恐らく何度願ったとしても
不可逆である、夏の夜。



「何しとるん」

部活が終わった学校からの帰り道、愛車のデ・ローサを走らせていると、河原のベンチに座り空を見上げている人の姿が目に入った。
御堂筋は他者に対する興味が恐ろしく希薄な人間だ。だから本来であれば誰がどこで何をしていようが気にすら止めずそのまま通り過ぎてしまうところだ。
だが今回に限って言えば、その人の傍らに止まっているものが、その自転車が見慣れたもので、御堂筋はうっかりとペダルを緩めてしまったのだった。
後ろからおもむろにかけられた声に、ベンチに座る人は驚いたように振り返った。そしてその双眸に声の主を写すと、元々大きな目をより大きく見開いた。

「びっくりした、お前から声かけて来るなんて珍しいこともあるもんやな」
「お前やない、御堂筋クン、やで」
「わかったわかった、御堂筋くん」
「で、なんでこんなところで油売っとるん。早よ帰って寝んと明日も練習やよ。それとも余裕やゆうんやったらもっとメニュー増やそか」

憎まれ口を叩いた御堂筋に彼ー石垣光太郎は苦笑するとそれは勘弁してーなと肩を竦める。
そしてゆるく笑ったまま彼は空を指差した。

「ちょうど今日隣町の花火大会みたいでな。花火見とるんよ。御堂筋、くん、も一緒にどうや」

彼が指し示した指の先。つられるように視線を向けると真っ暗な空にはなるほど、花火が上がっていた。
確かに練習で走っているときから時折低い破裂音が腹の奥に響いていた。特に練習に支障があるわけではなかったため捨て置いていたが原因はこれだったのか、とようやく御堂筋は得心がいく。丁度、練習コースからだと見えない角度だったようだ。
打ち上げ会場は少し、ここから遠いらしい。そのため音と光が分離して響いてくる。だが、ちょうど他に遮蔽物もないためだろう、夜空を彩る大輪の花が欠けることもなくよく見えた。
大きさ、形も様々な花火が、天頂を目指して駆け上がっては我先にと破裂する。
そこからこぼれる昼かと紛うほどの明るい光。
丸い形をした花火もあれば、天頂から光が柳の様に垂れ下がってくるものもあった。
大きな花火が単発で上がったり、小さな色とりどりの花火が重なりながら爆ぜるものもある。
久しぶりに見る迫力のある光景に、御堂筋は不覚にも目を奪われた。
口をだらしなく開けたまま、ぼんやりと空を見上げていると、ふ、と花火の反響の合間に息を吐く音が聞こえる。
我に帰り、その音ー笑い声の主の方に視線を向けると優しい視線とかち合った。バツの悪さを覚える一瞬前、彼はもうすぐで終わるから座って見ていきぃ、と笑う。
石垣の言葉に反発を覚えながらも、御堂筋はデ・ローサを止めると彼の隣に腰を下ろした。彼は隣に座った御堂筋に目を細め、満足そうに膝に肘を置き組んだ手の上に顎を乗せる。
花火に向けられた彼の頬に、花火の色が散った。
赤、ピンク、緑、紫、橙。
そして、御堂筋の大好きな色も。

怒濤の連発が終わると、小休止だろう。一度花火の打ち上げは止まった。
腹の奥をくすぐるあの低音はなりを潜め、静寂が世界を満たす。
すれば今まで息を詰めていたのか隣の石垣はやっと呼吸が許されたと言わんばかりにそっと息を吐く。
そして御堂筋の方を向き、嬉しそうに口を開こうとした。が、おそらく花火の感想を求めたり、自分が感じたことを共有したいと思っても御堂筋が話に乗ってこないだろうと思ったのだろう。石垣は言葉を発することなく、花火が打ち上がっていたあたりにもう一度視線を戻した。
そのまま、彼はじっと押し黙り、深くため息をつく。

