もう一回。 あの夏の役割を焼きなおして。 それで?







再演のベルが鳴ったら







慌てて乗り込んだ終電は相変わらず満員だった。
身動きもとれないような車両の中で人によりかかるようにして電車に揺られながら最寄り駅にたどり着き、掻き分けるように電車を降りただけでもともとクタクタだったからだは完全に疲れ果ててしまった。
階段を下りて改札を抜けてもここからまだ家までの道のりが残っている。十分くらいの道のりではあるが、それすらも億劫だ。
会社を出たときより何倍も重くなった足を引きずりながら駅のロータリーを抜ける。そしてコンビニの前に着いたとき、今日が金曜日だったことを思い出した。
寝不足と疲労で働かない頭を強引に回し、冷蔵庫の中身を思い出そうとするがそれすらもうまくいかない。
考えるのすらも面倒くさくなり、ドアの傍のカゴを取ると牛乳と豆腐と卵と食パンを突っ込んだ。そして会計を済まし、家路を急ぐ。

こんな生活もすでに四年だ、と石垣はぼんやりと思った。
大学を卒業して、就職した中堅メーカー。そこで拝命した営業職。そして東京への配属。
希望と、夢と、そして関西から離れるということに始めは胸を躍らせ、同時に不安にも思っていたが、今やそれらの感情はどっかに行ってしまった。
毎日のように満員電車に揉まれ、終電間近に帰宅し、食事はカップ麺で済ませ週末は寝倒す日々に石垣の体と精神は完全に麻痺をして来ている。
学生時代に名を馳せた自転車だって、袋をかけられたまま、部屋の隅で埃をかぶっている。社会人サークルに入ろうと意気込んだときもあったが結局それも果たせていないままだ。
だがその分、仕事は順調だった。元々人好きする性格と我慢強く粘り強く真面目に仕事に打ち込む姿勢が評価されているし、また顧客との関係も良好で成績も悪くはない。
仕事以外の部分は全く充実をしてはいなかったが取り敢えずはこれでいい、と石垣は思っている。生活を改善するのはもう少し余裕ができてからでもいいだろう。

だが、そんな代わり映えのしない毎日が、最近ほんの少しだけ変わった。同居人ができたからだ。
といっても、生活にほとんど大きな変化があったわけではない。会社から40分くらい離れた1DKの間取りの家は少しだけ綺麗になり、缶ビールしか入っていなかった冷蔵庫には牛乳とか、プロテインとか、豆腐が詰め込まれるようになった。
他には水道費が約二倍になり、捨てるごみの量も二倍になったこと、折角買ったベッドを明け渡したために布団で寝る羽目になったこと。
あとは、狭い家の中に二台、自転車が置かれるようになったことくらいか。

「もうそろそろ半年になるんやなあ」

唇からこぼれた石垣の独り言は人影のまばらな住宅街に消えた。
一人暮らしをし始めて独り言が増えたが同居人ができても全く減っとらんなあ、と石垣は思う。
尤も、なかなか生活のリズムが合わないため、一人だったときと他人と交わす言葉の数がそんなに変わっていないのも起因しているのかもしれない。
折角一緒に住んでいるのだからもう少しコミュニケーションをとる努力をするべきなのだろう。もう二、三時間早く帰れれば少しは違うはずだ。
だが、任されている業務量が膨大すぎてなかなかそれもままならない。

そんな甲斐性のない石垣の家に同居人ができた切っ掛けは、ある日の夜に突然かかって来た一本の電話に遡る。
今日のように遅くまで仕事をして、へろへろになりながら家にたどり着いて、食事や入浴もそこそこに泥のように睡眠を貪ろうとうつらうつらしていたそんな夜。
突然、前触れもなく石垣の携帯がけたたましい電子音を鳴らした。
頭に響く鋭い音に驚き、早く音を消そうと石垣は慌てて枕元に置いていた携帯に手を伸ばしたが、石垣の驚きはそれで終わらなかった。
携帯電話の画面上。そこに表示された名前。それにさらに石垣は驚くこととなった。
そこに表示されていた名前の人物は自分が高校を卒業して以来、一度も連絡を取っていなかった人物で、当時世界を舞台に目覚ましい活躍をしていた人物だったからだ。

(御堂筋・・・?)

