それは例えば、眺めのいいレストランでワインを傾けているとき。
それは例えば、自分の部屋に置いて行った日本酒を舐めているとき。
それは例えば、蛇口の栓を開ける瞬間でさえ。

硬質な音が、響いた瞬間、バーナビーはいつも我に返る。
自分の部屋で、彼が無防備な格好で、無防備な顔でグラスを傾けている瞬間だったとしても、もっと言えば甘い時間を二人で過ごした後に彼がガラスのコップに水分を求めて手を伸ばした瞬間だったとしても。





ああ神様、






今、彼は、彼の部屋のソファの上でくだらないバラエティ番組を眺めている。その手にはいつも通り、安い酒と丸い氷が浮かんだグラスが収まっている。
時々、彼はそれをくるりと、まわし、水の固形物を珪素の塊にぶつけ、涼やかな音を立てていた。
バーナビーはそんな男の左側に座り、高価なワインを傾けていた。
バーナビーはあまりバラエティ番組に興味がなく、自分の持ちこんだロゼのワインを一本飲みきると、楽しそうにテレビを眺めている男を尻目に、部屋を見渡した。
虎徹の部屋に自分が来ることはあまりない。曰く、自分の家は汚いから、そしてバーナビーが好む酒肴の類が全くストックされていないからというのが理由だそうだが、単に彼は自分の部屋に人を入れたくないのではないか、とバーナビーは思っている。
虎徹の部屋には、ヒーローとしての痕跡よりも、ただの一市民、それも家族を愛する一市民としての痕跡しかないからだった。
照れくさいからと人にプライベートに関して踏み込まれるのを嫌う彼は、そんな自分を垣間見られるのが嫌なのだろうと思う。
それも、とてつもなく、家族を愛しているから。
つい、視線が、左の薬指に向いた。
そこには彼が一生をかけて愛すると決めた人がいる。彼は何があったとしてもそれを外さなかった。戦闘に向かうときも、仕事の時も、もっと言えば料理を作るときも、風呂に入る時でさえも。
彼の生活に、もうそれは体の一部だといわんばかりに、染み込んでいる。
否、生活の一部どころか人生の核というべきものなのだろうが。

「なんだよバニー、そんなに俺が男前か」

声に、はっとして顔を上げると、にやにやと虎徹が笑っていた。
酒の入った、少し虚ろな目と笑みに、バーナビーは眉根を寄せる。
動揺を悟られないように、と思ってとった処置だったがうまくいっている自身は露程もなかった。虎徹は鈍い男だったが、時々ひどく鋭い。

「誰が男前ですって?僕を前にしてよくもそんなことが言えますね、自意識過剰ですよ」
「へーへー、お前こそいい性格してるぜ」

酒の入った少し虚ろな表情で、さっきまで琥珀をたたえていたグラスを置き、一升瓶を虎徹は取り上げた。
その瞬間、硬質な音が響く。
指輪が、硝子にぶつかる音だった。
その瞬間、ちくりと胸が痛んだ。

「バニー、どっかいてえのか」
「は?」
「そんな顔してるからよ、晩飯なんかあたったか?」
「別に、どこも痛くないですけど」
「じゃあ熱でもあんのか?」
「頭も痛くありませんが」
「ほんとかよ」

左手が、バーナビーの頬を滑った。
暖かい、その手に、少し目を細める。
ああ、願わくばこの手を突っぱねてしまえれば、時々バーナビーはそう思う。
この手を振り払って、もう辞めましょう、そういってしまえばいい。そうしたら自分はきっと楽になれる、
まして、彼の部屋にはまだ色濃く、彼の愛した女性の影が残っていたし、その忘れ形見の娘の話題で満ちている。
写真は数えきれないほどにあるし、それを彼は隠そうともしない。
娘を愛していることも、そして、左手の薬指に光る指輪の存在も。
寧ろそれは誇るものとして。
彼がヒーローであり続ける理由も、一度、虎徹が前後不覚になるくらいに酔っぱらった時に話してもらった。
そうだ、とバーナビーは思う。彼女たちを自分は疎んでいるわけではない。彼女たちの存在を超えたいと思っているわけでもない。むしろ彼女たちを何よりも愛し、そのために戦う、そういうところをひっくるめて彼だったし、そうでなければ彼ではないと思っている。自分はそういうところをひっくるめて彼に惹かれている。
わかっている。だがしかし。

「バニー?」

硬質な、音。触れる、無機質な触感。温度は彼の体温に慣れているとはいえ、少し違う温度を、そして触感を届けるそれ。
それを気にしてしまう自分を、その弱さを、バーナビーは疎んでいた。
数えきれない程の、尊いものをくれた人を、その全てを手に入れたいと望む自分の汚い感情と、その心も全て欲しいと思ってしまう暗い願望を。
それでいて、こんな自分の醜さも、この人に惹かれなければ知ることもなかったのにと恨んでしまう自分にも言いようのない嫌気が刺す。
まるで子供だった。

しかし、どう足掻いたところで、嫌悪をしたところでそれを手放せないことにも、バーナビーはひどく自覚的だった。
寧ろ手放したところで、この思いから解放されるとは思わなかった。手を放したところで彼への思いは残るだろう。それではきっと手を放しても離さなくても同じことだ。

それならいっそ。

「どうしたバニー。やっぱり元気ねえぞ」
「別に、そんなことないですよ」
「酔っぱらってんのか?」
「酔っぱらってるのは虎徹さんでしょ、僕は酔っぱらっていません」
「じゃあ疲れてるのか」
「そんなこと…」

「ほら、こっちこい」

そういうと、有無を言わさず、彼はバーナビーの腕を強引に引っ張り、自分のほうへと引き寄せた。
そのまま、彼の胸に顔を押し付けるような体制になり、二人折り重なったままソファの上に倒れこむ。
逃れようと咄嗟にバーナビーは体を捩るが、彼はそれを許さず、しっかりとバーナビーを抱き寄せたまま離さない。

「狭いです」
「文句言うな」
「おまけに酒臭い」
「お前ってほんっとに、かわいくねえな」

お前らしいけど。

虎鉄は、左腕で、バーナビーの頭を抱えなおすと、右手でゆっくりと髪を撫で始めた。
子供をあやすような仕草に一瞬むっとしたが、噎せ返るような彼の香水の匂いと、酒の匂い、そして右手の感触に安堵を覚え、バーナビーは目を閉じた。
規則的な心臓の鼓動、呼吸音、そして自分を包む暖かい体温に、ああ、なぜ自分はこれで満足できないのかと、ぼんやりと考える。

(いっそすべてを、忘れてしまえれば)

あの人に依存したことも。優しさも、体温も。
また、あの暗闇に戻ってしまう、そうだったとしても。
こんな、感情の渦から逃れられないことが、今、何よりも苦痛だった。

(忘れてしまいたい、すべてすべてすべて)

願わくば、目が覚めたとき、すべてが記憶機構から抹消されていればいい。
彼の腕の中でそんな物騒なことを願う自分に自嘲し、バーナビーはゆっくりと目を閉じる。

「お休み、バニー」

優しい声を、夢への足掛かりにして。




この願いを叶えてください















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