「なんやの、キモいで石垣クゥン。言いたいことがあるなら言ぃ」
「たいしたことないんよ、俺、花火好きなんやって言おうと思っただけや」
「石垣クゥンは乙女趣味なん?」

ちゃうわ、と彼は苦笑する。
そしてそういうこと言うから言いたくなかったんや、と続けた。

「花火って潔くて好きなんよ」
「潔い?」
「作るのにあんなに時間と金がかかるんに一瞬で消えるんよ。こんなに綺麗で、見とる人に感動を与えて。作られてから、空に上がって、めっちゃ綺麗に開いて、すっと消えるんよ」

それって、潔ええやろ。
そう、彼は目を細めた。
御堂筋は彼が何を言わんとしているのかよく理解できず首を傾げる。いつもそうだ。彼は少し遠回りをした言い回しをする。否、自分に中にない感覚の話をしようとし、御堂筋にわからせようとする。
おそらく彼の中には御堂筋に対して何か言葉にしたいことがあるのだろう。しかし、大抵彼の言う言葉に御堂筋は理解が及ばない。おそらく今回もその手の話なのだろう。本当に傲慢だ。御堂筋は、そう思いながら低く笑い、彼の言葉を打ち払う。

「それやったら石垣クゥンも見習った方がええで。石垣クゥンは潔さが足りひん。何もかも捨てられへんかったからキミィは勝てんのや。花火が綺麗に咲くことだけ考えるみたいに石垣クゥンもペダル踏むことだけ考えとったらもっと、ボクゥといい勝負ができるくらいには早い選手になれとったかもしれん」
「御堂筋は手厳しいなあ」
「厳しないわ」

でもその通りやわ、石垣は笑った。

「京都伏見が、このジャージが、インターハイのゴールを一番で駆け抜けることだけを考えんといけんな」
「そうや、ボクの指示した場所までしっかり引くことだけを考えとればええ。他はいらん。キミィが好きな花火みたく潔う、走りぃ」
「おう、そうするわ」

まっすぐに走って、ペダルを回して。
必要な所でしっかり役目をはたして、勝利という花を咲かせて。
人々を感嘆、感動させて。
そして、そして?

その瞬間、どん、とまた低い音が静寂を切り裂いた。
幾筋も上がっていく光の矢。そして空を彩る花火。恐らくクライマックスなのだろう。先ほどまでよりもより大きな花火が間断なく上がっては、夜空に咲いていく。
まさに息をつく暇もないといっても差し支えないような連発。その合間に横を見れば石垣は満足そうな表情を浮かべて花火を眺めていた。
その石垣の横顔に御堂筋は何か吹っ切ったような、そんなような気配を認めたような気がした。
と、その時。御堂筋は何か得体のしれないものに鷲掴まれたような錯覚を覚えた。夏の暑い、夜だ。肌の上には汗が浮いている。時折吹く風がなければ今日も寝苦しくなりそうだ。
それなのに、鳥肌が立つような、そんな。
初めて感じる感情に御堂筋はただただ、呆然としたまま、極彩色に彩られる彼の横顔を眺めていた。





それは手の中から
するりとおちて







(石垣クゥンや)

それもまた、練習後の帰り道のことだった。
腹の底に響く重低音に御堂筋が顔を上げると、御堂筋の眼前には大輪の花が咲いていた。
どうやら、何処かで花火大会が行われているようだ。人々の歓声や感嘆の声は聞こえてこない。だが、空高くまで上がり、堂々と咲く花火は、ちょうど遮蔽物がないこともあり、御堂筋が帰り道に使っている坂の上から欠けることもなくよく見えた。
眼前の闇を明るく照らすそれらに思わず、御堂筋はブレーキを握り、その足を止めた。

