夏の日差しの中、緑間はアイスを片手に立ち尽くしていた。
暴力的な太陽が視界を白く塗りつぶしているような夏の日だった。
多分、珍しく午前中の練習で終わったそんな日だったのだろう。
そんな日は夏休みの午後を何か有意義に使おうと立ち寄ったコンビニエンスストアでアイスを買ったのだ、正確に言えばそれ以外に時間の使い方を知らないくらいにはバスケしかしていなかった。

焼けたアスファルトに、指先、手のひら、腕、肘を伝った青い色の液体が落ち、黒い染みを作る。しかし、数秒先にはそれは消えている。
次々と地面に落ちては吸い込まれていく液体に緑間は無性にさみしさを感じていた。
暑い、暑い日なのにも拘らず、体の奥は冷えているような感覚。
緑間は神経質なまでに綺麗にテーピングをしてある左手で、滴り続ける水滴を受け止め、口に運んだ。
固体であった時にはおいしいと感じたそれは、液体になった瞬間にその魅力を半減させている、寧ろすべてが奪われているといってもいい。
ただ甘いだけの、それに緑間は酷く落胆していた。
そして知っている、これらを結局すべて受け止めて再凝固したものは元のものとは全く違うものになってしまうということを。
一度溶けだしてしまえばもう戻らないのだ、絶対に。
ぽたりぽたり。
左手も右手もべとべとになって、際限なく水滴は足元に落ちていく。
右手に持っているアイスももう、緑間の食欲を回復できないくらいに原形をとどめてはいなかった。

気が付けば一緒にいたはずのレギュラーの姿も見えない。
消えてしまったのだろうか、彼らも。地面に落ちれば蒸散してしまうこの水色の液体よろしく。
緑間は地面にアイスを落とした。凝結自体が甘くなっている固体は、地面にぶつかった瞬間にぐしゃりとその姿を崩してしまう。
きっとしばらくすれば跡形もなく消えるのだ。何もなかったように。
そこに重なるように、今度は透明な雫が落ちる。空を見上げるがそこには雲一つない。
雨ではなければなんなのだろうか、そう思った瞬間、小さな掌がその雫を受けとめる。
見ればさっきまでいなかったはずの自分よりも背の小さい少年がじっと緑間を見上げていた。

『緑間くん、何で泣いているんですか?』

その質問に答えようとした瞬間、緩やかに掻き消える、あの夏の日。




水色ノスタルジア






「真ちゃん、戻りたい?」

喧騒。
ホイッスルにバッシュが床と擦れあう音。ボールが跳ねる音。
鋭く空間を切りさくパス、しっかりと受け止められるときに肌とぶつかる鋭い音。シュートの瞬間踏み込まれる足音。
ネットをボールがすり抜けるときの爽快な音色。
その合間から、ふと緑間の思考の中に声が届いた。
声のした方に顔を向ければ、手すりに上半身を預けていると男と目が合う。
いつもは飄々とした表情を浮かべているチームメイトの高尾が、珍しく深刻そうな、否心配そうな視線を向けてきていることに緑間は柄にもなく驚いていた。

高尾がそんなことを口にした原因は、多分眼前にある光景に起因していた。
コートの中では緑間のかつてのチームメイトが走り回っていた。
それも敵味方に別れた形で。
自分で闘ったときはそうあまり実感はしなかった、しかし外から見ているとよくわかる。
彼らは緑間が知っている彼らではなくなっていた。
浮かべている表情も、戦い方も。
そんな姿に自分の中に熱が生まれるのも確かだったのだが、酷く感傷的な気分になることも確かだった。
緑間は眼鏡のブリッジをあげ、勤めて冷静さを保ちながら言葉を発する。

