たった、ひとかけらでもいい。
貴方の生きる明日に、何か意味が残せますように。





絡める指先






一度だけだ、と石垣は思い出す。

それは酷く冷たい手だった。
茹だるような暑さの中、真夏の季節の下、その手は場違いに冷たかった。

彼の手に触れたのは空が、うんざりするほどに晴れ渡っている日だった。
真っ青な空に、ぽっかりと入道雲が浮かんでおり、天頂で輝く太陽は世界を真っ白にせんとするかのように強烈に輝いている。
そんな中、石垣は薄暗い救護テントの中にいた。
どうやってここまできたかもよく覚えていない。真夏のインターハイ。三日目はさっき終わったばかりだ。
使い切った足の筋肉はもう限界で、立っているのがやっとであるし、限界まで自転車をこぎリタイアをした石垣はついさっきまで体を動かすことも話もできない状態だった。
しかし、ぼんやりとした意識の中で聞こえた単語に石垣はいかなくてはならないと、そう思ったのだ。
まだ寝ていなさい、そう自分を制する声や手を払いのけて、石垣は自分が寝かされていた救護室のベッドから降りて走り出していた。

ー京都伏見のエースが落車してリタイアしたらしい。
ーあの、気持ち悪い走りをするけど、速い選手か。

まだ足はふらついて覚束ない。それでも自分のロードレーサーではなく、己が生まれた時から持っている両の足で石垣は走った。
風の音が、弱い。速度も驚くくらいに遅い。心に体の速さがついてこない。
それでも石垣は懸命に歩を進めた。
そして辿り着いた先。少し大会の喧騒から離れて薄暗い救護室のベッドの上。そこにはぐったりと長い手足を投げ出して眠る男がいた。
一通りケアは終わったのだろう。男の側には他に誰もいない。音もなく静かに、孤独なままに男はただ一人、眠っていた。
いつも自信満々に歪められる口はだらしなくぱっかりと開いたままで、異常なスピードを出す両脚にも全く力が入らないと言わんばかりにだらんと垂れ下がっている。
そしていつも頂点だけを力強く指し示す両の腕も全くその面影すら見せず、ぶらりと投げ出されていた。

「御堂筋」

石垣は足を引きずりながら御堂筋の側へと歩を進めると、軋む体を叱咤しながら床に膝をつく。
そして、鉛のように重い腕を伸ばしてぐったりとしている御堂筋の肩を軽く揺すった。

「大丈夫か、御堂筋」

しかし返事はない。
御堂筋はひゅうひゅうと呼吸を繰り返すだけだ。
無理もないなと石垣は思う。御堂筋はこの三日間、全力でペダルを回していた。各校の各区間のエースを一人で蹴散らし、無駄な挑発を繰り返していた。
また、昨日は箱根学園の福富と、総北の金城に負けて恐らく人生で一番といってもいいだろう挫折も経験している。
体力も、精神もぎりぎりまで削って疲弊しているに違いない。
きっと、しばらく目を覚ますこともないだろう。石垣は安堵からだろうか、自分の体が何倍にも重くなった錯覚を覚えながら息を吐くと床にへたり込んだ。そしてベッドの上に頭を乗せる。

「残念やったなあ」

そう、つぶやいた言葉は酷く空虚に響く。そして誰にも届かずに、落ちた。
ほんま、残念や。そう石垣は動かすのも億劫な口の中で呟く。
体の中で弱く、響くその音。それに石垣の体の中のどこかがぎゅうと締まるのを自覚する。
床に落ちていた腕をのろのろと動かし、胸のあたりに持ってくる。そうだ、恐らくここが、痛いのだ。
残念だったな、と石垣は御堂筋に言ったつもりだった。勝つことだけに意味を見出している男に、他の全てを投げ打っても勝つことだけしか考えない男に対して勝てなくて残念だったなと慰めのつもりで言葉を口にした。
しかし、石垣は自覚する。御堂筋が優勝を取れなかったことを、もっと言えば彼が一番を取ることができなかったとことを残念だと思っているのは御堂筋だけではないのだ。誰よりも残念に思っているのは他でもない、自分だった。
自分の愛する学校のユニフォームを、自分の夢を、誰よりも早くゴールへと届けてくれるのだと石垣は誰よりも信じ、そして期待をしていたのだった。

