君に振り注ぐ不安と
君を濡らし続ける恐怖と
君が感じる焦燥を・・・


《傘》


狭い部室に雨の音が浸食していく。
鉛筆を走らせる音と、規則的にパイプ椅子が軋む音が狭い室内に響いていく。
淡い電飾が静かに室内を照らし、その下に照らし出される彼の表情は少し憔悴しているようだった。
いつも不必要なまでに浮かべている笑顔も、馬鹿だといわれる表情も、言動も今はどこかになりを潜める。
ただ、静かに手元にある携帯電話を肘を机についた手の上に頬を乗せて眺めているだけだ。
言葉もなく、ただ只管と。

「千石、お前雨、もっと酷くなるらしいぞ、帰ったほうが良い」

ぱきん、芯が折れた。
ああ、千石をこのまま自分は帰したくないのだなとそう自覚する。
雨は彼に似合わない。
抜けるような青空と、そして降り注ぐ太陽と、笑う彼。
そこが彼の生きる場所なのだと改めて思う。

「ああ・・・うん・・・そ・・・だね」

ぱちん、千石が携帯を開いた。
オレンジの携帯から人工的な光が漏れ出し、一瞬千石の頬を白く染めた。
そして、彼はまた、ぱちんと携帯を閉じる。
さっきからずっと携帯を眺めていたのだ、連絡が入っていないのは当然だった。

「まだ、来ないのか」
「来ないね」

へへへと、彼は笑った。
そして体をパイプ椅子の背に預け、体を上へと伸ばす。

「あ〜俺って健気?それともアホかな?どう思う、南」
「アホなんじゃないのか?」

二週間前、こんな雨の日に千石は今日のように南の前に座って真剣な顔をした。

『南、重要なことに気が付いた、跡部くんから連絡を取ってきてくれたことって無い』

一方的に自分が連絡をつけてるだけなんだ。
千石は傷付いたように目を伏せた。
そして始めは悪戯に、

『何日たったら彼は俺に連絡入れるかな』

ぱちん、また携帯があけられたようだ。
我に返って千石を見るとまた相変わらず不機嫌そうに、眼を細めている。

「室町くんだ〜去年のレポート?そんなんもうないよ」

雨脚はとどまることを知らなさそうだった。
徐々に強く部室の屋根と窓を打ち付けていく。
千石は笑顔を浮かべもせずに窓の外を見やり、また俺に視線を注いだ。

「ね、みなみ、まだ終わらないの?」
「まだ、早く帰れ」
「傘、無いんだ、入れてよ」

お願い、と千石は両手を合わせて俺を見上げる。
跡部を呼べばいい、言えなかった、千石が浮かべる表情が容易に思い浮かべられたから。
何人か校内に残ってそうな人を脳裏に思い浮かべて、放棄する。
責任転嫁もいいところだ。

「仕様がないな、もう少し待っててくれるか?」
「うん、ありがと」

千石は机に体を伏せ、腕に顔を埋めた。
そして動かない。
彼の微かな呼吸音と、鉛筆の音と、雨の音。
世界はそれで満たされる。
重苦しいほどの沈黙に、動かない空気。
少しの息苦しさ。
窓から見える灰色一色で染められた空は霞掛り、何処から雨が落ちてくるのかも定かではない。

ああ、この空模様、彼の心情を如実に投影しているのか、それとも俺のか。

暫く時間を忘れ、意識を部日誌へと没頭させる。
時折千石の携帯が振動した。
彼はその度、少し顔を持ち上げて画面に表示される名前だけを確認し、また顔を伏せた。
ただ、それだけだ。
千石に笑顔が浮かばない、ただそれだけ。
そしてそれに自分が少し安心しているだけ。

書き終えると見ていたかのように千石は顔を上げ、口の端を僅かに持ち上げる。

「お待たせ、早く帰ろうか」
「うん」

部室の入り口に並べておいてあった鞄を取り上げ、雨の匂いで満たされた世界に出る。
眼の前にある校庭は薄く水が張ってあり、ゆるゆるとどこかへと雨水は流れていく。
明日は朝練ないね、と不真面目な彼は嬉しそうに言い、肩を竦めた。

彼は手を空に翳し、雨の強さと冷たさをはかる。
自分の心に降る雨と、どっちが痛く、冷たいかと、そういうように。

この傘で全てが防げるのならばいいのに。
彼が感じる全ての不安と、
彼を駆り立てる全ての焦燥と、
彼を縛り付ける全ての事象と、
彼を苦しめる全ての言葉と、
彼を組み込む全ての関係と、
彼がもがき苦しむ全ての恐怖と、
それから全て、守ることが出来れば良いのにと、そう思う。

彼がその表情に浮かべることが出来るのは笑顔だけであれるように・・・

しかしその権限を持てるのは、俺が差し伸べる傘ではない。
いくら望んでも、いくら求めても、俺にはその傘を手に入れることは叶わない。

それならせめて、今日この世界に降るこの雨からだけでも彼を守ろうか。

「南、どうしたの〜?やっぱり一緒にかえるの嫌?」
「ん・・・違う、別にそんなこと無い」

声は掠れなかっただろうか。
目聡い彼は気付くだろうか。

「ならいいんだ、帰ろうよ」
「ああ」

ばさりと地味な紺色の傘を広げて、
彼はそれを見て南らしいと小さく笑みを零して、
その小さな体躯を、俺の傘の中へと寄せる。
まっすぐに雨で霞む街を見やる表情は、この位置からだと判然としなかったけれど、
窺うことはしなかった。
その距離に彼も、そして俺も安心しているから。
近くにいても、知ろうと思わなければ見えないその距離を、

それは永遠よりきっと果てしなく、明日よりまだ近い。

雨の中へと歩を進め、言葉無く街を行く。
時折彼を揺るがす携帯の振動が空間を揺らしたが、しかしすべてそれを彼は無視した。

きっと彼ではないと、気付いていたからか、

それとも・・・

俺に気を遣ったかは定かではなかったが。


「南、明日は晴れれば良いね」


ああ、とも、そうだなとも、明日も雨でも良い、それさえも、
雨へと掠め取られた。





ただ傘が、彼を濡らす筈だった雨を、防ぐ音がしていただけ・・・


End・・・

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片思いって書くの大好きです。
これは跡部と千石が付き合う前、付き合ってるというのか良くわかんない二人ですけどね