御堂筋翔。
石垣が三年で部長でエースだった時に入部をしてきて、石垣の大切にしていた部活をのっとった高校時代の後輩だった。
自分中心に世界が回っていると言わんばかりの傲慢な態度と彼の中の効率だけを重視した圧倒的な走りと挑発的な行動。そして絶対的な実力主義な思考回路。
たとえ先輩であっても自分より遅いと判断すれば、平気で見下した態度をとる御堂筋に対する周囲からの評判は芳しくなかった。
それは石垣自身も例外ではない。折角先輩から引き継いだ京都伏見自転車競技部を部長として纏めている時に入ってきたいわば秩序を乱す存在だった御堂筋に対して石垣でさえいい感情を持っていなかった。
それでも勝利に対してどこまでも真面目で純粋な御堂筋に石垣は段々と心を動かされた。
自分がどれだけ自転車に対してこだわりきれていなかったのか気づかされた。勝利を、頂上をどこかであきらめてしまっていたことを恥ずかしく思った。そして何より魅せられたのだ、彼の走りに。
だからインターハイでは石垣は彼のために全力でペダルを回した。それこそちぎれてしまうのではないかと思う程に。
結局、あの年は優勝することはできなかった。石垣も御堂筋もゴールにたどり着くことができなかったのだ。
そのあとも、先輩面をして放課後に一緒にペダルを回すこともあったが、高校を卒業して大学に入ってからはそれもなくなった。
もともと連絡なんて取っていなかったようなものだったから、自然と没交渉の状態に陥っていたのだ。
それなのに。何で今更。
石垣は眠気を振り払うために頭を振った。
そんなことを考えていても電話に出ないことには解決しない。
石垣はため息を尽きながら鋭く音を発し続ける携帯の通話ボタンを押した。

「はい、石垣ですけど」
『・・・・・・』
「御堂筋?」

どうしたん、そう問えば御堂筋が電話の向こうでため息を吐いた。
その後ろでは歓声が響いている。知らない国の知らない言語だ。それでもどこかおめでたい雰囲気なのは読み取れた。
しかし今石垣の電話の向こうにいる人物はその空気に反して酷く暗い様子でいることは分かる。
何かあったのだろうか。石垣の記憶の中の御堂筋と言えば大抵不遜な態度で自信に満ちた発言をする印象しかない。例外と言えばインターハイの二日目に金城と福富に負けて三位となったときの夜くらいだ。
首をひねりながらも続く言葉を待っていたらしばらくの沈黙の後、彼は珍しく途方にくれたような声で呻いた。

『インターハイの最終日のこと覚えとるか、キミィは』
「なんや、急に。昔話したくで電話して来たんか。珍しいなァ」
『ガタガタいわんでええ、ボクゥの質問にだけ答えればええんよ、ザクが』

もちろん覚えている、と石垣は間髪入れずに答えた。
挫折を乗り越えた御堂筋がスタート地点に戻ってきたことも、そんな彼に喜んだ自分も。
彼がいるチームが最高だと、最高の形だと思ったことも。
自分の限界までペダルを回して彼をひいたことも。
そして、最後、彼が求めた場所以上まで彼を引っ張り、引っ張って、その中で交わした言葉のことも。
すれば少し御堂筋はホッとしたように息を吐いた。

『なあ、石垣クゥンあの時ボクにいうたよな、お前には未来があるとかけったいなことを』
「ああ、いうたな」
『未来ってなんや、石垣クン』

もうないんや、ボクが取らんといけん頂点が。

石垣は御堂筋の言葉にその日の朝職場の同僚と交わした会話を思い出した。
殆ど日本ではクローズアップされることのない自転車競技だったが、その日の朝のニュース番組で取り上げられていたとかなんとか。
今日の試合で優勝候補と目される日本の選手が優勝したら、世界の主だったロードレースを全て制覇することになり、それが日本のロードレース史上初の快挙らしいとかそんな話を最近趣味でロードレースを始めた先輩が興奮気味に話していた。

