さて、ご用件は何でしょう?








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「なんや、下手やな御堂筋」

声に振り返ると、にこにこと頭が悪そうな笑みを浮かべている男が立っていた。
旅館の大浴場。夕ご飯を終え、さて風呂でも入るかと考えた人たちでごった返した脱衣場。そこに御堂筋と、石垣はいた。
周りは様々な年齢層の人でごった返している。自分が自転車乗り始めたくらいの子供から、その子供の親らしき世代。
中学生や大学生、週末の休みを利用したと思われる若い社会人世代。そして自分の何倍も年を重ねたお年寄りまで。
なぜこんな場所にいるのか。人が多いところが嫌いで、自転車以外のことに全く興味がない自分が。
御堂筋は何度も反問した命題をもう一度思い出しため息を吐いた。

『卒業旅行に行きたい、できれば自転車競技部で』

発端は確か井原の言葉だった。
引退以来、時々は部活に顔を出していたとはいえ、年が明けてからはほとんど来なくなっていた三年生が、受験が終わり進路が大方決まった時に突然部室に現れそんなことをいいだした。
そんなくだらんことに部員を付き合わせられない、練習しないといけん、と全力で拒否をした御堂筋だったが、どうしてもと食い下がる三年陣に、自転車の練習ができるコースを借り、おまけに旅館までに数十キロを自転車で移動することにすればいいだろうと御堂筋ばりの強情さで粘られてしまったらさすがの御堂筋も首を縦にふらざるを得なかったのだった。
尤もなんだかんだで御堂筋以外の自転車競技部のメンバーはあの、甘ちゃんで弱くて御堂筋から見ればザク以外の何でもない三年生たちを尊敬し、慕っていたため、卒業旅行に混ぜてもらえると知るや否や御堂筋の説得にかかってきた。実質五対一。勝てるわけがなかった。

(こういう時だけはほんま、結束強いんやからナァ)

せめて自分だけは断固行かないことにしようと思ったが、これも同じく強情な元キャプテンで元エースの石垣に押し切られてしまい、結局御堂筋もこの旅行に参加せざるを得なくなったしまったのだった。
朝集合し、練習の時に絶対に背負わないリュックを背負い、自転車を漕いだ。そして旅館に荷物を置き自転車の練習をした後、京都伏見自転車競技部も御多分に洩れず懐石料理に舌鼓を打った後、大浴場へとやってき、じっくりと温泉を堪能したのだった。
御堂筋と石垣以外のメンバーは一足先に温泉から上がって、温泉まんじゅうを買ってくると夜の温泉街へと出かけてしまっている。
マイペースな御堂筋のことを石垣は言葉少なに待っていたのだが、流石に見かねたのかもしれない。浴衣の着方がよく分からずきょろきょろしている御堂筋に石垣は声をかけてきた。
石垣はすでに浴衣に着替え終わっていた。黒地に流線と桜があしらわれた浴衣を桃色の帯でしっかりと締めている。
帯の色は好きな色をとっていいと言われて、京都伏見の色だから、と嬉しそうに選んでいたものだ。
どうやら石垣は相当浮かれているらしい。今も乾ききっていない黒い髪と、湯上りだからだろう少し上気した頬をそのままに浮かれただらしない笑みを浮かべながら御堂筋の方を見ている。
こういう表情を浮かべている時の石垣はとても厄介だということを御堂筋はよく知っている。普段の御堂筋の嫌味も何も通じないのだ。
最善策。それは無視することに限る。
御堂筋は石垣の視線から逃げるように背中を向けながら浴衣の前を合わせる。すれば石垣から、あ、逆やでと声が飛んだ。

「石垣クゥン、うっさいわ。黙っとって」
「そうはいうてもなぁ」
「ええから」
「そういうわけにもいかんやろ。せやちょっと、じっとしときぃ」

石垣は不機嫌を前面に押し出した御堂筋の言葉を無視すると、御堂筋の手から黄色の帯を奪う。そのまま手慣れた感じで御堂筋の浴衣の前を合わせ、するりと帯を腰に回した。
そして石垣は御堂筋の後ろに回ると、ぎゅ、っときつく帯を結んだ。
終わったなら早く離れて欲しい。そう思いながら肩越しに振り返ると、手元に視線を落とし、作業に没頭する石垣が目に入る。真剣な顔で帯と格闘する石垣は、どうやら適当に結んで浴衣の体をなそうと思っているわけではなく、ちゃんとした結び方で浴衣の帯を結んでいるようだ。
そういえば、石垣の帯もただの方結びや蝶々結びではなかった。
別に外に出るわけでもないんやけどなあ、と悪態を吐いてやろうかと思ったが一応今日の旅行の主旨を思い出し思いとどまった。

