼は様々な予防線を張り、努力をし、時には耐えるのだ。

だから、だからこそ安は石垣を後任の主将に任命したのだった。
もちろん、石垣が当時の後輩たちの中で誰よりも速く走ることができたということも理由の大きな部分ではあった。しかし、安はそれよりも、石垣の大切なものに対する想いの重さや、絶対に誰にも譲ってやらないとする意志の強さを買ったのだ。

そのような精神はある意味諸刃の剣だ。こだわればこだわるほどにそれを傷つけられた時のダメージは大きくなる。
いい例がこの春に京都伏見に降臨したという新入生の存在だ。
彼の登場に、そして彼が崩し去ったものに石垣は相当打ちのめされたらしいという話を安は井原や辻から聞き及んでいた。
それでも石垣はショックを受けながらもその新入生エースにくらいついて行っているらしい。
それは彼のプライドと大切なチームメイトたちのことを守るためなのだろう。
まったく不器用この上ない。それでもそんな石垣のことを安はただ愛しいと思う。

安は石垣にばれないようにそっと息をつくと、身を乗り出し石垣の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
石垣は安さん子ども扱いせんでくださいと不満げだったが、それでも安にされるがままにしている。
口では文句を言いながらも猫のように目を細める石垣の横顔に安は言い知れぬ満足感を覚える。
いつでも素直で、それでも頑固で一生懸命ですぐに一人で抱え込んでしまう石垣。
自分に懐き、自分のことを慕うかわいい後輩。
そんな彼が自分に対して弱みともいえるだろう秘密を話してくれたことに、どこか優越感を覚えながら安はゆっくりと口角を持ち上げた。

「ほんまお前は変わらんな」
「成長しとらんゆうことですか」
「褒めとるんや。素直に受け取っとき」

ほら、はよ杏仁豆腐食べ。
安の言葉に、彼ははにかんだように、笑った。


◆ ◆ ◆


ガシャン、鋭い音が部室から響いた。
既に日は暮れきっており、学校は夜闇に沈んでいる。練習もすでに終わって久しい時間だ。
顧問との打ち合わせが終わり、荷物を部室に取りに行くために校舎からの道を歩いていた安は静まり返った校庭に響いた音に、慌てて部室に向かう足を速める。
扉を開ける。すればそこには一人の男が倒れていた。
傍には室内用のローラーと倒れた赤いロードバイクがある。
安はそれらを踏み越えると、床に倒れている男の傍にしゃがみ、頬を優しくたたいた。

「光太郎?」

床に倒れたまま汗だくで、ぜえぜえと荒い息をついている人物は二年生の石垣光太郎だった。
恐らく部活が終わってみんなが帰路についた後、必死にペダルを回していたのだろう。
安が頬を叩くと、石垣は億劫そうに眼をあけた。そして眉を顰めながらかすかに笑みをかたどる。

「やす、さん」
「お前、なにやっとん、怪我するで」

お前に怪我されたら困るんや、インハイのレギュラーやいうたやろ、そういうと石垣は弱々しくすいませんと返した。
そんな石垣にため息を吐くと、安は傍に落ちていた石垣の鞄からドリンクとタオルを取り出し、体を助け起こしてやりながらそれらを押し付けた。
石垣は握力の弱った手でそれを受け取りながらも、ゆっくりと飲み物をのどに流し込む。ごくごく、となる咽喉に脱水症状は起こしていなさそうだと一安心しながら安も隣に座った。
まだ、石垣のアンカーはからからと車輪を回しながら音を立てている。
すこしして、石垣の呼吸が落ち着いたところで、安はさて、と声をかけた。

「で、何でこんな無茶したん」

できるだけ、厳しく聞こえるように言うと、石垣は叱られた犬のように項垂れた。

「だまっとってもわからんよ」
「う、言わんといけませんか」
「あかん」

石垣は安の視線に戸惑ったように視線を泳がせると、手に持ったタオルをぎゅ、と強く握った。そして絞り出すように言葉を紡ぐ。

「腹立ったんです、先輩に言われた言葉に」

石垣の言葉に、安はああ、と思う。
今日はインターハイのメンバーを発表する日だった。
インターハイのレギュラーには勿論、全員が入れるわけではない。レギュラーは六人しかいないのだ。選ばれる人がいれば、振り落とされる人もいる。
それは学年も関係がない。二年生で抜擢されるものがいれば、その陰で三年生でも外されるものもいる。
特に今年に関していえば、安は勝つためのメンバーを選抜した。
ポテンシャル、タイム、コースとの相性、全てを勘案して副キャプテンと選抜した。
その中に石垣は入った。その裏で外された三年生もいた。
その三年生の一人で、比較的思ったことをそのまま口にする男が、部員全員がいる中で不満を、何も考えずに口にしたのだった。

