突き飛ばされるように。
引っ張りつづけられるように。
その背中を追いかけることしかできなかったあの、夏の日。



部活を引退して仕方なく通い始めた予備校を出て、石垣は思いっきり伸びをした。思いの外、肩が凝っていたらしく、ばき、と鈍い音がした。

勉強をすることは自転車漕ぐより、圧倒的に疲れるということを、受験勉強に向き合うようになって石垣は改めて自覚した。
高校に入ってからの今までの二年半、いやもっと長い間石垣は常に自分の体としか対話をしてこなかった。筋肉、体調、疲労の度合い。勉強だってできない、というわけではないが、運動をするということと比べてしまえば魅力は格段に落ちた。そのため、勉強を中心に据えた生活というものを石垣はおくってこなかったのだった。
しかし流石に三年生。そんな生活から一変、部活を引退した石垣を待っていたのは今までほとんど使わなかった脳を酷使する生活だった。
正直まだ、切り替えがうまくできていない。部活一色だった生活から勉強中心の生活へと体を慣らすのはなかなか大変だったし、何よりも自転車に乗れる時間が激減したことが辛い。
これも大学でちょっと興味のある学問を勉強するためと、なによりも好きな自転車を続けるためだと思えばなんとか頑張れないこともないかと思う。
そんなことを言えば、あの後輩ー運動はからきしだが自転車と勉強に関しては完璧である男ーはあまいで、石垣クゥン、とでも笑うのだろうが。

(それ以前に、まだ覚えとるかな、あいつ)

石垣の脳裏に一人の男の姿が浮かび上がった。すらりとした長身。ガリガリの四肢。しかしそこには無駄のない筋肉がしっかりとついている。猫背の背中。ぎょろりとした大きな目。なんでも食べてしまいそうな大きな口と長い舌。それは石垣が所属していた京都伏見高校自転車競技部のエース、御堂筋翔だ。
恐ろしいほどに自転車と勝利にしか興味のない男は、チームメイトのことを仲間と思っておらず、ただの手駒としか扱わない節があった。そして徹底的な合理主義者なので自転車の競技に於いて要らないものについては躊躇なく切り捨ててしまう。
そういう点で言えば、石垣は部活を引退した身であり、もう彼にとっては不要なものだ。流石にまだ部活を引退して幾許も経っていないから、覚えてくれているだろうが。それもいつまで持つだろうか。
そう思うと、いつも石垣の胸はちり、と痛む。その感情をなんと呼ぶのかわからないほど石垣も子供ではない。しかし、望んでも仕方ないことも、おそらくこの想いが届かないであろうことも石垣は知っている。
もうあきらめた筈ではないか。頭の中から彼のことを追いだすように石垣はふるふると頭を振る。
くだらないことで悩んでも仕方ない。ひとっ走りしてまた勉強だ。予備校の自転車置き場にチェーンで厳重に止めてある愛車のアンカーで少し筋肉を使ったらシャワーを浴びて、数学の問題でもとこう。ああ、まず晩御飯を食べるのが先か。
母親に今から帰るとメールを送るためにスマホを取り出す。
すれば数件のメールの受信の通知が画面に表示されていた。
メルマガ、クラスメイトからの明日の小テストの内容を尋ねるメール、母親からの晩御飯の内容を記したメール。
その中の一つ。
それに石垣は目を見張った。
そこには練習のメニューや作戦しか連絡してこないーそのため部活を引退してから全く連絡を取っていない石垣の後輩で京都伏見高校自転車競技部の絶対的エースの名前が表示されていた。





キミがいない世界なんて







「あっついわー!」

駅で配布されていたうちわを使い、ワイシャツの襟元から風を送り込みながら辻が叫んだ。
京都の夏は暑い。
盆地であるために熱がこもり、湿度も高くこの季節に限ってはかなり過ごしにくい土地だといってもいいだろう。
ただゆっくりと歩いているだけで汗が滲んでくる。
それでも、今は既に太陽が鮮やかな緑色の山の後ろに没していることに加え、水の上をわたってくる風が髪を透いていき、普段よりは何倍も涼しくはなっていた。
風に緑と水が混じり合う匂い。それを感じながら石垣はつい先日引退した部活の仲間と川沿いの道を歩いていた。