卒業旅行。
卒業する三年生の最後の高校の思い出作りの一つ。
ということは、と御堂筋は思う。春が来ればこの鬱陶しい男も学校を卒業していなくなるのだ。
自分たちのことを置いて。

(キモ)

自分の思考に御堂筋は背筋がぞわあっとなるのを感じた。今すぐに石垣のことを突き飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、普段の学校ならまだしもこんな場所でそんな行為に及べば、周囲から要らぬ注目を集めるだろうことは想像に難くなかった。
本当に鬱陶しい。そう思いながら御堂筋は息を吐く。
正直に言って御堂筋は石垣という人間のことがまだよくわかっていない。
初めは完全に嫌われていたと思う。
だが、彼は他の部員が心配だったのだろう、自転車競技部をやめるようなことはせず、必死に御堂筋に噛み付いてきた。
そんな石垣を御堂筋は馬鹿にしながらいいように使っていたのだが。
それでも気づけば彼は自分の中にずかずかと入り込んできて、真ん中にどっかりと腰を下ろしてしまった。
御堂筋の暴言も、何もかもを彼は受け止めて飲み込んでしまう。
そしてそこでにこにこと、無害な笑みを浮かべているのだ。
何度、追い出してやろうと思ったことか。
しかし気づけばずるずると彼のペースに巻き込まれてしまっている。
彼に感じている感情の名前も、時々どうしようもなくなった時にぶつけている衝動の名前もまだよくわかっていない。それでも石垣は変わらず、御堂筋の傍でへらへらとした笑顔を浮かべているのだ。
彼の行動の根源がどこにあるのかを御堂筋は知らない。かわいそうだと思ったのかもしれないし、ないとは思うが自分のことを尊敬しているのかもしれない。
それでも確信できることがある。
めんどくさい自分のことを構い倒したように、この男は次のコミュニティーに行っても同じ風にするのだろう。誰にでも平等に。
そして全てを抱え込んで捨てずに歩く彼はきっと自分のことを忘れるのだ。高校の思い出の一環として。
そう思った瞬間、御堂筋の中で何かが軋んだ気がした。
その軋みに御堂筋は眉根を顰める。そしてそれについて深く考えることを強制的に停止させた。それは何か、自分の足を鈍らせるものとなりそうな気がしたからだった。
だがそうだとすればただ捨てればいいだけの話だ。彼が自分たちを捨てて次に行くように、自分も。
捨てて。今までしてきたように、同じように彼のことを。

「ほらできたで」

ぼんやりとしてれば、いつのまにか結び終わっていたらしい石垣が御堂筋の顔を覗き込みながら笑っていた。
そしてお前、思っとったより浴衣似合うなあなどと満足そうにしている。

「しかし、御堂筋ほんと細っそいな」
「……石垣クンキモイわ」
「なんでや。事実やろ。俺こんなに帯余らんかったよ」
「それはキミィが太っとるからや」
「いや、骨格の差やろ。まあお前よりは太っとるかもしれんけど」
「無駄なもん持ちすぎなんやよ」
「お前は削りすぎや」

自分のこと大切にせんといけんよ、そう微笑む石垣は眉を顰める。
そしてその表情から逃げるように、御堂筋は持っていたタオルを石垣の顔に押し付けた。

「ちょ、なにすんのや」
「ほら石垣クン、水田くんたちと温泉まんじゅう買いに行くんやろ。はよいき」
「御堂筋はいかんのか」
「湯冷めして風邪でも引いたらアホらしいやろ」