―石垣はええなあ、安に気に入られてるもんなあ。

確かに、両者の実力にはそう大きな乖離はなかった。それでも安と副キャプテンは石垣の自転車に対する真摯な姿勢から、残りの期間で伸びるだろう伸びしろの部分に期待をした。故の抜擢だった。
だが、それは彼の眼には見えなかったのか、見えたとしても面白くないものとして映ったのだろう。
安は、そして副キャプテンはそんなことはない、とだけは口にしたがそれ以上は何も言わなかった。
当の石垣は、初めこそ驚いていたが、やがて何も気にしていないというように優しく笑っていた。
しかしその陰で石垣は闘志を燃やしていたのだ。自分の大好きな自転車を、努力して早くなった自転車を、そして取ったレギュラーの座を、お気に入りだから、中がいいからという理由で揶揄されたことについて。
だから見返してやろうと思ったのだろう。あんな先輩のことなんてぶっちぎってしまえるように。誰も知らないところで練習をして。素知らぬ顔で。
安は、息をついた。まったくこの男は。

「だから、速くなってやろうと思って、練習しとったら頭に血が上りすぎて、つい」
「そうか」

安はなおも項垂れる石垣に手を伸ばすと、肩を抱き寄せる。
石垣のジャージは汗を吸って重く、そして熱かった。
突然の安の行動に困惑した様子の彼に、安はにっこりと笑いかける。

「流石俺が見込んだ男やわ、光太郎。そんだけ強い意志があればまだはよなれる」
「え」
「でも無茶はいかん。もうこれからはこんな無茶はせん、約束できるか」
「は、はい」
「よし、ええ子やな。お前は」

頑張り。お前の自転車への想いはよくわかっとる。インハイでは活躍せえよ。
安がそういうと、石垣は驚いたように大きく見開いた目で安を見つめ、そして嬉しそうにはい、と元気よく笑顔で答えた。


◆ ◆ ◆


「光太郎」

声を掛けると、その人物は驚いたように振り返った。
日が短くなり、薄暗くなってきている駅から学校に続く通学路。そこを彼は歩いていた。
本当は、彼がこの通学路を歩いて通ることは皆無に近い。というのも彼は徒歩や電車での通学をしていないからだ。
彼の通学手段。それは自転車であり、それ以上もそれ以下も、そもそもそれ以外の選択肢がないと言っても過言ではないだろう。
しかし、彼は歩いていた。
それはもちろん今日の天気が悪いからというわけでもないし、道路という道路が通行止めになっているというわけでももちろんない。
ただ単に、彼の足がないだけなのだ。彼を乗せてどこまでも走る彼の足である、アンカーが。

それは数週間前の出来事だった。
インターハイ、三日目。
そこで彼は派手な落車を起こした。
体力を使い果たしていた彼は側道に受身も取らず、半分気を失うようにして倒れ込んだらしい。
その際、彼の愛車の赤いアンカーも同様に地面に叩きつけられた。その際、彼のロードバイクは少なからず損傷をしたのだ。
自転車についた幾つかの損傷はすぐに治ったらしい。しかし、一箇所、一番ひどく損傷をした部分に関しては完全に部品の交換が必要になり、またその部品の取り寄せに少々時間がかかることとなってしまった。
彼自身も怪我をしていなかったわけではなかったし、部活を引退した石垣は大学受験のために勉強に取り掛からなくてはいけないこともありちょうどいい謹慎期間ですと、彼は笑っていたのだが。

そんな中、営業巡回が終わり帰社途中に見つけた後輩。普段見かけたとしても彼は自転車に乗っているため一瞬で自分の前を通りすぎてしまうだろうが、歩いていたら声をかけられるではないかと思い、窓を開けて声をかけてみれば彼は案の定、驚いたように振り返った。そして視界に安を捉えるとやはり優しく、笑う。

「安さん、お久しぶりです。仕事ですか」
「そうや。懐かしい通学路走らせてたらちんたら歩いとるやつがおったから煽ってやろうと思ったんや」

ちょうどお前の家の方まで帰るんやけど、乗せてやろうか。
安がそう言うと石垣はじゃあ、お願いしますと嬉しそうに助手席に乗り込んできた。
椅子に座り、シートベルトをしめる。それが終わるのを確認してから安は再びアクセルを踏んだ。

緩やかに加速をしていく安の営業車は、歩いている京都伏見の生徒を追い抜いていく。石垣はそれを窓から眺めていたが、しばらくして車が大通りに差し掛かると通学路からは外れるため、高校生の姿はほとんど見えなくなった。

