空からは断続的に雨が降り続いている。

喧騒に満ちた体育館の中を高尾は足早に抜けていく。
大会の後の体育館の空気は嫌いではない。
勝ったチームは疲労感の中に笑顔をのぞかせて、今までの苦労をたたえあうように会場を後にする。今日の疲れなど、どうでもいいといわんばかりの清々しさが確かにある。
観客出来ている各校の応援団や、偵察部隊も手に汗握る展開に興奮気味の声をあげていたし、今後当たることを考えて対策などを話し合っている人たちもいる。
まるでイベントが終わったときのあの華やかさ、それを高尾は好いている。それは元々にぎやかなものを好む高尾の性質の一つでもあったのかもしれない、だが今日は違う。
そんな空気を享受できるのはやはり、勝った時だけだと高尾は歯噛みする。
湿った体育館の中で、秀徳は今日の天気のように、暗く沈んでいる。それは体育館満ちる湿気を吸って重くなってしまったといわんばかりに。

控室では先輩や同輩が涙を流していた。高尾の中で秀徳という存在はまだ大きくはないとはしても、今日の試合は高尾にとっても後悔の残る試合だった。
中学時代より確かに厳しい練習に身を窶してきた。そして先輩たちの思いも嫌というほどに知っていた。それなのに入って間もない一年にスタメンを譲って。その期待に自分は100%応えることはできなかった。
だから、本当は。
先輩たちの控室に残って、一緒にあの悲しみを享受したいという気持ちがあった。
それでも、そこから抜け出して走っているのには理由がある。
今、高尾の網膜には一人の男の後ろ姿が映っていた。
先輩たちからその存在を疎まれて、それでもここまで自分たちを連れてきた人。
あの一人で孤高に戦い続ける負けを知らなかったあの男に、この悔しさの価値と、そして。
今しかないのだと、高尾は走っていた。

自分を、チームを更なる高みへと連れて行く使命を背負ったあの人に。

玄関を抜け、傘を開く。
とたん、雨粒が傘の布を叩き、布の上を滑り降りていく。
高尾は、水が跳ねてジャージを汚すのも構わずに体育館裏へと進路を取った。
雨なのも手伝い、体育館裏に人影はほとんどなかった。しかし、高尾はそこに探していた人の姿があるのを見つけた。
自分と同じジャージ。すらりと高い背。
雨の中傘も差さずに空を仰ぐその人は、全身びっしょりと濡れている。
緑色の髪は、雨に濡れているからだろうか、普段より濃い色をしていたその下にある双眸は強く閉じられている。
暴力的なまでの雨粒の応酬に、それでも彼は微動だにせずに、じっと雨に打たれ続けていた。
その痛々しいまでの姿に、高尾は雨に消えてしまうのではないかとの錯覚を覚えるほどだった。
なるべく、足音を立てないように、それでも足早に彼に駆け寄った。
秀徳の絶対的なエース、緑間真太郎のもとへと。

「なーに泣いてるんだよ」

空を仰いで雨に打たれていた男に傘をさしかけると、いきなり雨粒が遮られたことに驚いたのか、男が目を開けた。
その眼は太いフレームの眼鏡とその表面に張り付いた水滴によって隠されてはいたが、少し充血していることに高尾は気付いていた。
しかし、プライドの高い緑間はばつが悪そうに眉をひそめると高尾から顔をそむける。高尾は苦笑すると持っていたタオルを緑間の顔に押し付けた。
緑間は突然の高尾の行動に驚いたようだったが、やはり泣いていたことを隠したいのか、タオルを素直に受け取ると頭からそれをかぶった。
白い布が緑間の横顔を隠す。それに高尾はなぜか安堵を覚えた。

取りあえず、とびっしょり濡れた緑間の手を取り、体育館の軒下へと緑間を連れて行き、コンクリートの上に座らせた。
高尾が持ってきたタオルでは緑間の髪と顔をふくくらいにしかならなかった。それ故、コンクリートの上に投げ出された指先をつたって、ユニフォームの裾を伝ってコンクリートの上に雨粒が滲み、じわじわと染み込んでいく。
本来はすぐに控え室に連れて行き、ユニフォームを脱がせ、タオルで全身をふくべきだったのだろう。秀徳の絶対的エースに風邪をひかれてしまってはかなわない。
それでも、今、緑間はあの浮足立った空間を通って控室まで戻りたくはなかっただろうし、それ以前に高尾も緑間を控室に連れて行きたくはなかった。
勿論、それはキセキの世代とまで呼ばれ、先の試合で圧倒的な活躍を見せた緑間が、全身濡れた姿で会場へと戻るのは好奇の視線に晒すことにしかならないし、そして何よりも、高尾は彼に伝えたいことがあった。
そしてそれはきっと今でないと彼の胸に届かない。それを高尾はしっていた。