石垣の背を押すと、石垣はよろけながらもわかった、と答え歩き出した。
遠ざかっていく黄色。
それを見送りながら御堂筋は何度目かわからないためいきをついた。







「戻ったで」

部屋番号を確かめて、石垣はドアを開けた。
途端、目には白い色が飛び込んでくる。夕食を食べている間に六人分の布団が既にひかれていた。三人ずつ並んで、頭を中央に集めた形になっている。
水田はこれを見て、修学旅行の夜みたいっすね!とはしゃいでいた。
恐らく今日はみんな寝ずにはしゃぐのだろう。まくら投げとかもやりだしそうだ。
あまりうるさくするようだったら止めなあかんなあ、そんなことを思いながら石垣は部屋にいるはずの男の姿が見えないことに気づく。

「御堂筋?」

返事がないことを不思議に思いながら石垣は下駄を脱ぎ捨てた。
そして部屋の中に上がると、部屋の角、布団を敷く時にだろう寄せられた机のそばに黒い塊があることに気が付いた。
否、それは浴衣を着て寝そべっている御堂筋だ。
自分が着ているのと同じ黒字に流線型の模様と桜の花びらが散った浴衣を着、御堂筋が好きな黄色の帯をしめたまま長い体を少し折って、横向きで畳に寝転んでいる。
そして相変わらず黒い手袋はしたままだった。
猫のようなその様子に石垣は微笑ましい気持ちになりながら眉根を下げた。

「なんや寝とるんか」

手に持っていたまだほんのりと温かい温泉まんじゅうの箱を傍の机の上に置く。
てっきり拗ねているのではないかと思い、今から肝試しをするとか意気込んでいたメンバーを置いて一足先に旅館に戻ってきたのだが眠っているのであればもう少し遊んできても良かったのかもしれない。
しかし今からもう一度外に出て彼らの元へと戻るのもめんどくさい。それに移動していれば行き違いになってしまうかもしれない。それはそれで面倒だ。
テレビでも見るかと石垣が畳に落ちているリモコンに手を伸ばした時、御堂筋がごろりと寝返りを打った。
今度は仰向けになり、腕を畳に投げ出した格好となり、さっきまでは見えなかった顔がはっきりと見えた。
御堂筋は子供のようにあどけない表情をしていた。
普段、他校に限らず自校の部員と威圧したり、よくもスラスラとあんな嫌味が飛び出てくると逆に感心すらしてしまう時のあの意地の悪い表情が嘘のようだ。

「黙っとればええ男なんやけどな」

もう少し、普段から表情を緩めればいいのに。そうすれば周囲から誤解されることも減り、友人関係も広がるだろうに。
そうしたら、自分だってもうすこし安心して卒業することができるだろうに。
いや、それであっさり彼女とか作られたりしたらそれはそれでへこむのかも知れない。
そんなことを思いながら石垣がぼんやりと御堂筋を眺めていると、ある一点に目が止まった。
それはさっき、自分が合わせてやった襟元だ。
寝返りを打った時に緩んだのだろうか、御堂筋の肉付きの悪い胸板がはっきりと見えた。
暖かくなってきているとはいえ、風邪をひいてはいけない。
後で布団をかけてやろう、そう思いながら石垣は畳に手をつき、少し緩んだ御堂筋の浴衣の襟を直してやるために手を伸ばした。
と、その時だった。



「なんや、寝込み襲うとはええ度胸やねぇ、石垣クゥン?」



低い声が響いた、と思った瞬間、視界が反転する。
一瞬視界に部屋の天井が見えた、と思ったその次にはごつ、と鈍い音が体の中に響く。

「いった...」

頭を押さえ、畳の上を転がる。
目の前がチカチカしている。
どうやら御堂筋に突き飛ばされ、勢い余って後ろに倒れた石垣は後頭部を傍にあった机にぶつけたらしい。
じくじくといたむ頭を押さえながら畳の上をのたうちまわっていると、右肩を強引に掴まれた。
そして肩を畳に押し付けられる。すれば浮かんだ涙の向こうに、一人の男の姿が映った。

「みど、うすじ」

御堂筋の手から逃れようとじたばたとする石垣を見た目からは想像のできないほど強い力で御堂筋は抑え込んでいる。
その目は意地悪く細められており、石垣はその表情を見、嫌な予感が頭をかすめた。