それから安と石垣は色々な話をした。
インターハイ後の夏休みは何をして過ごしたのか、受験勉強は大変なのか。辻や井原も勉強を頑張っているのか。最近安がどんな仕事をしているのか。社会人の夏休みがどれだけ短いか。
部活は。引き継いだ後輩たちは頑張っているのか。水田は主将らしく振舞えているのか。
そんな話をしているうちに石垣の使う駅の近くまでやってきた。大通りから今度は住宅街のほうに伸びる道路に入っていく。慎重にハンドルを切りながら安は、後輩たちの話をする石垣の話を聞いていた。
水田は相変わらず御堂筋に心酔をしているが、自分たちに部活を託されたことをわかっているようで前ほど軽率な行動をとってはいないこと。
井原は二日目に切り捨てられてリタイアせざるを得なくなってしまったことをどこか気にしている節があるため、定期的に励ましていること。
今年インターハイに出れなかった後輩たちのなかには一部石垣と井原と辻への義理で頑張っていた部員もいたため、そういうメンバーは残念ながら新体制について行くことができず、部活をやめてしまっていた。それでも我慢強く、また自転車が好きなメンバーの中には妥協を許さない今の体制を好み、前よりも頑張っている部員もいるとのことだ。
自転車部の置かれている状況、後輩の挙動など様々な話を石垣はした。
しかし彼はついぞ、御堂筋に対しては言及をしなかった。
無理もないと、安は思う。京都伏見を、石垣のチームをぐちゃぐちゃにかき回し、彼自身だけがゴールを割るためにほかの部員の気持ちをすべて無視し、道具のように使い捨てた怪物エース御堂筋翔。
ぎくしゃくした空気。先輩や後輩といった上下関係も排除された空間。京都伏見高校の特徴だったチームワークを全て破綻した様を安も見てきた。それはあの状態にあったチームをよく石垣は空中分解しないようにまとめたと感心してしまう程で。
それをきっと、心の広さで有名な石垣も根に持っているのだろう。そんなことを思いながら安はそれにしても、と言葉を続けた。

「それにしても災難やったなあ」
「災難?」

なにがですか。安の言葉に石垣は首をかしげた。
前を向いたまま、安は言葉を続ける。

「御堂筋のことや。あいつがおらんかったらお前もちゃんとゴールできてたやろ」
「・・・・・・」
「最後の年にあんなわけわからんやつが来て、よおわからんことなってお前も消化不良やったんやないか」
「・・・・・・」
「それにお前がずっとずっと努力して折角掴んだエースの座やってあいつに、」

そこまで言った時だった。



―やめてください。



唐突に、狭い車内に鋭い声が響いた。
それはひどく強い拒絶の論調だった。
安は一瞬、隣にいる男とその声音が結び付かず、呆然とした。誰の声だ。この車内に他に人間は乗っていただろうか。そんな非科学的なことを思考する。
しかし、ルームミラー越しに見る石垣がひどく怯えたような、剣呑な表情をしているのを認め、やはり石垣が、という結論に達する。
否、達せらさざるを得ない。
それくらい安にとって、石垣のそういう態度は想定の範囲から大きく外れていた。
石垣が、先輩に楯突いている姿を見たことがない。しかも、こんな強い声音で。
石垣は強い視線をー睨むような視線を安に向けたまま、言葉を続けた。

「御堂筋は悪くありません。あいつは少し純粋なだけなんです」
「・・・・・・」
「勝利に拘りきれんかったのは、甘かったんはオレたちの方です。アイツが居らんかったらあそこまで行けんかった。オレたちがアイツに付いて行けんかったんです。だから悪いのは御堂筋やない。寧ろ悪いんは、」

「光太郎」

堰を切ったように話す石垣に安は手で遮りながらその名前を呼んだ。
石垣を遮るように鋭く発せられた安の言葉に石垣はハッとしたように顔を上げる。
そしてさっきまでの思いつめたような剣呑な光がその双眸から徐々に薄れ、透き通っていくのを認める。そして自分の発した言葉の意味することを理解したのだろう。しまったという色を顕著に浮かべた。

「それは言うたらあかんよ。お前、キャプテンやろ」
「・・・・・・」
「光太郎」

しかし石垣はそれには答えず、逃げるように安から視線をそらす。
そして俯いて押し黙ってしまった。
頑なな様子に安はため息を吐く。

「何、お前擁護しとるんや。アイツの所為で井原もヤマもリタイヤ、余儀なくされたんやろ」
「・・・・・・」
「何があったか知らんけど、外から見とっても今年の京都伏見は異様やったよ。ぎくしゃくしとった。なあ、あれでお前は満足やったって、」
「安さん」

用事思い出しましたんで、申し訳ないんですけど車、降ろしてもろてもええですか。

切実な、声音だった。
何かを強く押し殺しているような、そんな声音だった。
鋭さはない。しかし全てを拒絶するようなその張り詰めた空気に押され、安はハンドルを回し路肩に車を止める。
完全車が止まった。そう思ったその次の瞬間に石垣はありがとうございましたとおざなりな挨拶を残し、車のドアを開ける。そして逃げるように車の外に飛び出し、走り出す。
そんな石垣の様子に慌てて、安もシートベルトを外し車から降りる。

