たとえ幾億の罪を重ねようとも それが世界で一番不幸だと糾弾されたとしても 最後まで貴方と 終わってしまう、と 「アリョーシャ」 駆け寄ると彼は少し驚いたように目を見開き、そして笑った。 シベリアは雪に閉ざされている。 人々は厚い外套を着、肩を竦めて歩く。 それでもそこには悲壮感はない。めぐる来る季節。また訪れる春。それを思えば冬だってただの通過儀礼でしかない。 ニコライも防寒具をしっかりと着こんでいるためあまり寒くない。 尤もそれはただ物理的に寒くない、というだけではない。 ここまで来るのになかなかの時間を要したが、しかし敬愛するアレクセイに会えたため、気分が高揚しているのが一番大きい。 アレクセイはニコライの兄貴のような憧れの存在だ。 真面目で勉強熱心で―最近は医療や科学の分野についても研究しているらしい―そして優しく人格者である。 彼の描く未来には常にともに在りたいと、そう思うくらいにはニコライの中で彼の存在は大きい。 アレクセイは汽車から降り、駆け寄ってきたニコライの頭を嬉しそうに撫でながら目を細める。 そんなアレクセイの表情にニコライも思わず笑った。 アレクセイはそこまで感情を表に出すのが得意ではない。 それでも綻ぶように現れる、どちらかと言えば月光のような穏やかで優しい表情がニコライは好きだった。 「さあ、行きましょう」 二人で連れ立って街を歩く。市街地を抜け、森の方向。少し町から離れた教会。そこがアレクセイの住んでいる場所だ。 その途上、ざくざくとまだ固まっていない雪を踏みしめながら、ニコライは沢山の話をした。 最近何があったか、何を感じたのか、何を頑張っているのか。 手紙で伝えてはいた。それでも記しきれなかったたくさんのニコライの言葉。それをアレクセイは楽しそうにして聞いてくれていた。 それは凄い、と褒めたり、一緒に腹を立ててくれたり。それはいけないと諭すようなこともあった。 そんなアレクセイの反応に満足しながらニコライはアレクセイが選んでくれた歩きやすい道を踏みしめて進んでいく。 一通り、話し終え、協会の前まで来たところでニコライはふと、『あること』を思い出す。 そしてニコライは隣で柔らかな笑みを浮かべるアレクセイの顔を見上げながら、ねえ、と問いかけた。 「ミーチャは」 アレクセイは、ニコライから紡がれた名前にそこで初めて少し、悲しそうな表情を浮かべた。 ミーチャ。ドミートリィ・フョードロウィチ・カラマーゾフはアレクセイの兄である。 アレクセイとドミートリィは共にシベリアにいると聞いていたが、少し前から体調を崩しているらしいことは先日自分が送った手紙に対しての返信であるアレクセイの手紙にも書いてあった。 ドミートリィとニコライも接点がないわけではない。むしろ交流があった方であるし、彼からも可愛がられていた自負もある。だから自分が来たと聞けば一緒に迎えに来てくれるだろうと思っていたのだが。 アレクセイは首を傾げるニコライに申し訳なさそうに眉を寄せる。そしてゆるゆると首を横に振った。 「あまり調子が良くないのですか」 「実はそうなのです」 つい二、三日前から意識が朦朧としているのだと残念そうにアレクセイは続ける。 恐らくどこかの血管が詰まっているのだろうと医者は言っているらしい。 数日前迄は普通に会話をしていたという。しかし血の管に宿る病は酷く急に悪化を辿る。 死は近い。意識が薄くなったドミートリィを見た彼の主治医はそう、アレクセイに告げたのだという。 ドミートリィはアレクセイにとって、既に唯一といっていい肉親である。 出来れば死なせたくない。ドミートリィと共に、もっと一緒に。 それはニコライにとっても同じであった。 そうなんですか。そうニコライは肩を落とす。 しかし、そこで急にアレクセイはニコライの前に立つとしゃがみ込み、ニコライと視線を合わせた。そして先程までの沈痛な表情を消し去り、柔らかい表情を浮かべる。 「でも、実はいい方法を見つけたのですよ、コーリャ」 「いい方法?」 アレクセイはニコライに深く頷いて見せる。 そしてニコライの唇に人差し指をたて、悪戯っぽく笑って見せた。 「神様には、内緒ですよ」 + + + + + + 「風邪をひきますよ」 ゆるゆると肩をゆすられ、ニコライはゆっくりと瞼を持ち上げる。 すればそこには見慣れぬ景色がある。 むき出しの岩肌、暗い松明。 それらは旅の中にあった景色でも、自分の祖国にある景色でもない。 しかし、視界に入ってきた人物の姿に、ああ、そうだと納得をした。 