取るべき頂点がない。
それはきっと試合に勝ったということだ。

喜ばしいことだと石垣は思ったが、同時に御堂筋という人物にそれを当てはめたとき、それはただ嬉しいだけのことではないのだろう思った。
御堂筋は学生時代から世界の頂点だけを一心不乱に目指していた。他のものを捨てて、もっと言えば自分すらも削り取って。
しかし、全てを投げ打って目指した場所にたどり着いたとき、彼は自分の目標が、夢が、光が潰えたことに気がついたのだ。そして同時に自分の手の中になにもなかったことに気づいたのだろう。
いつか、そんな日が来るのではないかと石垣は思っていた。来なければいいとも。
だから高校生のときの石垣はあの灼熱のインターハイで言葉を御堂筋に残したのだった。
美しい走りを尊敬し、尊く思いながらも酷く閉じた道を選び取る御堂筋を悲しく思っていたから。
そしてその危惧がどうやら現実になったのだ、と石垣は思った。
きっと今、御堂筋は途方にくれている。だからこそ、石垣に電話をかけて来たのだろう。
そう思った瞬間、石垣の口からは言葉が勝手に滑り落ちていた。


「御堂筋、せやったら俺んとこきぃ、探すの手伝ってやるわ、お前が次にすること」


(ほんま、勢いで話すもんやないな)

あの時のことを思い出す度に石垣はどうしても過去の自分の言動に苦笑をしてしまう。
本当に御堂筋は石垣の言葉の通りそのまま全てを投げ出して日本に戻り石垣のマンションに転がり込んできた。
自転車と少しの服だけを持って。
土曜日の朝、いきなり玄関口に現れた御堂筋に石垣が思わず素っ頓狂な声を出してしまったのも、不可抗力だろう。
さてどうしたものか。
御堂筋は今までレースで獲得してきた賞金の半分を久屋の家に送っていたがそれ以外については全くと言っていいほどに手を付けずに持っていた。
だから仕事を無理にしなくても生きていけないことはない。しかし何もさせずに置いておくわけにもいかない。何より何もせずにいれば御堂筋は次の未来の指針を見つけることができないだろう。そのためには石垣は御堂筋を多くの人に触れあわせる必要があると判断した。
かといって、彼に普通の企業で普通に仕事をーそれこそ石垣のような営業職をさせることは恐らく酷だろう。自分の会社も人手不足だから採用をしてくれるかもしれないが理不尽なことも多い。御堂筋が耐えられるとはどうしても思えなかった。
そのとき、石垣は社会人になって実業団で自転車を続けているかつての友人やライバルのことを思い出した。
そして石垣は彼らに片っ端から電話をかけて、御堂筋をそのチームに入れてくれるように上の人たちに頼んでくれないかと頼み込んだのだった。
福富には相変わらずだなとため息を吐かれ、荒北にはほんとお前は馬鹿なんじゃナァイ?と凄まれ、金城にはお前らしいと、苦笑された。
そんなことを繰り返して取り付けた面接に乗り気ではない御堂筋を何とか連れていき、なんとかある一つの実業団のチームにねじ込んだ。
何か問題を起こすのではないかと毎日ひやひやしていたが、図らずともチームメイトとなったかつてのライバルの話では御堂筋は思ったよりも真面目に仕事をし、練習に取り組んでいるらしい。

あの電話にでなければ、どうなっていたのだろうかと石垣は時々考えることがある。
無論自分の生活は何も変わらなかっただろう。
相変わらず家と会社を往復し、休日は泥の様に眠り、冷蔵庫にはビールの缶だけが詰まっていたはずだ。
では御堂筋はどうだったのだろうか。
ひたすら負けないようにそれだけを目的にペダルをこぎ続け、世界の頂点に君臨しつづけただろうか。
それとも愛車を連れてどこか誰も知らない場所へ失踪しているだろうか。
もっと言えばその命を。
そう思えば御堂筋はそれなりに楽しそうにデローサのペダルを回しながら毎日を送っているのだから、日本に連れ戻してよかったのかもしれないと思う。
尤も、それが自分の自己満足以外の何でもないのではないかと問われれば、今の石垣には否定する術がないのだが。

