きっと、見失わない。
いや、見失ったりしない。
絶対に。





てのひらの向こうにある光






放課後の教室で高尾は伸びをした。
定期考査を控えた教室には他には誰もいなかった。
他の部活も定期考査前は部活が停止するため本来言えばそのようなことは皆無なのだろうがそれでもクラスには誰も人がいない。
というのも秀徳はそれなりにスポーツで有名な強豪であると同時に進学校であるのにも拘らず、伝統校なだけあって校舎の設備はあまり充実していない。
教室なんてそれの最たるものでクーラーもついていないのだ。優に30℃を超す都心の夏の教室で勉強するなど正気の沙汰ではない。
しかし、高尾は教室で勉強をしようと緑間を引き留めた。緑間は涼しい顔でそれでも眉間に皺を寄せて高尾を見やった。
うっすらと首筋に汗が浮いているのに高尾はもちろん気づいていた。しかしそれを見ないふりをした。

いつもは前後で並ぶ机を向かいあわせにくっつけて、二人は今向き合っていた。机の上には同じ教科書と同じ参考書。そして出版社の違う辞書が二つ。明日の英語のテストのために緑間は鉛筆をすらすらと滑らせている。
白い紙に綴られていく神経質な炭素の羅列に、僅かに揺れる緑間の緑の髪が大きな窓から差し込む太陽に薄く金色のふちどりをされる様に、高尾は目を細める。
そして肌にしみるほどの沈黙と、微かに聞こえる蝉の声、そして二人分の呼吸の音。

「たまには部活がない日ってのもいいな」

高尾の呟きは見事に黙殺される。
緑間はいったん集中すれば他のことなど意識に入ってこない。
寧ろ視線すらあげず、緑間は目の前のアルファベットの羅列に意識を集中させていた。
それでも高尾はそれで構わなかった。寧ろその反応を望んで、今日、緑間を教室に呼び止めたのだ。

「真ちゃんと二人っきりって、安心するわ」

高尾は目を閉じる。
規則的に聞こえる緑間の呼吸の音と、鉛筆の走る音。滑らかに筆記体で綴られていく単語。
それにだんだんと神経が弛緩していく。張りつめていた神経がゆるゆるとゆるんでいく。
向けられない視線、感じない視線。誰も高尾を見ていない。緑間のことも見ていない。
部活ではこうはいかない。部活は好きだ。それでも煩わしさが皆無なわけでもないのも事実だった。

高尾の特技は誰とでも円滑な人間関係を築くことができることだ。
自他ともに認める社交家な高尾は基本的に誰とでもそれなりの交友関係を築くことができる。
それが例え偏屈な天才であっても、努力家の先輩であっても例外はなかった。
それは高尾が今までの人生で積み上げてきた処世術以外の何物でもない。
誰にも嫌われず、しかし誰かに決定的に入れ込むこともない。
しかしながら勿論、チームメイトから一定の評価と信頼を得ることは忘れなかったし、その努力も惜しまなかった。
故に、高尾は衝突や諍いというものとは無縁の生活を送ってきていた、そう今までは。

全てが狂ったのは高校に入ってからだ。
勿論、そうはいっても持ち前の明るさと人当たりの良さで高尾は先輩とも、同学年ともうまくやっているつもりだった。
基本的にはチームメイトと友好的な関係を築けていると高尾は思っている。
だが、しかし同時に必ずしも好意だけを向けられているわけではないことを嫌という程に自覚していた。
それはそうだ、高尾は強豪のバスケ部に入部してその上一年でレギュラーの座をもらっている。
秀徳は強豪といわれるだけあって、入部してくるメンバーは中学バスケ部でそれなりの実績を残してきた選手だった。
みんなそれなりにプライドも高ければ、自分の実力に自負を持っている。
その上そこに、緑間真太郎が入ってきた。
キセキの世代を知らないもぐりなんてもちろんいない、そして圧倒的な実力差を見せつけられれば彼を認めざるを得ない、好悪の感情に関わらず。
そんな緑間に比べれば高尾は圧倒的に凡人だった。もし緑間がいなければ、高尾がある程度の実力を持っていることは分かってもらえたかもしれない。
しかし、あの完璧なシュートに比べてしまえば高尾の実力など霞んでしまう。
その結果、高尾は他より少し優秀なプレイヤーとしてしか認識されなかった。
すれば、次に囁かれる言葉は自ずと決まってくる。
『あいつは先輩に気に入られているから』
『あいつだけが緑間と仲良くできるから』
時に態度で、時に言葉としてその根の葉もない誹謗中傷は高尾の耳に届いた。
否、気が付いてしまうのだ。試合中に発揮される自分の視野の広さは、自分を周囲を俯瞰で見てしまう自分にはそのわずかな視線や態度が嫌というほどはっきりと届いてしまう。
穏やかな談笑中に見える微かな表情の引きつりや、練習試合やましてや試合中に見せる剣呑な目の色に。
そしてそんな視線にさらされることは少なからず高尾を憂鬱な気分にさせるのだった。