「しゃーないやろ、浴衣女子見るためや!」
「A組の藤井さんの浴衣見れるかもしれんよ」
「男と歩いとったらどうするんや」
「そんときは、そんときやなあ」

今日は学校の近くで地元の祭りが開催されていた。
川沿いにずらりと露店が並んでおり、色とりどりの提灯が下がっている。
そしてその提灯の光の下は夏休みなのも手伝って浴衣や甚平姿の人で埋め尽くされていた。オレンジの光に照らされた人たちの表情は一様に明るく、とても楽しそうで石垣も思わず自分の頬が緩むのを感じた。

「石やん、たまにはこんなんもええなあ」
「せやな。みんな楽しそうでよかったわ」

それに、と思う。こうやって祭りに来ること自体、相当久しぶりだった。小さい頃はよく、町内会の関係で家族や友達ときていたが高校に入ってからはきた記憶がない。
きっと、友達とこうして遊ぶより、石垣は自転車で走ることに何倍も魅力を感じていたのだろう。
努力をすればするほど、走れば走るほど、鍛えれば鍛えるほど速くなるタイム。安をはじめとした先輩に必死でついていき、同級生たちと、そして後輩と励まし合いながら走ることに。それこそが何よりも石垣にとって大切な時間だったのだ。
しかし惜しいことをしたとも思った。
石垣はおしなべて部員とは友好的な関係を持ってきたが、部活帰りという場面を除けば学校を離れたところで部員と遊びにいくようなことはほとんどしてこなかった。
この夏が部活の仲間と過ごす最後の夏で。
そしてきっとこうして練習という枠から離れたところで過ごす今日という日がこの夏で最初で最後で。
きっと。高校生活でも最後なのだろう。
辻や水田とも。そして、二歩先でうちわであおぎながら不機嫌そうにしている男とも。

「御堂筋がこういうとこくるの珍しいんやないか」

何を屋台で買って食べるか。財布の中身を見比べながら相談する同級生と後輩に混じらず退屈そうにしている御堂筋に石垣は声をかけた。
喧騒にかき消されないように大声を張り上げた石垣の言葉に御堂筋は首だけ回すと、大仰に眉根を歪めて見せる。

「珍しいもなんもはじめから来たくないわ。なんでこんな人が多いところに行かなくてはいけんの。露店の食べ物やって高いだけでうまないし、衛生的にも良ぉないし。人にぶつかって怪我でもしたらどうしてくれるん」
「そやな」
「それに間違ってザクたちが喧嘩でもしたらどうしてくれるん。せやから仮にもキャプテンやった石垣クン呼んだんやから、しっかり働き」
「おう、まかしとき」

何を買うのか決めたらしい。三々五々各々が欲しいと思うものを買いに部員が散らばったのを見て御堂筋は小さく舌打ちをした。
そして屋台が並ぶほうへと歩を進める。
なんだかんだ言って部員のことを気にかけている御堂筋のことを微笑ましく石垣は思う。
この短い間で少しでも彼が変わっていればいい。と思うがきっと彼の中では京都伏見の部員はどこまで行っても勝つための戦略を構成するコマの一つでしかないのだろうけれど。
そこまで考えたところで石垣は御堂筋とたった二つの季節しか共に過ごしていないということにも気がついた。
激動の春、灼熱の夏。このたった二つ。
季節だけではない。学校行事である学園祭も、体育祭も何一つ石垣と御堂筋は共有をしていないのだった。
御堂筋がこの部活に、石垣光太郎の前に現れてからたった四か月。本当に一瞬だった。
それでも、この四か月は今まで石垣が自転車に費やしてきた時間からすると、濃密な時間だった。
エースの座を引き摺り下ろされ、部活を乗っ取られ。今までの石垣の部活の運営方法を180度ひっくり返された。
悔しさに拳を握りしめたときもあった。泣きだしたいような、叫びだしたいような衝動に駆られたこともあった。何で、もう一年遅く生まれてきてくれなかったのかとすら思ったこともあった。
しかし、いろいろな夢も見せてくれた。価値観も考え方も変わった部分もある。本気で目指す勝利がどれだけ尊く美しいものなのかということも知ったし、自分の思い込んでいた限界なんて、容易く超えていくことができるということも彼が教えてくれた。
そして、非情で、卑怯で、最低な男がどれだけ純粋で、繊細でそして強いのかということも。
出来る事ならばもっと一緒に走りたい。もっと一緒の景色を見ていたい。あの男が最速で居るために自分ができることの全てを彼に捧げていたい。
だが、石垣はもう部活にいることができない。あと、数か月後には受験で、そしてその先の道へと進んでいく。
同じ道を、あの灼熱のインターハイを一緒に走る資格は石垣にはもうないのだ。
だから、消さなくていはいけないのだろう、と思う。あの瞼の裏に残る彼の背中を。この胸の中でじりじりと焦れているこの感情も。