乾いた肌、切りそろえられた前髪。少しこけた頬。 世界で一番ニコライが敬愛する人物―アレクセイはニコライに目を細めてみせる。 優しさの中には確かに悲しみをたたえ、溌剌さは微塵とない。それは故郷を離れ、この地にたどり着いてからずっと変わらない。 そしてやはり乾いた、冷たいのか暖かいのか判然としない指がそっと、ニコライの頬を滑った。 ここは、アレクセイが住む、屍者の帝国だった。 生きている、そう言えるのは恐らく彼だけの世界。 誰とも会話の成立しない。静かな世界。 しかし、その帝国にて今日は久々に晩餐が催された。 英国からの使者、ワトソン、その友人であったフライデー、バーナビー、そしてニコライとアレクセイ。 会話があり、笑顔があり、議論があった。 感情の応酬があり、思考の発展がある。 それに僅かにアレクセイの感情の起伏が見え、久々にそんな彼の姿を見られたことにニコライは少し嬉しくなりワインを煽った。 普段ニコライがこの帝国にやっていた時に眠るベットは客人たちに貸し出されている。 そのため、ニコライはアレクセイの部屋で横になっていた。 意外と飲んでいたらしい。 アレクセイが片付けをし、いろいろな準備をしている間にすっかりと眠ってしまっていた。 アレクセイはブランケットを被らず眠っていたニコライの肩に毛布を掛けながらニコライが先程まで転寝をしていたベッドの枕元に腰かける。 ニコライは体を起こすと毛布を肩にかけたままアレクセイの隣に座った。 「何かいい夢を見ていたのですか」 「いい夢?」 「どこか楽しそうでしたから」 たのしそう、その言葉にニコライは苦笑する。 この男はきっと、自分のその感情を想起させる術を持つのはこの男だけなのだということをきっと知らない。 ニコライは小さく笑うと言葉を続けた。 「昔の、景色を」 「そう、ですか」 むかし、そうアレクセイは口の中で小さく呟く。 ニコライはその動きを見ながらアレクセイはいつの景色を描いたのだろうと思う。 この帝国に来てからの景色だろうか、あのシベリアの教会の中だろうか。あの雪道であろうか。 それ以上、もっと昔。あの家に生き、自分と共に在ったあの時のことだろうか。 それとも自分の中にあるあの暖かな日は、もう、アレクセイの中には残っていないのだろうか。何一つとして。 ニコライはそう思うと堪らなくなり、アレクセイの肩に凭れかかった。 と、触れ合うところからジワリと布越しに伝わる熱。 屍者の帝国の中で唯一の生者の証。 ああ、こんなにも暖かいのに。 無性に悲しくなり、ニコライは思わずアレクセイの服を掴んでいた。 そしてなめらかな布を強く、握り込む。 「アリョーシャ」 「なんですか」 本当に、いいんですか。 そう、問おうとしてニコライは口を噤む。 今更だ。彼はもっと早くに。 それを引き延ばしたのは、彼の科学者としての矜持と自分のエゴに他ならないのだ。 ニコライは渦巻く感情を吐き出すように、ほうと息を吐いた。 同時に零れそうになった涙はそっと押しとどめておく。 そして何もなかったようにニコライは体制を変えると、アレクセイの膝に頭を乗せ、ぎゅ、と目を閉じた。 「いいえ、なんでもありません」 アレクセイは初め少し困ったようにしていたが、しかしやがてそっと笑い、そしてニコライの髪を優しくその指で梳く。 「おやすみ、コーリャ」 + + + + + + 「こんなはずではなかったのに」 ガシャン。 鋭い音が響く。 それは擬似霊素を注ぎ込むガラスのアンプルが、地面で砕け散った音だった。 実験室の中。 資料の積み上がったテーブルに突っ伏しながら彼が肩を震わせている。 傍の床面には無数のパンチカードが、そして彼が綴った記録が、そして彼が生み出した「モノ」が散乱をしていた。 阿片と変性音楽で生産される、生ならざる者。 アレクセイはヴィクターの手記に従い『屍者』を産み出していった。 否、それは屍者ですらない。生者に死を書き込んだそんな存在だ。 しかしそれは既に実験ではない。 どちらかと言えばきっと、証明の作業だった。 彼は祈るようにして今日も生者にパンチカードに刻まれたネクロウェアを書き込んでいく。 そして絶望し、安堵するのだ。 魂を持つ屍者を作り出すことができなかったことに絶望し。 自分の兄に施した実験が「失敗」であったことを証明しないで済んだことに安堵する。 成功も失敗もない、ただの確認作業。 それはきっと前に進むこともなく、そして後退することもない。 