始めは、そうあれは嫉妬だったのだろう。
認めたくないが、自分にも女子らしい感覚があったのかと途方に暮れたのを覚えている。
しかし、それが恋愛感情だったのかといえば厳密には違うのだ。
ただ、あんなにバスケを愛した男を見守ることしかできなかった自分と、そんな彼を簡単にあの光り輝く世界に連れ戻した男に、どうしようもなく嫉妬をしたのだ。
でも今は。





地平線に消える






珍しく日が高い時間だった。
定期考査中の学校からは一切の音が消える。校庭にも人はいなければテニスコートにだって誰もいない。
そして、毎日バスケットシューズとボールが生み出す音が反響する体育館すら沈黙を守っていた。
普段の放課後の浮足立った雰囲気もなく、ただみんなの表情が硬く強張るこの一週間は、学生の本分が実は勉強だということを自覚させられる珍しい時期でもあった。
定期考査。
リコは定期考査を迎えるにあたって今まで一度も憂鬱な気分になったことはなかった。
成績は人並み以上に良かったし、スポーツ漬けの生活から少し離れることは気分転換するにはちょうどいい期間だと思っている。
なんにしてもあの練習熱心な部員たちを休ませる口実になるいい機会でもある。だからむしろ、定期考査というものはリコにとって都合のいい期間だったのだ。
そう、普段であるならば。

リコは昇降口にたどり着くと、下駄箱から靴を取出し、床に放った。
綺麗に手入れをしてあるローファーは持ち主の気持ちを組んではくれず、ばらばらに床に落ち、ひっくり返ってしまう。
リコは盛大にため息をつき、それらをそろえるためにしゃがんだ。
と、目の前を大きな手が横切り、靴をもとの向きに揃えていった。

大きな手。

リコは憂鬱な気分に拍車がかかるのを感じながら緩慢に顔をあげた。
とそこには想像した通りの見慣れた顔がある。
誠凛の不動のセンターでありポイントガード。
中学校時代に無冠の五将と呼ばれた、天才。
自分をバスケットボール部に誘った人物。
そして、誠凛高校バスケ部の創部者、そして。

「お、リコ、一緒に帰るか」

リコの憂鬱の最大原因、木吉鉄平その人だった。

* *

人で溢れる昇降口を、二人で抜けた。
学校から駅への通学路を、歩いていく。
肩を並べる、という表現がこんなに不自然に思う相手もいないのだろう、とリコは一歩前をいく190を越えた身長を持つ男を見やりながらため息を吐いた。
彼はぼんやりと虚空を見つめながら歩いていく。その一歩の広さに辟易しながらも仕方なくリコはその歩みに合わせていた。
いつだってそうだ、いつだって自分達は彼の後ろを歩いてきた。彼が見せる世界を、景色を。彼の歩調で。
彼がいなくなって、もがきながら進んできたけれど、彼が戻ってきた瞬間にその歩調は元通りに戻っていた。
ただひとつ違うこと。
それは彼と肩を並べてあるく人が一人。

リコは空を仰いだ。
日に日に高くなり、透明度が上がっていく空。

中間考査が終わる。
もうすぐウィンターカップがやってくる。
そしてその先には。

『カントク、実は木吉が…』

押し殺したような、何かに耐えるような声で紡がれた言葉。その声音。
そしてそれが現実となる季節がやってくる。
もう少し、空が高くなって、風が冷たくなった季節の先に。
そう思った瞬間、リコの唇からは、言葉が漏れ出していた。
もしかしたら本当は、彼はバスケットボールを奪われる被害者なのだから、ねぎらうような言葉をかけるべきなのかもしれない。しかし、リコにとって木吉という男はどこまでも加害者だったのだった。

「私はあんたが嫌いよ、鉄平」

リコの言葉に、木吉は緩慢に振り返り、虚を突かれたような表情を浮かべた。
そして、次の瞬間にははは、と低く笑った。

「日向といい、リコといい、意外と嫌われてるんだな、俺」
「そうね、まあ日向くんはそこまで本気ではないとは思うけれど」
「そうか」
「でも、どうでもいいんでしょう、鉄平は。私に嫌われたって別に」

「日向くんがいればそれで」

そういうと木吉は困ったように笑った。
しかし、その実その眼は困っているようには見えなかった。寧ろリコの言葉に対して肯定するような、そんなまなざし。
その横顔さえ、殴り飛ばしてやりたいと思ってしまう自分にリコは困惑する。