そう、今日ここにある祭りの会場が明日には消えているように。

石垣は、足を止めくるりと視線を巡らせる。
隣を行く家族の笑み。
彼氏に手を引かれ、淡く染まった頬。
賑やかな話声。
客を呼び込む威勢のいい声。
何処からか聞こえてくる祭囃子。
露店のオレンジ色の光。
会場に下がる様々な色の提灯の淡い光。
それが、色とりどりの浴衣に映るさま。
鮮やかで美しくて、儚いその景色を。

と、その時だった。

「キミィ、ほっとくとすぐどっかいくんやね」

ぐい、と強い力で石垣の手が引っ張られた。
急な力に顔を上げると、眼前に先程まで自分の少し前を歩いていたはずの男の双眸があった。
焦点があっているのか判然としない、それでも真っ直ぐに勝利だけを見据える目だ。そこに、今、驚いた顔をした自分の顔が映っている。

「み、御堂筋」
「御堂筋クン、やで。ほんま強情や、キミィは」

すう、と目を細め、心底嫌そうに御堂筋は吐き捨てた。

「すまん」
「もうええわ、キミィ、直す気ぃないやろ」

そして御堂筋は大仰にため息を吐くと石垣の手を掴んだまま歩き出す。
石垣は突然の御堂筋の行動に驚き、それでも容赦なく前方に引いて行く力のままつんのめりそうになりながらも足を踏み出した。
石垣と御堂筋の間には15cmの身長差がある。そのため、御堂筋の歩幅は石垣のそれより少し広く、石垣は御堂筋に引きずられるように歩く羽目となった。
人並みの中を縫うように、しかしずんずんとすすんでいく御堂筋に引っ張られらながら歩くせいで、石垣の肩はすれ違う人にぶつかった。それに申し訳なく思いながらも、謝る暇もない。
否、そんな余裕は石垣の中にない。
左右に揺れて定まらない、視界。それでもぶれて焦点を結ばない石垣の視界の中で、御堂筋の少し丸まった背中だけが酷くリアルでクリアだった。
御堂筋の手は冷たい。それでも掴まれているところが熱くて、痛くて石垣は堪らなくなりみどうすじ、と喘ぐようにその名前を口にした。

「御堂筋、もうええで。もう立ち止まらないし、はぐれんから」
「キミィの言い分は信用できへん。インターハイの時やってあんなに意気込んどったくせに勝手に滑って落車しそうになったし、最近練習全然来ぉへんし」
「それは、引退したからや。勉強もせんといけんし」
「ウルサイで、石垣クゥン」