「ただいま」

家にたどり着き電気が煌々と着いた室内に石垣は言葉を発した。
が、想像通りといっていいだろう、石垣の言葉に対して返す人はいなかった。
普段であれば御堂筋は日付をこえて帰ってくる石垣のことなど待たずに寝てしまっているが金曜日の夜に関して言えば翌日が仕事も練習もないこともあり、御堂筋は好きな時間まで自転車を漕ぎに行くのが常だった。
証拠に玄関の入り口には彼の愛車のデローサは無く、リビングのソファの上には抜け殻のようにスーツとYシャツが投げ出されている。
恐らく、家に帰ってそのまま着替えて外に飛び出していったのだろう。
幾らハンガーに掛けろといっても御堂筋は石垣の言葉を聞き入れない。自転車に関係あるものについてはあんなに丁寧に手入れをするくせに。石垣は心の中で悪態 をつきながら特注のそこそこ値段の張るスーツを取り、ハンガーにかけた。

「さて、と」

御堂筋は夜に自転車を漕ぎに行ったときは帰った時に決まって晩御飯をねだってくる。そのため、石垣は自分のジャケットだけハンガーにかけると、キッチンに立った。
とはいっても、晩御飯といえるようなものを作る元気なんてとうにない。
石垣は冷蔵庫を開けると賞味期限ギリギリの豆腐と、さっき買ってきた新しい豆腐、そして乾燥ワカメを取り出し、調理台の上に並べた。

「自分で買ってくればええのになあ、コンビニとかで買ったほうが断然うまいと思うんやけど」

賞味期限が切れそうな豆腐は適当な大きさに切ると、液体味噌とワカメと一緒に鍋の中に入れる。買ってきたばかりの方は半分に切るとそのまま皿に載せた。
他には、と思うがそれ以上何かを作る気にもならず、まあ朝まで胃が落ち着けばいいだろうと先週炊いてラップにくるんで冷凍させていたご飯を電子レンジに入れた。
味噌汁が入った鍋と、何も薬味の乗っていない冷やっこ、白米を机に並べると、石垣はそのままソファに倒れ込んだ。
もう自分の分は食べる気にならない。食事より、風呂に入るより体はただ睡眠を欲している。
鉛のように重たい体は指先を動かすことすら億劫だった。よくこんな状態で帰ってきて、晩御飯まで作ったなと思う。
しかしこんな生活が永遠に続くわけでもない。御堂筋が自分の行くべき道を見つけたらそこで終わりなのだ。
御堂筋は自分の行くべき道を見つけたら、取るべき手を見つけたら迷わずそっちの方に行く人間だ。それを石垣は誰よりも知っている。
それならば、自分がすることはたった一つだ。
あの夏、優勝に向けて全力でペダルを回したように。そのために彼が望む場所まで耐えて耐えて耐えきって彼を目的地まで引き切ったように。
そして発射台となって、その背中を見送ったように。
今回も同じように彼が行きたい次の道まで引いてやるのが自分の役割なのだ。
それが御堂筋のアシストとして走った石垣のプライドだ。
譬え、心の奥で何か嘗て感じていたのと同じような感情がくすぶっていたとしても。
そのためにはもう少し御堂筋と話をしなくてはいけないと思うが、如何せんもう瞼が重くて目をあけていることができない。
取り敢えず明日は一日寝て過ごそう。夜は誰かを交えて酒でも飲みに行こうか。そんなことを思いながら、石垣は意識を手放した。


**


そろそろ帰るかと、御堂筋はハンドルを回して車輪を来た道の方へと戻した。

ペダルを踏み込むと加えた力はそのまま推進力に変わり、愛車のデローサは軽やかに走り出した。
車体と一つになって音もなく、御堂筋は人通りの少なくなった街を走り抜けていく。
しばらくいってから角を曲がり少し車の多い通りに出る。そこも人通りはほとんどなかった。時折、酔っぱらった大学生や社会人、仕事だったのだろうかぐったりとした様子でコンビニの袋を下げている人とすれ違うくらいだ。
道路には長距離輸送の大型トラックが目に付くが、バスも乗用車も夕方に比べてしまえば格段に減っている。何よりも遠くに見える線路に電車が走っていない。もう、終電が終わったのだろうか。