「御堂筋、あかん」
「うるさいで、石垣クゥン」

御堂筋は左手にはまっている手袋の先を綺麗に揃った歯で噛みながら、外す。
にや、と不気味な笑みを浮かべながら。

「ちょっと黙っときィ」







桜の散った浴衣の中に手を差し入れ、直接肌を撫でると手から彼の動揺が伝わってきた。
じわりと浮かんだ汗、ダイレクトに伝わってくる熱。早鐘を打つ心臓。
身体に浮かんだ汗も、上気した肌も、上がった息も自転車を走らせているときーもっと言えば今日の昼間にだって目にしているものではあるが、それらとは意味合いが違う。
自分の体を動かし、熱量を消費してその結果として齎されるものとは全く別な熱。
今彼の中に燻るそれらの熱を喚起したのが自分だと思うと、優越感を覚える。

「・・・っ」

石垣は時折苦しそうな表情を浮かべ、噛み殺せなかった声を僅かに漏らしている。
しかし聞こえるのは聞きなれた甘い声音ではなく、苦痛に耐えるような声だ。
それもそのはずだ、と頭の端で御堂筋は思う。
いつもであれば御堂筋は石垣とこのような行為に及ぶ時、彼が自転車を漕ぐときに負担とならないよう嫌になるくらい念入りに準備を行うことにしている。
彼は自分の忍耐を試したり、からかうためにそういうことをしているのだと思い込んでいるのだが、御堂筋は御堂筋なりに石垣のアシストとしての力量を買っていたし、それこそが石垣と自分にとってお互いをお互いの隣に置く利用価値のようなものだと思っていたからだ。
だから半ば強引に行為に雪崩れ込んだとしても、そこら辺の準備はしっかりとするようにしていた。
しかし今日に関してはそのような配慮は全く行っていない。
勿論、彼に無体を敷きたくてという理由からではない。今日に限ってはそんな余裕が御堂筋にはなかったからだ。
何時、誰がこの部屋に帰ってくるかわからないから、石垣が服装や髪形を含め普段見慣れた格好をしていないからなど理由を付けようと思えばいくらでもできた。
しかし、それらは副次的なもので、御堂筋を衝動に駆り立てた直接の原因ではなかった。

有体に言えば、御堂筋は焦っていた。
そして、どうしようもなく不安に駆られていた。
石垣のことなんて、捨ててしまえばいいと思っていた。石垣は自分のアシストではあるが全国の中でも、確かに京都の中ではかなり力のある選手であると言えるが残念ながらどう控えめに見ても世界で通用する選手ではない。もっと言えば石垣自身にもプロになりたいという思いはおそらくないだろう。そうなのだとしたら石垣のことは切り捨てて置いていくべきだ。それはよくわかっていた。
そしてお人好しの彼は自分にだけ優しいわけではない。
そんな彼に置いていかれることを御堂筋は恐れている。
母親が自分を置いていったように、彼もきっと自分のことなど置いていってしまう。高校三年間の最後の一年。手のかかる後輩のことなど。
だから捨てようと、そう思った。それなのに。
それでも、彼が自分に手を伸ばしてくれるから。
この体温を、御堂筋の手を温め、そして心をも温めるこの男を手放したくないと思っているそんな自分を。
重りにしかならないだろう彼を、この手の中に押し込めていたいと思うこの感情を。
そんなエゴを、今自分は彼にぶつけている。
なにか明確な言葉にできれば、何か違うのだろう。
だがこの感情を何と呼んでいいのか、御堂筋はこの期に及んでわからないのだった。

ほんま、キモいわ。

御堂筋は口の中で小さくつぶやくと頭を緩く振った。
しかし、石垣に無体を強いている自覚はあっても今更止めることができるかと言われたらそんなことは出来そうにない。
さすれば早く終わらせてやった方がいい。
御堂筋は息を吐くと、石垣の頬を手の甲で軽く叩いた。