御堂筋という男は、石垣にとって光だった。
より正確に言うとすれば御堂筋が自分にとって光だということに石垣は昨日、やっと気が付いた。
周りからすればあほや、と笑われるんやろう。そう石垣は思う。
笑われるくらいならばいい。きっと呆れられるだろう。もっと言えば怒る人だっているかもしれない。
この連綿と続いてきた京都伏見という学校の自転車部を殺伐とした空気に塗り替え、軍隊のような部活に変えてしまった御堂筋という男を光だと思っているだなんて。
光どころか闇だと、そう思っている部員だっているかもしれない。
かくいう石垣もそんな一人だった。初めは御堂筋の言動に指示にいらいらとしたり、その感情を抑えるために拳を握ることもしばしばだった。最後まで頑なに御堂筋の命令に背き、彼のことを呼び捨てにもしていた。
それでも、インターハイが始まり、自分たちが夢の夢だと思っていた優勝や、カラーゼッケンを言葉の通り次々と獲得していく姿に石垣は次第に感動と憧れを抱いた。
寧ろその感情が彼に対するマイナスの感情に勝ったといってもいいだろう。
どこまでも、この男と走っていたいと思った。いろいろな思いが詰まった大切なジャージを着て。すべてを捨てきった御堂筋の側で、たとえ彼の操る駒の一つとしか思ってもらえないのだとしてもそれでよかった。どこまでもどこまでもどこまでも。彼のアシストとして、どこまでも。

(やけど)

その願いももう、叶わない。
インターハイは終わってしまった。そして自分は部活を引退する。いくら悔やんでも時はもう戻らない。
あの苦しくて苦しくて辛くて辛くて、意識を失いそうな、それでも勝利に精神を純化させたとても美しかった時間にも戻ることはできないし、それを石垣に齎してくれた御堂筋とともに走ることもできない。
同じもののために走る時間はもう来ない。彼の手足として走る「石垣光太郎」という駒は、もう御堂筋の手の中から落ちてしまっている。どんなに願っても、望んでも、落ちてしまったものを御堂筋は拾いはしない。
石垣の中に芽吹いた強い勝利への渇望も、御堂筋に対する希望も、信頼も捨て置かれたまま、置き去りにして彼は走り去ってしまうのだ。

(きっと、御堂筋お前は)

お前は忘れてしまうんやろう。こんなにも弱い自分のことなんて。
御堂筋は何もかもを捨てきった男だった。車体にも身に着けるものにも無駄なものは一つとしてない。全てをそぎ落としてしまう。
感情も、恐怖も、自分の体すらも彼はぎりぎりまで削り、無駄なものを一つとして持つことはない。
勝利。それに必要ないものをすべて彼は捨ててしまう。削ってしまう、そしてきっと忘れてしまう。
それはきっと、石垣光太郎という人物だって例外ではない。
以前に、自分が御堂筋翔という人間の中に何かを残せてすらいないのだろう。
御堂筋の中にはきっと、連帯感も仲間意識も、友情も友愛もそんな感情は存在しない。もっと言えば理解すらできないだろう。石垣の事も恐らくなんの意味も彼の中でなしていないのだ。
それでも、と石垣は思う。
それでも、いつか壁にぶつかって立ち止まりそうになった時、お前のことを光だとそう思っていた人がたった一人、ここにいたということ。それが彼が生きていく中で何か意味をなしてくれればいい。
お前が歩く同じ道を行くことはできないけれど。少しでも背中を押してくれる何かがお前の中に残ってくれればいい。
全てを削り取って削り取った先に、たった一粒でいい。それだけでいいから。

(なんて、おまえにゆうたらキモいいわれるんやろうけどな)

ただ忘れられたくないだけだと言われたらそれまでだろう。それでも、石垣は願わずにはいられない。
誰よりも強くて、誰よりも早い御堂筋が誰よりも一人で誰よりも悲しい人間だと、知っているからこそ。

石垣はのろのろと手を伸ばすとベッドからはみ出し、ぶらりと下がっている御堂筋の手を取り、両手で強く握る。
大きいくせに儚くて、折れそうな御堂筋の指。
それをしっかりと握りながら石垣はそこに額をつけた。











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