「どこにだ」
「んーキセキの世代?」
「なぜそんなことを聞く」

高尾は緑間の横顔に視線を向けたまま、さみしそうに息を吐いた。

「だって、真ちゃん、悲しそうな顔で試合みてるから」

高尾の言葉に緑間は言葉を紡げなかった。それは図星をつかれたからでもなく、ただ、その感情を言葉にするそのすべを、その感情をあらわすのに適当な単語を、緑間が見つけられずにいたからだった。
確かに悲しいとは思う、だが緑間は一度としてあの時間に戻りたいとは思ったことはなかった。
緑間にとって、キセキの世代はとてもとても大切で愛おしく、懐かしい場所であることは確かであったし、緑間の人生において重要で、何よりも手放したくない思い出の最たるものでもあった。
誰にも否定されたくはない、聖域のようなもので、それはこれからの人生でもきっと変わらないのだと思っている。
もしかしたらあの時より素晴らしい時間がこの先に積み重ねられるのかもしれなかったが、それでもきっと自分の人生の中でずっと輝くものであることは確かだと思っている。
何よりも大切だった。
しかし、不思議と戻りたいとは思ったことはなかった。
あれはあれで完成された場所であったし、すべての大会が終わり、全中で三連覇した後、あの学年が解散したとき、緑間は確かに狼狽をした。
自分の足元が消えたような感覚を確かに味わった。まるで世界が動きを止め、取り残されたような感覚にも襲われたりもした。
それでも、新しい道が自分の目の前に延びて、それが六つに分かれた道ではあったけれど、そこへ一歩を踏み出した瞬間、ああ、自分はこの道を戻ることはないと漠然と確信をしたのだ。
その確信は間違いなかったと今でも緑間ははっきりと言えた。自分はもうこの道を戻らない。
しかし、戻らないのと戻れないというのは全く以って違うのだと、緑間は気付いてしまった。

『なんで泣いているんですか?』

あのチームメイトの質問に答えるのはそんなに難しいことではない。
答えはたった一つ。

「高尾」
「ん?」
「戻りたい、とは思ったことはない、だが」

「もう、戻れないのだよ」

たとえ、いくら望んだとしても。
一度溶けた氷が元の形に戻らないように。
一度溶けたアイスを再度固めても同じ味にならないように。

多分、自分ももうきっと変わってしまっている。
キセキの世代の形から溶け出して、新しい型にはまって。
天才と呼ばれ、稀代のスリーポイントシューターと呼ばれていることも、チームの中で圧倒的な得点を積み上げていくことも。
誰よりもゴールに向き合い、何百何千とボールを投げることも変わってはいない、だがしかし。
チームについての考え方、勝利への執着、人との付き合い方、そして他人との協力。
そんなものはあの帝光時代の自分にはなかったものだった。
そして、それは自分だけではない。
青峰も、黄瀬も、紫原も、もしかしたら赤司も。
そして誰より黒子も。

決してあの場所が完璧なわけではなかったし、正しかったとは思っていない。
しかし、確かに愛したあの場所はもうこの世界のどこにもないのだった。
たとえ、今、あの六人が集まったとしても、あの空間は、あの場所は自分の前には表れない。
それを、思い知ること、それがどうしようもなく悲しかった。

と、高尾の左手の指が緑間の目尻をなぞる。
驚き見やれば、高尾は優しく微笑んでいた。

「真ちゃん、いいんだよそれで」
「・・・・・・」
「それが大人になるってことなんだよ、きっと」
「・・・偉そうに」

高尾は目尻に這わせた指先をゆっくりと頬へと動かし、顎を撫でると、そのまま手すりにかけてあった緑間の右手に自分の左手を重ねた。
柔らかく重ねられたその手に、緑間はあの日自分の悲しみを受け止めたあの手のひらを思い出していた。

「ねえ、真ちゃん」

「俺たち秀徳もいつか、戻れない場所になるかもしれないけど、その時はこうやって悲しんでね」
柔らかく高尾は微笑む。と、左手にちからを込めた。
正確に言えば押さえられたが正しいのだろう。金属の冷たく固い感触が、強く皮膚から伝わってくる。
高尾は左手を支えに少し背伸びをし、緑間の耳に唇を寄せた。そして右手を添えて、秘密の話をするようにそっと囁く。

「その時は、俺の隣で泣いて」
「馬鹿か」
「なんとでも」

高尾はそういって、肩をすくめた。
そして、あっさりと右手から手を離すと視線をコートの方へと移してしまう。高尾の行動にため息をつきながらも緑間は目を細めその横顔を眺めた。

これからもきっとなくし続けていく。
大切なものの残骸が積み重なったうえで生きていく、それが人生だというのならば。
その回数だけ悲しんで、同じだけすくわれるのだろう。

アスファルトの上で、全てが溶けてしまったあとに残る一本の硬い木の棒を拾い上げて。
大切にポケットにしまって歩き出す。
譬えもう戻らなくても、そこになくても、そこにあったことは変わらない。
悲しみの残滓を引きずって。それでもそれは尊いもので。


ああ、本当に大切な場所だった。


やはりきっと、戻れないことに涙を流すのだろう。
どうしようもない喪失感に歩みを止めることもあるのだろう。
それでも、心の中にずっと留め続ける、大切な記憶。

『なんで泣いているんですか?』

今なら、あの瞳に、自分はこういうのだろう。



感謝の念に絶えないと。



目を閉じたらその先。
夏の日の陽光の下、五人が笑いかけているような、そんな気がした。











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