失ってから大切なことに気付くだなんて人間はうまく言ったものだ





メランコリーキッチン






静かな和室。そこに唐突にがしゃん、と鋭い音が響いた。

次に、目に入ってきたのは所謂「惨状」と言っていい状態だった。
先程まで大倶利伽羅の前には二つの膳があった。
主の趣向だろう、綺麗な装飾が施された小鉢。美しく塗られた漆の椀。そしてそこに綺麗に盛り付けられた食材。
だが今や、そのうちの一つの膳はさっきの音と共にひっくり返されてしまった。
綺麗な細工の小鉢も、椀も、その上に載っていたはずの食材も全てが畳の上に散乱していた。それ故、大倶利伽羅の手に持った箸は行き場を失い、虚空にある。

一瞬にして残骸と化したそれらに呆然とする。そうだ、一瞬前までそれらは食べられるものとして自分の目の前にあった。そして自分は確かにそれに一口手を付けた。咀嚼して飲み込んだ。確かにそうした。それなのにそれが今や。
いったい何が起こったのか。
そして誰が。
しかしそんなことは考えるまでもないことだと思いなおす。それはこの部屋にいるのは自分ともう一人、その二人だけなのだ。そしてそのもう一人は自分の前に残っている膳の前に座るべき人物で、そして何を隠そう、この膳を用意した人物だ。
そこまで考えたところでゆらり、と畳の上に影が揺れるのが視界の端に映った。
それに釣られるようにして大倶利伽羅はゆっくりと視線を持ち上げた。

「光忠」

その人影に向かって大倶利伽羅は彼が有する名前を、呼ぶ。
すれば視線の先に立っていた青年は苦々しく表情を歪めた。
少し灰色がかった黒い髪。主と同じく片目を隠した眼帯。
しかし、いつも優しく笑みを湛える口元を、今日は真一文字に引き結んでいる。
どうやら怒っているようだった。
否、怒っているようだというのは可笑しい。恐らく怒っている。
この膳をひっくり返したのは他でもないこの男だ。
しかも、長い脚を使って、膳を蹴りあげるような形で。

早く、拾わなくてはと頭の隅で大倶利伽羅は思考する。
そうしなければこの畳には染みが残ってしまうだろう。
しかし、大倶利伽羅は動くことができなかった。
それくらいに光忠―燭台切光忠の視線は真っ直ぐで、大倶利伽羅に深く突き刺さっていたからだった。
だが、恐らくそれすらもいいわけだ。
二人しかいないのだ、そして先程まで彼の機嫌は悪くはなかった。さすればその原因は間違いなく自分にある。
もっと言えば、自分にしかない。それ以外に理由など。
そして、幸か不幸かその理由に大倶利伽羅は心当たりがあったのだ。


―お前の作る膳は、少し変わった味がする。


いただきます、そう手を合わせた後。
大倶利伽羅は、彼が用意した膳に一口手を付けたときそういった。 その次の瞬間だった。彼の表情から笑顔が抜け落ちたのは。

「ねえ、」

固い声が、狭い室内に嫌に響いた。
しかし、大倶利伽羅は動くことも言葉を発することもできない。
光忠はそんな大倶利伽羅の様子を気に留めた風もなく、大倶利伽羅の方へと歩を進めた。
裸足の足が、畳に擦れ、そして衣擦れの音が響く。
彼は二歩進み、大倶利伽羅の前まで来ると、さっきまで大倶利伽羅の膳があった場所にしゃがんだ。
そして大倶利伽羅から視線を外すことなく、彼は続けた。

「君は僕のことを馬鹿にしていたのかい」
「……」
「確かに徳川から見れば確かに僕は最終的に徳川に屈服した家を渡ってきた刀だけど」
「……」
「僕は折角、同じ政宗公の元に流れ着いた刀同士仲良くしようと思ったのに」
「……」



―カッコ悪いじゃないか。



そういうと、燭台切光忠は泣きそうな表情で、笑った。


++++


「別に特別な事じゃないよ」

彼はそう、笑った。
それがいつの時節であったのかもう既に思い出せない。
夏だったかもしれないし、春だったかもしれない。
それでも確かなのは彼は初めて自分と会った時に、優しく笑ったというその事実だった。
自分は縁側の柱に背を預けて板張りの廊下に足を投げ出しており、彼は縁側に座り庭に足を下ろしていた。
世界には光が溢れていた。
彼は続ける。

「僕だっていろんなところを渡ってきた。尾張の織田、大阪の豊臣、そして今の主の奥州伊達政宗公」
「……」
「確かに、この天下泰平の世を切り開いた自負があるだろうから、手放されたことを不満に思う気持ちは分かるけど、君は政宗公の佩刀だよ。何処かに仕舞われて何もできないより断然いいじゃないか」
「……」
「僕みたいに秘蔵っ子としてしまわれてみなよ。きっと面白くない。その点、君は政宗公に連れまわしてもらえるし、必要なときには刀としての働きだってできる。徳川の家で使ってもらえないより、絶対に有意義だ」