雪に閉ざされた時間のとまった地にて、永遠と繰り返される不毛な実験群。 いっそ科学者として徹してしまえれば。 いっそ狂ってしまうことができたならば。 彼は今でも笑っていただろうか。 「アリョーシャ」 彼は振り向かない。 それにニコライは言いようのない悲しみを覚える。 あの美しい双眸はただ暗い場所を覗き込み続けている。 深淵、絶望。 しかしそれでも彼が生き続けているのは、彼の所業を誰も否定することがないからだ。 彼は待っている、自分の行為を否定されるその時を。 そしてこの愚かな行為を、断罪し、そしてのり越えてくれる人物に出会うことを。 ニコライはその悲しい背中を見やりながらぎゅ、と手を強く握った。 「アリョーシャ。貴方のことは僕が救います」 嘗て、自分があなたに救われたように。 + + + + + + 激痛。 それに一瞬意識が覚醒される。 電気、電圧。そして同時に注ぎ込まれる自分ならざるものの、意思。 自分の中にあったはずの確固たる意識がものすごいスピードで侵食をされていく。 生理現象、反射的反応。 自己防衛のためだろう、抗うように喉が声を上げる。 涙が、溢れる。 「ニコライ!」 絶望と怒りを瞳に映した男が自分の眼の前に倒れ伏しながら自分を見ていた。 それの理由は想像に難くない、彼が伸ばした手を跳ね除けたからであろう。 生きながらにしてネクロウェアを書き込まれ絶叫を上げる自分を救うために彼はニコライの頸部に深く穿たれたアンプルに手を伸ばした。それをニコライは振り払った。 理解できない、そんな目で彼は自分のことを見ていた。 当たり前だ。彼はーワトソンは約束のために、そして自分の為に友人を生き返らせた。そんな彼にはおそらく、理解できないのであろう。 この状況が、この展開が、己たちが望んだものだということに。 彼の理論の最終証明。 そしてそれ以上の解がないことの提示。 この悲劇を終わらせるために伝達手段。 その理論にて自分の意識を殺すこと。 それに寄り添うこと。 彼のことを断罪する声が聞こえる。 しかし、内容はもう、脳内で身を結ばない。 ただ音が響くだけだ。 悲愴と、憤怒の感情。 それが脳内に反響するだけだった。 だが、散漫とした意識の中、徐々に形を結ぶものがある。 阿片と変性音楽、そしてネクロウェアにてぐちゃぐちゃになった意識。 しかし、その中でもひとつ確固なものが浮かび上がって、今ニコライの前にある。 『アレクセイを屍者にしなくてはいけない』 それは生者として貴方が拷問に掛けられ、この技術が公表されることを回避するためでもあり、死体とした貴方の身体を本国に渡し、実験材料するわけにはいかないから。 表向きの理由は確かにそうだ。そしておそらくどうしようもなく正しい。 正義と合理性の行使。それを貴方は自分に強いる。 これをーこの理由と行為を貴方はこれを自分がインストールしたネクロウェアと呼ぶのだろう。 しかし私は私の自由意思において貴方を屍者とするのです。 それは救済するために。 あなたの悲しくも美しい魂を。 ねえ、アリョーシャ。 あの嘗て僕たちの間にあった日々に戻りましょう。 何も悩むことのない、美しくも楽しい、あの幼い日々に。 ニコライは生前に比べうまく動かない四肢を動かし、自分の頸部に刺さった器具を抜き去る。 そしていつのまにか自分の前に座り、自分の背を向け、神に祈る男ーアレクセイの頸部を見下ろす。 すっかりと、肉がこけ、筋の浮いたその首筋に、自分のなかにもうないはずの悲しみをニコライは覚えた、気がした。 しかし満足感もある。 アレクセイが長年味わったその苦しみからも、彼を間もなく解放することができるのだから。 人間の21gの魂。 あの、ロンドンの医学生が必死に求めているもの。そんなものなどなくてもよいのだ。 すればこの男を、すべてから解放することができるのだから。 魂は、どこに行くのだろう。 人間が死んだら21g軽くなるのが立証されているのであれば、その立証通り魂はこの体から消え失せればいい。 疑似霊素に上書きされた意識の中から捨て去られ、空へと登ればいい。 間違ってもこの体の中に閉じ込められ、永遠に逃れることのできない暗闇に閉じ込められることがないように。 そしてその魂が召された先、もう一度ドミートリィと貴方の笑顔が見れますように。 暗転する意識の中、最後にとらえたのはアレクセイの首筋に自分が疑似霊素のアンプル、それを突き立てるその光景だった。 material:Sky Ruins |