(少し回しすぎたわ)

終電が終わったということは自分が居候している家の主もいい加減家に帰っているに違いない。
週の大半十二時を回ってから帰ってくる同居人。
いつの間にか冷たくなっていた秋の風を頬に感じながら御堂筋は脳裏に一人の男の姿を思い浮かべる。
快活で爽やかな笑顔を浮かべて、いやになるくらいにスーツ姿が板についてしまった居候先の家の主―石垣光太郎のことを。
石垣は御堂筋の高校の先輩だ。
そして世界大会を全て制覇していまい、今後のビジョンが見えずに立ち竦んでいた御堂筋の手を引いて、日本に連れてきてくれた人でもあった。

『御堂筋、せやったら俺んとこきぃ、探すの手伝ってやるわ、お前が次にすること』

そう、石垣は御堂筋に手を差し出した。
恐らく反射的に出た石垣の考えなしの言葉だったのだろうと思う。それでも御堂筋はその手を取った。それこそ、反射的に。迷いなく。
だが正直に言えば、はじめ御堂筋は一時の感傷で日本に戻ったことについて辞めておけばよかったと思った。
確かにあの時の自分は全てをかなぐり捨てて目指した目標がなくなってしまい途方に暮れていた。
そしてその先のビジョンが全く見えていなかった。
そんなときにふと、記憶の中から浮き上がって来た言葉をきっかけに御堂筋は電話をかけた。
高校を卒業して以来、一度も連絡を取っていなかった人物に。
自分のことなどとうに忘れているだろうと思いながらかけた電話で石垣は御堂筋に日本に来ればいいと言ってくれた。
それが当時の御堂筋にとっては全てで。そしてそれが最善の策に思えたため、御堂筋は全てを放り出して日本へと渡った。
しかし再会した石垣は御堂筋が知っていた石垣とは変わってしまっていた。
毎日終電近くまで仕事をして、家でも時々仕事先からかかってくる電話に嫌にはきはきと対応する彼は御堂筋の知る石垣よりもはるかに大人の男になっていた。
子供のように楽しそうな表情を浮かべて自転車をこぐ彼の面影は見えず、理不尽な要求にもかつてのように不満げな顔を見せず笑顔で対応する彼は今、自分が「御堂筋くん」と呼べと言えばそれに簡単に従いそうで、御堂筋を落ち着かない気持ちにさせた。
しかし、時間を共にしていくうちにそんな気持ちは溶け出していった。
社会にもまれ大人になり少し疲れてしまった石垣ではあったが、相変わらず呆れるくらいにお人よしで、我慢強く、そして他人のために頑張る人間であることはまったく変わっていなかったからだ。
何もしたくないという御堂筋のことを叱咤し、外に連れ出し、そしてそのまま放り出すのではなく、就職先まで工面してくれた。
面倒くさがる御堂筋のためにスーツとワイシャツを揃え、アイロンのかけ方まできっちりと教え込んだ。
週末は死んだように眠らないと疲れが取れない程にオーバーワークをしているくせに。
それでも疲れた顔をしながらも、楽しそうに御堂筋に要らない世話を焼く彼に、御堂筋はこっそりと安堵をしたのだった。
 
そんなことを考えているうちにマンションの下についた。
新しくもなければ、セキュリティが万全なわけでもない、それでも独身の男がすむにはちょうどいい大きさの1DKの賃貸マンション。
一台のベッドと布団が万年床と化している寝室と、彼にしてはこだわったと自慢の寝心地を提供してくれるソファが置いてあるリビング。簡単なキッチンと、そこそこ広い湯船が付いているくせにシャワーしか使われていない浴室。そして前室に洗面台と、別にトイレ。
正直二人で住むには手狭だが、暮らせない広さでもない家だ。
もう六か月もこの家に住んでいるのかと、手に馴染んできた鍵を不思議に思いながら御堂筋は家に入る。