「・・・石垣クン、行くよ」
「ちょ、御堂筋、待っ・・・ッ」

制止するように伸ばされた石垣の手を払い落すと、御堂筋は石垣の足を持ち上げる。そして、一層深く。
石垣は遠慮のない御堂筋の行動に息を詰め、そして声を上げないように唇を噛んだ。
ぎゅう、と。
破れてしまうのではないかと思うほどに強く。
その拍子に石垣の目尻から幾筋か透明な雫が流れた。
目尻を伝って、流れ落ちそうになるそれを御堂筋は指で優しく拭ってやる。
すれば、石垣は睫毛を震わせ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
透明で、大きい眼が御堂筋のことをまっすぐに捉える。
そして、眉を顰めながらもゆったりと笑った。痛くて、苦しいのだろう。それでも優しく。
その笑みに、御堂筋の胸が一瞬詰まった。そしてその瞬間、何かがかちりと音を立てて御堂筋の中にはまった、気がした。

「・・・キミってほんま」

御堂筋は、少し血が滲んだ石垣の唇を指でなぞる。
そして石垣の顔の横に手をつくと噛みつくようにして、石垣の唇を塞いだ。






目を開けると天井が視界に入ってきた。
板張りの天井は普段見慣れたものとは違っていて、石垣はぱちぱちと瞬きをした。
鼻腔を擽る畳の匂いも、も少し、頼りない感じのする黒い浴衣も、普段の石垣の生活の中にはないものだ。
石垣はまだ十分に回らない頭で今、自分のいる場所について思考する。

(ああ、そうやった)

今自分は卒業旅行に来ているのだった。
井原が行きたいと言い出して、辻がそれに乗っかって、石垣もそれなら後輩も誘おうや、と言ったのだ。
久しぶりに長距離の自転車をこいで、コースでの練習もして、晩御飯を食べて、温泉に入って、温泉街ではしゃいで。そしてそのあとは。
そこまで思い出し、慌てて石垣は体を起こした。
そして視線を部屋に走らせると、すぐ側の机のところに痩身で背の高い一人の男が座っていた。

「ああ石垣クンやぁっと起きたん?お茶冷めるで」

男ー御堂筋は机に肘をつき、お茶をすすりながらまんじゅうを口に運んでいた。
御堂筋が食べていたのは先程石垣が買ってきた温泉まんじゅうである。
外箱のかけがみはぐしゃぐしゃに破かれており、箱の蓋も無造作に放られている。中身もいくらか減っていそうだった。
そして申し訳程度にお茶の入った湯のみが二つ。急須は御堂筋が注ぎやすいようにだろう、御堂筋の手がすぐ届く場所に置かれている。
まるで何もなかったかのように。あっけらかんとしている御堂筋に石垣は眩暈を覚える。
それでも先程、大浴場の脱衣場で自分が合わせてやった襟元がだらしなく開いており、自分が結んでやった帯が緩んでいるのが、さっきまでのことが夢ではなく現実だったのだと雄弁に語っていた。
今や黒い手袋に覆われている長い指で自分は翻弄されて、そして。
それを思うと恥ずかしくなり石垣は御堂筋から視線を外した。

「勝手に食わんとってや」
「ボクに買ってきてくれたんやろ?」
「一緒に食べる為や」

何のために先に帰ってきたと思っているのか、石垣は呆れたようにため息をつくともう一度畳の上に転がった。
もう、このまま眠ってしまいたい。今日、久々に長距離自転車を漕いだうえに、トラックで練習もした。そして御堂筋に無体を敷かれたせいで全身、だるい。
本当であればもういちど風呂に入っておきたいところだったが、それも面倒だった。明日の朝、早く起きて入ればいいだろう。朝風呂ができるのも旅行の特権だ。

「ほんま疲れたわ」
「あんなんで疲れたん?石垣クン体力落ちたんとちゃう?そんなんでペダル回せるんかいな。元エースの名が泣くで」
「しゃーないやろ、受験勉強で忙しかったんや」
「そんなん言い訳やろ。本当にキミィは甘い男やね」

ププ、と笑いながら御堂筋は大きく口を開けると残っていた饅頭を口の中におしこんだ。
ゆっくりと咀嚼した後、長い舌が唇をなぞる。
そんなわずかな行動からも先ほどのことが思い出され石垣は顔を手で覆った。

(末期や、石垣光太郎。)

切っ掛けが何だったかよく覚えていないが、御堂筋とこのような関係を持つことは初めてではない。
それでもなかなか慣れないのも事実だ。
それが後輩に良いようにされている自分に対する羞恥からきているのか、御堂筋に流されながらも無自覚のうちにのめり込んでいるのかもしれない自分に対する困惑からくるのか、単にあの男に惹かれていっているからなのか。
取り敢えず目に毒だと思い、石垣は寝返りを打ち、視界から御堂筋を追い出した。