始めに感じたのは嫉妬だった。
焦がれるくらいの嫉妬だった。
そして次に感じたのは恐怖だった。
手足が痺れるんじゃないかと思うほどの恐怖だった。

木吉は天然で善人に見えるが実は酷く強かな男だった。人のペースに恐ろしいほどに合わせないうえに自分のペースに周りを巻き込むのが異常なほどに巧みだった。
それはきっと初めからそうだったのだろう。彼の網膜に日向順平という人物が映ったその瞬間から。
その瞬間から、木吉は日向を気に入っていた。もっと言えば手中に収めていたといっても過言ではなかっただろう。
周囲から見ていても木吉の日向に対する執着は異常だった、それでもそれは矛盾はしていなかった。
日向の欲しい言葉を、欲しい場所を、木吉は全て整えて彼を迎え入れた。それは伊月だって自分だって望んでいたことで、それでも的確な言葉を彼に提示できなかったことを二人の代わりに木吉がやってくれただけだった。
日向がバスケットに帰ってきた、それを手放しで喜んだ時期も確かにあった。木吉に感謝すらした。日向と木吉が出会ってくれてよかった、そうとまで思った。自分の中に兆した嫉妬に気付かないふりをしながら。
しかしそこからじわじわと。

決定的な分岐点は、一年前の霧崎第一高校との試合だった。
試合中の負傷、駆けつけた病室で彼はいつものように笑っていた。なんだと、みんな、安堵して帰路についたそのあとだった。
怪我の状況がそんなに軽いものではないことをあの会場で見た瞬間からわかっていた、だから忘れ物をしたと嘘をつき、病室に引き返した。
なんといって彼に言葉をかけようか、思考がまとまらないままに病室にたどり着き、部屋に入ろうとした瞬間、リコは聞いてしまった。
夕暮れの病院の廊下は酷く赤く、静寂には後にも先にも聞いたことのない、彼の嗚咽が響いていた。
静かで、悲痛で、それでもどこか安堵したような、そんな声が。
そしてそれをもたらし、同時に背負った人がいるということを知ってしまった。
あの日から、日向は変わっていってしまった。あの日、あの瞬間から責任感の強い日向は、約束とか誓いとかそういう言葉に弱い日向は瞬く間にこの男のために戦うようになってしまった。
キャプテンとして、あの部活を立派に率い、彼の帰ってくるべき場所を実直に守り続けた。
そして、教育に力を入れ、自らも徹底的に努力をしていた。それは次年度、全国制覇ができるチームへとするために。木吉とともに在れる最後の一年を最高のものにするために。
来年の自分なんてまるで顧みることもなくて。
彼との約束をすべてのモチベーションとして。
日向が、この誠凛高校バスケットボール部から木吉という男を失ってしまったその時、日向はもうバスケットができないのではないかという気すらリコはしている。
それほどまでに日向は木吉に縛られている。もう本当にそれは雁字搦めといっても差し支えないくらいに。
それでも悔しいのは、自分は彼を引き留めることはできないということを嫌という程に自覚をしていたからだった。
この先にある、暗く大きな穴に彼が仮に落ちてしまっても、きっと自分の伸ばす手は届かない。

ああ、彼が遠くに行ってしまう。

這い寄る寒気に、リコは思わず足を止め、両手で顔を覆う。
明度が高いはずの世界が簡単に暗闇に閉ざされて、光が消える。
そうだ、彼がいない世界は、こんな色をしていた。
それは一年前の春、彼がバスケを引退して、新しいバスケ部に入るまでの期間に嫌というほど味わった。
そしてきっと、遠くない未来に彼に訪れる世界。
木吉がいないコートは彼にとってこんな色をしているんだろう。
彼にとって木吉以上の強い光はあの場所にはない、きっとない。

私がその代わりに、なんておこがましいにもほどがある。
それは木吉が帰ってくるまでの一年、彼の傍に居続けた中で唯一気が付いたことだった。
それほどまでに日向の中で彼は大きな存在をしめている。そう、中学校三年間、彼のバスケットを見つめ続けていた自分なんか及びもつかないくらいに。
それが無性に悲しかった。

リコは胸に塞がる大きな異物感を感じながら深く息を吸う。

「ねえ、鉄平」
「ん」
「お願いがあるの」


「日向君を連れて行かないで」


まだ夢を見せて。終わらない夢を。
だからどうか、彼を開放してほしい。
貴方がいなくても彼が歩いて行けるように。

その瞬間、大きく暖かい手のひらが肩に回され、引き寄せられた。
優しく、揺るぎない力に一瞬なにが起きたのかわからなかったが、手の甲に触れる温度に、厚い胸板に自分は抱き寄せられたのだと気がついた。
自分の顔を覆っていた手を外し、彼の制服に爪を立てる。
それは自分の胸に左手でリコの顔を押し付けている彼への抗議ではなく、しばらくこのままでいたいという意思表示。
鈍い彼にしては珍しく通じたらしい、その力を微塵も緩めてはくれなかった。


優しくて優しくて。
それでも自分から大切なものを奪ってしまう人。
悔しくて、妬いて、悲しくて、それでも。


「悪いな、リコ」


不器用ながらゆっくりと、リコの髪をすく指先に、ああいっそこの手が冷たかったら憎むことだってできたのにと。



もし私から光を奪うならばそれならばもうすべて。
彼への気持ちもあなたへの愛着ももう根こそぎ奪って、連れて行って。



もうすぐ冬がやってくる。










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