ただ、走り続ける。
振り返らずに、一心不乱にただ。






理想郷はもう見えない






部室の窓からは白々とした月光が入り込んでおり、床に淡い光を映している。
ゆらゆらと不安定に揺れる白い光を日向は眺めていた。
背を預けている金属製のロッカーは冷たかったし、腰を下ろしているコンクリートの床もひんやりと冷たい。
さっさと帰ればいいのだろうが、日向の動きは今制限されていた。
それは、日向よりも遥かに背が高い一人に男の行動によって。

床には、部誌と筆記用具が散乱していた。
それはさっきほど、木吉に強引に椅子から引きずり立たされたときに床に落ちたものだった。
部誌は裏返り、不自然に落下したため、一部のページが大きく折れてしまっていた。
ああ、几帳面な監督に怒られる、そう場違いに冷静な思考を巡らせながら日向はため息を吐く。
指を口の端に滑らせれば、そこには傷を認めることができた。
それは今、日向の肩口に顔をうずめ、じっと動かない男が噛み付くように唇を塞いだときに、歯がぶつかった、その時についたものだろう。
口角を動かしたときにひきつったような痛みを喚起するそれを舌先でなぞった。

木吉は全く先ほどから動かない。
言葉も発しなければ微動だにしない。
しかし、その実日向の背中に回した腕の強さは微塵として揺るがない。
大きな手の熱が、いつもに比べていくらか低いように感じるくらいだろうか。
日向はただ、ゆっくりと後頭部を後ろに倒し、ロッカーに完全に背中を預けると、両腕も床に無造作に落とした。

時々、木吉は前触れなくこのような行動に及ぶことがあった。
否、前触れなくというのは少し違うのかもしれない、時々木吉は思いつめたような横顔を見せることがある。
それは他の誰にも気づかないような些細な変化ではあった。それでも日向は気付いてしまう。
そういう時、大抵木吉は不安に取りつかれている。
病院に入院していた間も度々そういう表情を見せることはあったが、しかしその影の色が帰ってきてからの方が明らかに濃いことにも日向は気付いてしまっていた。
そしてそれを他のチームメイトに見せないように振るまっていることにも。
へらへらと平和そうな顔をしているが、きっとそんなの内面を取り繕うための演技なのだということを日向は知っていた。

日向は木吉の左足に視線をやった。
カントクが、念入りに毎日テーピングを施す左足。ゴール下でシュートを奪い、そして相手からのシュートを防ぐために彼を高く飛ばす左足。
強靭で、頼りになるそれはしかし確実に無慈悲に残りの時間をカウントしている。
もうすぐ木吉はバスケットを奪われる。
神がいるとしたらなんて残酷なことをするのだろう、と日向は思っていた。
木吉は強かだ。そして強い。だが、そうはいっても一人の高校生であることに変わりがない。
そして日向には負けるがバスケをだれよりも愛し、誰よりも誠凛を愛する一人のバスケバカだ。
そんな人からバスケットを奪い去るなんて誰が許すのだ。そんな運命を決めた人物がいるのだとしたらぶっ殺してやるのに。
なにより木吉は日向にバスケットを取り戻し、バスケットをする楽しさを勝利を、全て教えてくれた人なのに。

『日向、怖い』

一度だけ、木吉は日向に自分の気持ちを吐き出したことがあった。
いつも笑顔で、優しく微笑む木吉が、歪な表情を浮かべ、困ったように困惑したように迷子のような表情で一度だけ日向に感情を吐き出した。
それもそうだと、日向はその言葉をどこか冷静に受け止めていた。
彼にはバスケしかなかった、それくらい彼にとってバスケットは全てだと、日向は嫌というほどに知っている。
絶望して、辞めたくなってもそれでも手放せなかったもの。
絶望的な怪我を負ってしまった、それでも戻ってくるために努力をし続けた。
それでも、この先にその道は残されていない。あとは奪い去られる、それだけで。

『俺、バスケがない場所で、呼吸できる自信がないよ』

木吉がバスケをできなくなってしまう、それが怖いのは日向も同じだった。
しかし言葉にすることはしなかった。
そうすればきっと、もう戻ることができなくなってしまうことを日向は知っていた。
ずるずると、木吉に引きずられてこの場所に戻ることができなくなってしまうことを日向は自覚していた。
本当は一緒に泣いてやりたかった。
日向だって木吉がいないコートで呼吸ができる自信はない。
怖いと思う。彼がいない場所を思い描くことすらも。
いっそのこと一緒にバスケットを奪われてしまえればと思ってしまうほどには木吉がいないコートを日向は恐れていた。
それでも、来年も自分はキャプテンとしてこのバスケ部を率いていく。
おそらく、最強となるであろうバスケ部を。
それでも、日向に今その景色は見えていないのも事実だった。
木吉がそこにはいない、そこにはいない。
そんなコートを日向は想像できない。
木吉が帰ってこないコートを、日向は。

(俺だって、怖えよ、ダアホ)

だが自分は。

日向は手を伸ばし、木吉の背中に手をまわした。
いつも自分やチームを守ってくれる大きな背中を、強く抱きしめる。
来年、なくなってしまう背中を、強く強く抱きしめる。
本当は彼に縋って泣きたいのは自分だ。
しかし、彼に引きずられてはいけないと自分に言い聞かせる。
強く、強く。


「木吉、立ち止まるな。お前がいないと、頂点まで駆け上がれねえよ」


その先に、何もなくても。
ただ、今は。




一寸先すら闇で覆われていたとしても、
ただ、共に手を取って。











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