それにしても、と石垣は思う。
今日の御堂筋は妙に性急だった。
普段であれば散々に焦らされ、そんな石垣を見て楽しそうに意地悪い笑顔を浮かべるのが常なのだが。
京都伏見のメンバーがこの部屋に誰かが入ってくるのを警戒したのか、何かが御堂筋のスイッチを珍しく入れてしまったのか、それとも。
そのとき、石垣の脳裏に先ほどの御堂筋の表情がよぎった。血色の悪い?に浮いた熱と、意地悪く細められる瞳。
その合間。
時々、御堂筋が見せた余裕のない表情。まるで捨てられた犬のようなそんな。
性急に進められる行為の合間、正反対なくらいに優しく触れてきた指先。
そこまで考えた時、石垣の頭にふと、一つの可能性が浮かんだ。
石垣の事をも僅かながら蝕んでいた感傷ではあったが、彼はそんなものをどうでもいいと思っているのではないかと思っていたこと。
簡単に言えば御堂筋らしくないと、そう思ってしまうような。
それでももし、それが正解なのだとしたら。

(不器用やなあ、お前は)

何も欲しがらない彼だったから、石垣は御堂筋の中で自分が不要になれば御堂筋という存在をあきらめようと思っていた。
重りになるくらいなら、捨てて行ってくれて構わないと、そう思っていた。
それは自分の望んだことではないが、それでも御堂筋が最速であり続けることが、それを見ていたいという気持ちが石垣の中で何よりも強かったからだ。
だが、もしも。自分という存在が彼の推進力とならずとも彼の中でおもりにならないのだとすれば。
自分は求められさえすれば、もっと言えば側にいろと言われれば離れるつもりなどないというのに。
石垣はふう、と息を吐いた。そして顔を上げる。
御堂筋は相変わらず感情の読めない顔でお茶を啜っていた。 その横顔に、石垣は声をかける。

「御堂筋」
「なに」
「俺、離れる気なんてないで」

俺が卒業したって。学校が違くなっても、生活が変化しても。
石垣の言葉に、御堂筋は一瞬ぴたりと動きを止めた。
そしてひどく嫌そうな表情を浮かべると石垣の方をじろりと睨み付ける。

「キミ、自意識過剰なんとちゃう?ボクがキミが卒業していなくなるのがいややと思っとると思ってるん?そんなん自惚れや。キミィが勝手におらんなってもボクゥは気にせんよ」
「はは、そうやったなあ」

ほんま君キモいわ。
そう言って御堂筋はまた、石垣から視線を外してしまう。
相変わらず不機嫌そうではあったが、それでも少しその横顔が優しくなったような気がして、石垣は御堂筋に気付かれないように笑う。


「さてと」

石垣はテレビの傍に置かれた時計に視線をやった。
既に時刻は二十一時を回っていた。
他の部員はまだ戻ってきていないのだろうか。まだならそろそろ連れ戻さねば。
石垣は体を起こすと、乱れた浴衣を直し、帯を結びなおす。
全体的に皺は寄っているが、暗いしこの際いいだろう。
立ち上がり、裾を払い、目に見える汚れがないことを確かめる。
すれば首を傾げている御堂筋と目が合った。

「何処かいくん」
「え?いや、みんなまだ戻っとらんのなら迎えにいかんといけんやろ。まだ補導はされんやろうけど注意されて学校名とか聞かれても面倒やし」
「ふうん?」

御堂筋は大きな目でじっと石垣を見つめると、湯呑みを手に取った。
そしてその中に残っていたお茶を飲み干すと、のっそりと立ち上がる。
石垣よりも十センチ以上高い身長。
やっぱり身長高いな、とぼんやり見上げていればぼそりと御堂筋が呟いた。

「ボクもいくで」
「へ?」

意外な申し出にぽかんと口をあけていると御堂筋は石垣の方を見ないままに、だから、と続ける。



「もう一回結びなおしてや」



ばつが悪そうに言う御堂筋に。
石垣は笑った。




「お安い御用や」











material:Sky Ruins