カッコよくきめられるよ。そう、彼は笑った。

「慰めているのか」
「慰めているつもりだよ」

だって、君全然笑わないんだもの。

「僕は君に笑って欲しいんだよ。だって仲間じゃないか」
「……」
「仲間、だろう?」

ね。そう光忠は笑った。


+++


目の前には一つの膳がある。

他に屋敷には誰もいなかった。それもその筈だ、家人を含め、今日屋敷の者は出払っている。
大倶利伽羅はそのがらんどうな屋敷の中で、ひとり、食事を前にしていた。
普段であれば主が出かける際、つれていかれるのは大倶利伽羅だった。
そしてそんな大倶利伽羅を見送る男が一人。優しく微笑み、行ってらっしゃいと笑う男が、ひとり。
しかし、今日は違ったのだった。
『光忠、いくぞ』
主はそう、光忠に声をかけた。
徳川に行く、だからついてこいと、そう言ったのだ。
そんな彼を、大倶利伽羅は見送った。
特に言葉を掛けなかった。昨日の彼の言葉に返す言葉を大倶利伽羅は見つけていなかったからだ。
そして光忠も何も言わなかった。いつも通り、優しく微笑んで主の言葉に『わかりました』と返しただけだ。

その為、今日自分の前にある食事は久し振りに自分で作ったものだった。
膳の上に並ぶのは食べなれた三河の味である。
嘗ての主が愛し、自分が口にし、血と骨と肉となったもの。

しかし、食べなれた筈の味なのに、何故かどこかもの足りなく感じてしまう自分に、気付く。

『これは天下の大うつけの織田信長がね』
『これは豊臣秀吉公が』
『京都の味付けって、また違っていて』

彼の作る食事は様々な味がした。
自分の知らない味付け。食材の使い方。
時々口に合わないものもあったがしかしそれらはいつも新しく、自分の味覚を楽しませてくれていた。
箸を進めるたびに、新鮮な驚きに満たされたものだった。
しかしそれが今日はない。美味しいと思う。だがそれだけだ。それ以上でもなければそれ以下でもない。

そこまで考えたところでふと、大倶利伽羅は思う。
彼の作る膳は旨い。だが果たして己は彼にそのことを伝えただろうか。

(一度も、ない)

美味いとも、不味いとも。
自分は一度として彼に感想らしい感想を述べたことがなかった。
それを自分が口下手だからだと言い訳をするのはたやすい。
しかし、それではいけなかったのだ。
だから彼は。

初めて言われた言葉が。
あれでは流石に自分だって気分を害すだろう。
新入りで、言葉が少ない自分に対して少しでも楽しんでもらおうと彼が趣向を凝らした料理に、「不思議な味がする」だなんて口にしたら。

「光忠」

今頃彼は相変わらず口を真一文字に引き結んで主人のそばに控えているのだろうか。
または、そんな素振りを見せずにいつも通り優しく笑っているのだろうか。
どっちでもいい。ただいま言えることは。

(帰ってきたら一番に昨日のことを謝らなくてはいけないな)

そして言わなくてはいけない。
お前の料理はいろいろな風土を感じさせてくれてとても美味いと。
時々口に合わないこともあるが、それでもいつも新しく、楽しいと。
三河の国しか知らない自分に広い世界を見せてくれるのだと。



しかし。



季節は巡る。
夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春がくる。
庭には花が咲き、草木が生い茂り、葉が舞い、雪が降る。
それでも、彼は。




+++




「ああ、起きたのかい」

目を開けて、体を起こすとそんな声が降ってきた。
世界は光に満ちていた。
座敷から見える空の色は青く、木々は青々と茂っている。
戦国の世を経て、震災に襲われ、戦争に巻き込まれて、どこかの段階で箱に仕舞われて―久しく太陽を見た記憶のない大倶利伽羅はその眩しさに、そしてその光を背負い立つ男の姿に目を眇めた。
彼は続ける。

「全く、こんな形で君と再会するとは思っていなかったよ。しかもこんな時代を経た先でね」
「……」

状況が呑み込めず、黙り込む大倶利伽羅に彼―燭台切光忠は、かつて自分の前から消えた時と全く変わらぬ姿でそこにいた。
髪型も眼帯も装束も。全てがあの時のままだった。
まるで、あの長い時間が嘘だったかのように。
しかし、大倶利伽羅の喉からは、何も言葉が出てこなかった。
伝えたい言葉があったはずだ。伝えないといけないことも。
すれば、そんな大倶利伽羅の様子を見ながら、光忠は優しく目を細めた。
そして何かを思いついたのか、ぽんと、一つ手をうった。

「ああ、そうだ大倶利伽羅に報告しなくてはいけないことがあったんだった」
「…なんだ」
「僕、あの後徳川の家に行ってね、三河と江戸の食事も極めたんだけど」


これなら君は美味しいって笑ってくれるのかな。


そう、彼は。
あの時と全く変わらない笑顔で。






「だから、食事にしよう、ね?」










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