もし、自分が鈍感だったらと高尾は思う。
もし自分が周囲の感情に対して鈍感であれればただ笑って過ごせるのだろうに。
もっといえば。
緑間の傍に居なければ。
自分もああやって遠巻きに彼を冷ややかな目で見つめている側に居られればどれだけ楽だったか。
傍若無人で、周りなんか顧みない、嫌味な天才だと。

高尾は自分の思考を追い出すように首を緩く降った。
そして机に片肘をつき、目の前で黙々と勉強を続ける男を眺める。
緑間は高尾の視線に全く気付かない。
羨望と敬意と嫌悪と嫉妬と。そういういろいろな感情が交じり合った高尾の視線に全く気付かない。
勿論、緑間はチームメイトからの視線にすら気づいていなかった。
否、違う。気付いているのかもしれなかった、それでも気づいている素振りも、もっと言えば気にしているようにも見えない。
高尾に比べて圧倒的に冷ややかな視線を、遠巻きに向けられても。批判的な言葉を影で囁かれていても。
それすらも羨ましく、そして妬ましく思ってしまう。それが天才だからという言葉で片付けられてしまうなら、自分は天才にはなれないなと思うくらいには。

「ねー真ちゃん」

高尾が声をかけると、緑間は一瞬だけ顔をあげ高尾をみた。
まっすぐな目は透き通っていて、そしてなにかを見透かすようにそこにある。
ああ、きっとこの目に今自分の弱さが写し出されている、そう高尾は思った。
だがそれでもいいと思ってしまうのは緑間がそんな自分の弱さをだれにも公言しないだろうことを知っていたからだった。
その瞬間、悟る。
緑間は周囲からの視線の意味に気づいている。もっと言えば自分のごちゃ混ぜの感情の意味を知っている。
それでも、彼は佇むのだ。強い意思をもって。
高尾は、喘ぐように言葉を続けた。

「真ちゃん嫌にならないの」
「何がだ」
「煙たがられたり、そういうの嫌じゃないの」
「興味がない」

「光だけ見ているからな」

からん。
鉛筆が落ちた音がした、そう思った瞬間、高尾の視界は真っ暗におおわれていた。
瞼に触れる肌でない布の感触に、ああ、目をふさがれたのだと高尾はぼんやりと思考する。
何も見えなかった。
彼の手のひらも、手のひらの向こうで彼がどんな表情を浮かべているのかすらも。
しかし、そのような中でも唯一見えたのは、彼の指を縁取り、中の血脈の赤さを見せる、光。
揺るぎない、絶対的な。

「高尾」

優しく、低く、鼓膜に声が届く。

「モグラでも光は見えるのだよ」

逆に言えば、それ以外はどうでもいい。
光だけを見ていれば迷わずに済む。

と、手が、外された。
いきなり明度をあげた世界に目の筋肉が光の量を調節できず、思わず高尾は目を細める。
その先で陽光の中、彼はゆるく微笑んだ。
それは揶揄するように。

「見えすぎるというのは、時に難儀なのだな」

目が悪くて、よかったかも知らん。

そういうと緑間は再び問題集へと意識を戻していった。
何もなかったかのように静謐な時間が戻ってくる。
しかし高尾は自分の中を流れる血流と感情の波をやり過ごすのに必死だった。
早鐘を打つ心臓と、体の隅々まで染み渡る感情の波。
ぎゅうと強く目を閉じた先、戻ってきた世界に高尾は安堵しつつ、椅子の背に背中を預けた。
そして笑うようにゆっくりと息を吐き出す。

「真ちゃんくっさ」
「いってろ」
「ほんと真顔でそういうこと言えるんだもんなあ、ある意味尊敬するって」

緑間は姿勢を崩さず、再び白い紙に文字を並べていく。
視線が自分の方に向いていないのを確認し、高尾は口の端に笑みを浮かべた。
彼は優しい。
みんなが毛嫌いしても、遠巻きに見つめていても、それを毅然と受け流している彼のまっすぐな姿勢に、そして優しさに。
高尾は自分の悩みや、下らない嫉妬が溶け出していくのを感じていた。
これからも周囲の視線に辟易し、彼に嫉妬するときは間違いなくあるのだろうけれど、

(やっぱり、俺は真ちゃんの隣に立っていたいんだよね)

圧倒的な力量差を見せつけられても。
それが圧倒的な孤独を伴うものだったとしても。
それでも隣に立って、同じ景色を見ていたい。
同じ光を追い求めていたいと思うくらいには。

「真ちゃん」
「なんだ」
「がんばろうな」
「当たり前なのだよ」

指を縁取った彼を惹きつけてやまない光が、網膜から離れない。











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