「帰ったよ」

デローサを玄関に降ろし、靴を脱ぎながら家の中に声をかける。しかし、返事はない。
風呂だろうか、それにしては音が聞こえないが。そんなことを思いながらリビングに足を向けるとソファの上でスーツ姿の石垣が眠り込んでいた。
人にはスーツをハンガーに掛けろと口を酸っぱくしていうくせに、スラックスを履いたまま横になっているため、朝、プレスの線がしっかり入っておりパリッとしわがないものを履いていたはずなのに線は消え、皺が寄ってしまっていた。
同様にワイシャツも、だらしなく上のボタンが二つ外されており、ぐしゃぐしゃに皺が寄っている。
髪の毛も朝はしっかりとセットをされていたはずだが、後ろに撫で付けていた髪はほつれて幾筋か額にかかっていた。
そして相当疲れているのだろう、顔をしかめて眠る彼の表情は顔色が少し悪く目の下にはくっきりと黒く隈が浮いている。

「石垣クン」

ぺちぺちと頬を叩くが、石垣は身じろぎすらしない。
完全に寝入っているらしい。御堂筋はため息をつく。

布団をかけてやった方がいいのか、それとも寝室まで引きずって行くか。
そう思いながら視線を巡らせると机の上には石垣が作ったのだろう、簡単な晩御飯が並んでいた。
尤も作ったと言えるようなレベルの代物ではない。ただパッケージを開けて盛り付けたような、そんなものでしかない。
それでも、御堂筋の好きなものを、といった配慮が透けて見える取り合わせだった。
しかし、と御堂筋は眉を顰める。

「なんや、また自分は食っとらんのか」

流しにも机の上にも取り皿や使ったと思しき箸は置いていない。
一度ふざけて晩御飯をねだってから石垣は毎週金曜日だけ、晩御飯を作ってくれるようになった。
元々は仕事から帰ってきて、すきっ腹にビールだけを流し込んで眠る石垣の体を慮っての言葉だったのだが、石垣は単に御堂筋が食べたいからだと思い込み、御堂筋の分は作れど自分では食べないのだから、気遣いというのも難しいと御堂筋は思う。

「いい加減にせんと、死ぬでキミィ」

指先で石垣の額にかかった髪を流してやる。
それでもやはり石垣は微動だにしなかったし苦しげに寄せられた眉もそのままだ。
御堂筋は何度目かわからないため息を吐きながら石垣の顔の隣の床に腰を下ろした。
石垣はただ、すうすうと浅く寝息を立てている。
疲労が色濃いその表情にまたどうせ、自分の仕事以外にまで手を出して、帰れなくなったのだろうな、と御堂筋は思う。
そしてそんな非効率的で不器用な石垣を疎ましくも思いながら、尊いと、思う。

御堂筋は良くも悪くも自分の事しか考えずに生きてきた人種だ。
自分がしたいことだけをして、そのために必要なものだけを選び取って生きてきた。
石垣はその逆を行く。人のことばかりを心配し、他人を優先にして生きている人間だ。
そのためには自分を犠牲にすることすら厭わない。呼吸をするよりもたやすく、石垣は何もかもを投げ出してしまえる。
きっと石垣は仕事でも何でも引き受けて、自分の体力と精神力を削ってしまうのだ。それを犠牲だと思わずに。
そして、それは御堂筋に対してもそうなのだろう。
馴れない東京での生活。完全に過重労働である仕事。不足している栄養素と睡眠時間。
それでも時間を御堂筋の為に割いてくれる。それに加えて、御堂筋が自分の家に住むことを許し、仕事先を見つけて来、その上食事の世話だってしてくれる。
それが石垣の性格だといってしまえばそれまでだ。今同じチームにいるかつてのライバルも石垣の振る舞いを話すと、石垣らしいと笑っていた。
確かに、同じような性格の人間は御堂筋の周りにも少なくない。誰にでも優しく、何でも受け入れてしまう人間はたくさんいる。むしろ御堂筋のようにどこまでも我を通す人間の方がこの日本では珍しいくらいだ。
プロになってからは御堂筋のために時間や労力を割いてくれる人間もたくさんいた。勿論名声や金を目当てに近づいてくる人間もいたが、単に御堂筋を支援したいと思っている人間も大勢いたのだ。
だが、その中でも石垣は御堂筋にとってその他大勢からは少し一線を画す人間だった。
それはただ優しいから、助けてくれるからという理由ではもちろんない。
石垣が、唯一、上辺だけではなく御堂筋のことを本当に考えたうえで接し、そして言葉をかけてくれる人間だったからだ。