そういうと、御堂筋は歩幅を緩めることなく、肩越しに振り返る。
そして普通の人より大きく、丸い双眸が、そこから向けられるまっすぐな視線がはっきりと石垣を見据えた。

「大体、ちゃんと普段から勉強しとったらペダル踏んどっても問題ないやろ」
「いやいや、そういう問題じゃないやろ」
「それになァ、ボク、決めたんよ。石垣クゥン」

「黄色は、もう手放さへん」

まっすぐに、はっきりと紡がれた御堂筋の突然の言葉に石垣はぱちりと瞬きをした。
しかし呆然とする石垣をよそに、御堂筋はそれ以上説明らしい説明をすることもなく再び視線を前に向けると、何時ものように少し背筋を曲げながら歩き続ける。
そんな御堂筋にずるずると引きずられそうになりながら混乱する思考で石垣は御堂筋の言葉の意味を捉えようとした。
黄色。
訊ねようするが御堂筋の歩調は揺るぎなく、石垣はその歩調について行くことと、人波をすり抜けるのに必死で言葉を発する余裕がない。
黄色、とは何か。
辛うじて視線を自分の体に落とすが、今日制服を身に纏っている自分に黄色の要素はない。
それに加えて普段からも自分は黄色のものを好んで身につけているわけでもない。すればきっと御堂筋の言葉は何か外見を示す言葉ではないのだろう。
と、それ以前に、と石垣は思う。
今、聞き間違いでなければ御堂筋は手放さない、と口にした。
勝利のためであれば何であろうと削り去り捨てることを厭わない。それが御堂筋という男だった。
信頼も敬愛も尊敬も愛着も彼は捨て去ってしまう。寧ろ理解をしていないという方が正しいのかもしれない。
それらの感情を必要ないと、重りであると判断した瞬間から彼はきっと理解することをやめてしまったのだろう。他者同士が向け合うそういう感情についても、御堂筋は馬鹿にするか首を傾げることしかしない。
しかしそんな御堂筋が、手放したくないと思うものがその、黄色とやらに象徴されるものだとしたら。もしかしたら、なにか御堂筋の中で大切なものを指す言葉なのだとしたら。
御堂筋自身も明確に言葉にできないような、そんな感情。そして、その感情の矛先が向いているのはおそらく、というか明らかに。
石垣はそこまで思考し、愕然とした。
つまり、そう全力で自惚れていいのだとしたらそれはまさに。

石垣は耳が熱くなるような錯覚を覚える。それを悟られないように石垣は掴まれていない方の手で頭を抱えた。
そして御堂筋に掴まれたままの自分の手に視線を落とす。石垣の手をしっかりと握ったままの御堂筋の骨ばっており、自分より大きい。しかし無駄な贅肉などがなく華奢な手だ。
その手から伝わってくる迷いない力。それに石垣は自分の心のあたりがむず痒くなるような感覚を覚える。
諦めるつもりだったのに。御堂筋に、惹かれていると決めたときから。そういう感情を御堂筋は好まないことを、重りや無駄としか思わないことを、もっといえば理解できないことを悟った瞬間から石垣は諦めたのだ。この感情を言葉にすることも、何か形を持ったものとしないように。
それでも今。彼から自分に手を伸ばしてくれたのだとしたら。押し殺した感情をまだ持っていていいのだとしたら。
そうなのだとしたら自分から彼の手を離す道理はない。絶対にない。
まったく、今までの自分の煩悶はなんだったのだと苦笑しながら、石垣は彼がするのと同じように御堂筋の手をしっかりと握り返した。
そして、縺れそうになっている足を叱咤すると、勢いよく踏込み、御堂筋の一歩後ろまできっちりと並んだ。
漸く声が届く距離。石垣は口角を持ち上げる。

「なあ、御堂筋」
「なんや」
「いなくならんよ、俺は」

お前が好きで、大切だから。そう言おうとして石垣はそれじゃダメだろうな、と思い直す。
そんな曖昧な意味しか持たない言葉をきっと御堂筋は理解できないだろう。もっと実用的なー自転車に直結する言葉で無いときっと届かない。まだ、今の御堂筋には。
いつか、届けばいい。それを教えるのも自分の役目なのかもしれない。果てしなく、気が遠くなるような作業である気もしなくもないが、それでも彼にとって何か少なからず自分が意味のある存在なのだとしたら、努力する価値はあるのだろう。
ふう、と短く息を吐き、石垣は言葉を紡ぐために息を吸った。

「俺はお前のアシストやからな。お前にとって俺が不要になるまで、ちゃんとお前のそばにおるよ」

勝つために全てを捨てる選択をしたお前が寂しさを感じないように。不器用なお前がちゃんと他者を必要とした時に、その背中をおしてあげられるように。持て余した感情に押しつぶされないように。
まあ、できればその相手は自分であって欲しいのだが。
石垣の言葉に、御堂筋はふうん?と気のなさそうな返事をする。

「ボクゥが要らんようになるまで?石垣クゥン、どんだけ自主性ないん?」
「ん?」
「それ以前にキミィは部活引退しとるやろ?来年は僕のこと引かれへんで?」
「なんやねん、お前は。ほんまめんどくさいやつやな」

はー、と肩を落とした石垣に御堂筋は低く笑う。

「ほんま、キモ過ぎや。石垣クゥンは」

しかしその実、その声がどこか弾んだものに聞こえて、石垣はこっそりと笑った。



願わくば。
今度はキミの後ろではなく、その隣を一緒に歩けんことを。











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