暗い世界に次々と咲いては消えていく花火。
ひゅるるという音とともに光の尾を引きながら空へと駆け上がり、破裂音とともに光を暗い空に撒き散らす。
色とりどりの光が、一瞬世界を彩り、そしてすっと消えていく。
すっと、それを見ながら御堂筋はかつてのチームメイトのことを思い出していた。
特別速かったわけでもなければ、何かずば抜けた技量をもっていたわけでもない。量産型のザクに少々毛が生えたようなチームメイト。他に代用品だって、探せばいただろう。まさにそれくらいのレベルの選手だ。
ましてや彼とともに走ったのは高校に入学してからたったの四ヶ月だけだった。そんなもの御堂筋が今まで生きてきた十五年からしてもたったの一瞬だといっても語弊はないだろう。
それでも彼という存在は御堂筋に強烈な光を齎した。というのも自分と自転車と、母親との約束しかなかった世界に入り込んだ初めての存在だったからだ。
彼は突然現れ、彼が大切にしていた(本当に大切にしていた!)部活を乗っ取り、彼の意図しない集団に変えてしまった御堂筋を嫌悪し、御堂筋にやり方に怒り、御堂筋に逆らった。
御堂筋はそれを知ってもなんとも思わなかった。御堂筋を敵視する存在は今までたくさんいた。今泉だってそうだし、御堂筋をライバルとみなす人間はみんなそうだった。
しかし、彼はあろうことかある時から御堂筋を構い、尊敬し、追いかけ、支え、ゴールまでの道をひいてくれた。一心不乱に。御堂筋と同じものを求めようと。
正直、そんな彼に御堂筋は困惑した。そして同時に尊く、美しいと思った。心地が良かった、手放したくないと、捨てたくないとそう思った。
それでも。
永遠に夜空にとどまる花火がないように、彼もすっと、御堂筋の世界から消えた。
仕方ないといってしまえば仕方ないことだ。彼は御堂筋より二つも学年が上だった。学校というシステムは三年で否応無しに生徒を次の段階へと押し出す。彼も例外に漏れず(真面目な性格だったため、授業をサボるということをほとんどしなかったのだ)次の段階へと押し出されてしまった。引退、卒業。そして、目に入る範囲からいなくなってしまった。
いつも視線を巡らせれば部室の前か駐輪場に止まっていた彼のアンカーも、自分より小さな背中も、92番のゼッケンも。
跡形もなく、残像すら残さず、まるで始めからなかったかのように。
だが、御堂筋の網膜には焼き付いて離れないのだ。あの、一輪の火の花が。彼の、横顔が。
ずっと。

御堂筋はため息をつき、ゆるゆると首を振った。

(捨てられん人やったんは、キミィだけじゃなかったんやよ石垣クン)

あの日。
彼は、花火が好きだといった。
花火の潔さが好きだといった。
それを、その石垣の言葉を御堂筋は空に大輪の花を咲かすためだけにその存在をかけることを潔いと捉えているのだと思った。そしてその部分について言えば少しだけ理解できたような気がしていた。
しかし、彼が意図したことはきっと違うのだ。
彼が潔いと思ったのは、好きだと思ったのは夜空に大輪の花を咲かせた後、なんの爪痕も残さずにこの世界から消えるその儚さのことだったのだろう。
執着も、夢も、後悔も、全部全部、どこにも残さないで消える、その光を。
だからきっと、彼は何も残さなかった。しがみつくことも、追いすがることも。

(やから、捨てるで。ボクゥもちゃんと)

何もかもを捨てられなかった石垣が、ちゃんと愛着と尊敬をー京都伏見高校自転車競技部と御堂筋翔を手放したように。
勝利を掴むために、削って削って削って純化して、全てを推進力に変えて、もう一度、今度こそ黄色い世界の中に美しい勝利を呼び込むために。


轟音。
色とりどりの光。
光が加算されて白く光る空。
落ちる、花びらのかけら。
努力の結晶。
詰め込んだ時間。
美しい、残像。
そして。


今、最後の花火が。
漆黒の闇に溶けて。

消えた。










material:Sky Ruins