「光太郎」

またな。 そういった安の言葉に石垣は振り返ることもなく、夜の闇へと走り去っていった。
その背中が闇の中にとろけ、完全に見えなくなるまで見届けると、安は溜め息を一つついた。
そして頭をかきながら車の中に戻り、シートにゆっくりと背中を預ける。

「はじめてやなあ」

ちいさく、呟く。
石垣とは彼が部活に入った時からの付き合いだった。初めからああやって一生懸命で、真面目で、負けず嫌いだった。そして自分になついてくれていた。
それでも、安は今まで見たことがなかった。石垣が自分に歯向かう姿も、あのような怒りの感情を表に出したことも。
何かに対する執着のようなものを明確に表に見せたことも。

(いや、ちがうな)

おそらく初めてではない。
彼が今回のような行動をとったのが初めてなだけだ。今までだって彼はその感情を表に出していた。しかしその方法が違っただけだ。
ある時は胸に秘めた。
ある時は自分の中の方に向かった。
そして今回はー。

今更になって思考が巡る。
何故、部員の話をするときに石垣は御堂筋のことを言葉にしなかった。
御堂筋のことを話題に出さなかった。彼御堂筋のことを自分の言葉で語らなかった。
何故、御堂筋のことを否定されて拒絶の反応を見せた。
一般的に加えられる違いない非難にちがいないのに、何故。

その答えはたった一つだろう。
彼にとっては同じだったのだ。
自転車に対する思いと、写真に対する思いと、御堂筋に対して抱いている思いが。

誰にも否定されたくない、大切なもの。
それはきっと、彼の中で部活やそのほかのものとは一線を画す上位に並ぶもので。

もしかしたら彼自身、気づいていないのかもしれない。
そして他の誰も、気付いていないのかもしれない。
それでも、わかってしまった。
他でもない、自分だから、わかってしまった。彼の大切なものに対する思想に触れてしまった自分だからこそ。
安は、ため息をつく。

「特別なんやなあ、きっと」

言葉が狭い車内に響く。その言葉を自分の耳が捉えた瞬間、安は自分の胸のどこか奥がぎしりと軋む音を聞いた。
ありていに言えば、きっとショックを受けている。彼が、あの御堂筋を石垣の持つ大切なものと同列に並べていることに。

そしてそこに自分が同様に並ばなかったことに。

今まで気づかなかった。正確に言えば、恐らく想定していなかった。誰をも平等に愛する彼が世界の中から大切なものを選び取るように、自分の中にも同じようなものがあったことに。

じっと目を閉じ、体の中をめぐる感情の渦を感じる。それが徐々に鎮まるのを待って、安は目を開けた。
道路の先には誰もいない。それを確認すると安は口に自嘲の笑みを浮かべながら、サイドブレーキを操作し、アクセルを踏む。
高速でも、目指してやろう。そして無心に走ろう。今はとりあえず何もかも忘れてしまいたかった。

「光太郎」

勢いよく、ハンドルを殴りつける。
しかし、手の中に返ってきたのはただ、鈍い痛みだけだった。


◆ ◆ ◆


「御堂筋」

暗い、救護テントの中だった。
微動だにせず眠り込む男のそばに石垣は座り込んでいた。
自分の体も限界だった。それもそのはずだ。最終日、石垣は御堂筋のことを自分一人で引き続けた。他の学校の、自分よりも実力のある選手たちに追いつくためにただただ実直に。
あんなに必死にペダルをこいだことが今までにあっただろうか。そう思うくらい、自分が想定していたよりも速いスピードで長い距離を。
それでもその中で感じたのは、高揚と、そして満足だった。
自分の世界観を、持っていた理想を、プライドを全てへし折ってきた張本人である彼に対してどうしてこういう感情を抱くのか石垣自身よくわかっていなかった。
だが、今自分の中にあるのはこの純粋で孤独な男の傍にいたいという、そういう切実な願いなのも確かなのだった。

恐らく見返りはきっとない。
努力をしたって、自転車のようにうまくなるわけでもない。写真のようにセンスが磨かれるわけでもコレクションになるわけでもない。
そもそも、御堂筋はきっと石垣を必要としない。必要ではないと思い込むだろう。
いつ捨てられるか、それ以前に傍にいることを許されないかもしれない。
彼の閉じた世界には入れてもらえないかもしれない。
それでも、それでもいいとすら、思ってしまう。

「オレは、ここに居るよ。御堂筋」

誰に否定されても、御堂筋自身に否定されたとしても。
それでも、絶対に。

「この思いは、誰にも曲げられん」

囁くように、それでもはっきりと言葉を口にする。
そして石垣は、誰にも知られないようにそっと、笑った。












material:Sky Ruins