『おまえには未来がある』

あの時から、高校生だった時から、もっと言えば御堂筋にためにあの言葉をかけてくれたあのときから石垣はたぶん御堂筋にとって特別だった。
母親との誓いと自転車と勝利だけを追い求めた御堂筋の世界で、唯一色を持つ「他人」だった。
しかも、御堂筋にとって特別を表す、黄色の色を持った人間だったのだ。

それでも御堂筋は石垣をも切り捨てた。
彼を捕まえてしまったら、自分のペダルが鈍るような気がした。それが何よりも怖かったからだ。彼を失うことよりも何よりも。
それでも。
今、彼が笑う。あの時よりも溌剌さや若さを欠いて。それでも相変わらず優しく。
そしてそこに、御堂筋はあの日と変わらぬ色を見るのだ。
暖かくて、幸せな、色を。
だから。

「今度は手放さんよ、石垣クゥン」

次に行く道を見つけたとしても、今度は捨てたりはしない。
連れて行く。どこまでも。
あの夏、勝利をつかむために自分の踏み台として彼を連れて行ったのとは違う意味合いで。
きっと、荷物を背負ったとしても進む足は鈍らないと今ならそんな気がするからだ。
そんな風に思えるようになったのもこの半年の変化なのかもしれへんなぁ、と御堂筋は思いながら石垣の肩に手を伸ばした。
すっかり筋力は落ちているが、それでも絞られた、というか単にやつれただけかもしれない石垣の肩に。

「石垣くん、こんなところで寝とったら風邪引くで」

ゆさゆさと乱暴に揺すれば流石の石垣も目を開けた。
そしてぼんやりとした双眸で御堂筋を捉えると、先ほどの険しい表情を少し崩し呂律の回らない舌でおかえりみどーすじ、とつぶやく。

「そんなんええから、起きぃ」
「ん、だいじょーぶや、よ、まだそんな寒ないし」
「そうやけど、石垣くん疲れとるやろ。そんなときはちゃんと寝んと疲れ取れんよ」
「ええやんか、もう動きとうないんや。朝まで寝かしてくれぇや」
「そんなんいうて夕方まで寝るつもりやろ。あかんよ、明日はキミにもペダル回してもらうんやから」

さらりと口にした御堂筋の言葉に。
石垣のほとんど閉じていた眼を急にぱちりと開く。
そしては?と情けない声を漏らした。
そんな石垣に御堂筋は首を傾げる。

「何呆けた顔しとるの。アホな顔が余計にアホになっとるで」
「俺もか」
「君もや」
「なにいっとるんや無理や、もう全然乗っとらんし、ペダル回せん。自転車乗る筋肉なんてすっかりおちとるで」
「せやろな。キミィのアンカー、可哀想や」
「お前について行かれへんよ、足手まといや。そう言うん嫌いやろ。やから一人で行きぃ」
「ええよ、ボクゥが引いたるから」
「は?」
「だからボクが、この御堂筋翔クンがキミを引いてやるゆうとるんや。嬉しいやろ、光栄やろ」
「そうはいうけど、御堂筋、」


「ウルサイで、石垣クン」


手を、伸ばすと右手で石垣の頬を掴んだ。
嘗てもこうして小言や文句を口にする石垣を黙らせたものだった。
そして今回も例外なく、石垣は突然の御堂筋の行動に驚き、その手を振り払おうとしながらも言葉を噤んだ。
そんな石垣を見やりながら御堂筋は、にやりと口角を持ち上げる。

「そうやで、キミィはガタガタ言わず黙ってついてくればええんや」

自分のことを心配して、そして自分のことを光として眩しそうに目を眇めたときと同じように。
同じ表情で。

そういうと、石垣はぱちぱちと二回瞬きをした。
そして、困ったように、笑う。

「お前にはやっぱり敵わなんなぁ、御堂筋」




それが同じ演目で、同じ配役だったとしても。
そこにある思いが違ったとしたら。
辿り付くエンディングはきっと。











material:Sky Ruins