雨音は断続的に世界を叩く。

しばらく、高尾は雨に濡れる世界を眺めていた。その間、緑間はただじっとタオルを頭からかぶったまま俯いていた。
表情は窺えない、それでもその肩が、指先が、微かに震えていることに高尾は気付いていた。
それはきっと、行き場のない悔しさなのだと、知っている。
まったく、贅沢な悩みだ。緑間は、敗戦の悔しさも憤りも無力感も何も今まで知らずにバスケをやってきた人種の人間だった。負ける、といってもチームの、特にキセキの世代に対してしか起きえなかった事象。
それは確かに彼の努力の結果でもあるが、しかしそれ以前に、環境のせいでもある。
帝光中学校という特殊な環境の、その頂点というさらに特殊な環境が彼から敗北という言葉を奪った。
だから。
悲しみ方も、その行き場も全て彼はもてあましている。
そして帝光中学校の徹底的な個人主義は、そして徹底的に勝つことを恒常化したそのシステムと思想は彼からチームという概念を奪っていた。
勝っても当たり前、負けることはない、その徹底的なシステム。そこに埋め込まれて戦ってきた緑間真太郎は多分今日この瞬間までそこから抜け出せていなかった。
そこから逸脱して初めて感じた感情、それを今、高尾は捕まえようとしている。
正直言えば、腹が立つ。そんな甘い、羨ましい環境でバスケを続けてきた緑間に対して。それを可能とした帝光中学校に対して。
本来から言えば、潰れてしまえ、そう思う人が大半を占めるのだろう。きっとそれは秀徳の中にだってゼロではない。
それでも、高尾は緑間をつぶしたいとは思わなかった。むしろ、こっちに来てほしいとさえ思う。
それは、緑間が天才という言葉に甘んじることなく、努力をし続けていることを知っているからだったし、気に食わないことはあるけれど、それでもこの学校を高みに引き上げるために絶対的に必要不可欠な人物だと知っていたからだった。
そして何よりも、高尾は緑間を気に入っていた。そのストイックさも、実直さも。少し抜けたところも天才的な技巧も。
願わくば、過去に捕らわれないで、自分と一緒に三年間、バスケで頂上を目指してほしい。
少しでいい、楽しそうに秀徳でバスケをしてほしいと思うのだ。
自分がこれから少しずつ、秀徳を愛して、背負って戦っていくのと同じように。

同じ場所を目指して。

高尾は、手を伸ばし、投げ出されている緑間の左手に触れた。
試合後、そんなに時間があったわけでもないのに既にしっかりとテーピングされた指。バスケットを愛する指。
そこに自分の手を重ね、しっかりと握りこむ。

「なあ、緑間」
「……」
「これからも負けることあるかもしれねえけど、今度から独りで泣くな」
「……」
「勝ったらみんなで喜ぶ、負けたらみんなで泣く、それがチームだろ」

キセキの世代はそうじゃなかったかもしれないけれど。
お前が執着していたキセキの世代は、もうないのだから。


「お前はもう、帝光中のキセキの世代の緑間真太郎じゃなくて、秀徳高校のエースなんだからさ」


緑間は驚いたように顔をあげ、高尾の目をまっすぐに見つめた。
その実直さに、その透明な色に高尾は、ああやっぱり間違っていなかったと感じた。
キセキの世代の呪縛、そこから解き放って、秀徳で一緒に。

きっと彼もその言葉を待っていたのだ。
先輩も、自分も。そして何よりも緑間自身が。
そのことを今日の試合で嫌という程に実感した。
それはきっと、緑間も一緒だったに違いないのだ。

と、鈍い振動がポケットから伝わる。
あわてて緑間の手を放し、ポケットから携帯電話を取り出すとそれは部長からの電話だった。
それもそのはずだ、試合後のミーティングから抜け出した生意気な新入部員二人が戻ってこなければ心配になるだろう、否、心配を通り越して激怒しているかもしれないな、と思う。
高尾はふうと息と一つはき通話ボタンを押した。

「あ、部長、緑間見つけました。なんすけど、まだ泣きやみそうにないんで、俺が責任もって連れて帰りますんで、荷物おいてさき帰ってください」
『は?泣いてる?緑間が?』
「ええ、そうなんですよ」

「なんか、秀徳が負けて悔しいみたいっすよ」

携帯の電源を切ってポケットにしまったところで隣からの視線を痛いほどに感じ、緑間の方へと視線を向けた。
緑間は、タオルの隙間からじっと高尾を睨みつけていた。
その双眸にいつもの強い力が戻っているのを認め、高尾はああ、もう大丈夫だと確信する。
キセキの世代?そんなのくそくらえだ。

「真ちゃん」
「なんなのだよ」

「次は勝とう」

そしてみんなで笑おう。

笑いかければ、緑間はやはりばつが悪そうに。
それでもゆっくりと口角を持ち上げる。


「当たり前だ」


雨はまだ止まない。
それでも、きっと自分たちの悲しみに似たこの雨は。
ただ悲しさを象徴するにとどまらない、恵みの雨なのだろうと。





この先の道はきっと、快晴。





ひとりじゃないつよさ
















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