奏でられるそれに 秘められたメタファーとそれに付随する痛みと 《小夜曲》 歌が聞こえた。 それは呟く様な小さい声で奏でられた歌だ。 その持ち主はオレンジ色の男だった。 外界へ放たれた窓からは遠慮なく冷たい外気が忍び込んで来ている。 窓の桟に背を預け、足を投げ出したその男が着た制服の色と窓の外にある朧気な月の色で一層に頼りなく見えた。 顔は外側に向けられたままで辛うじて見える左頬に鬱血した痕がある。 細い肩がときおりぴくりと引きつったように動き、細い右の指が頬をゆっりと辿った。 痛みを感じるたびにそっと。 それに付随するように右手に蘇る感触と胸の中に広がる痛み。 外気にさらされすっかりと冷え切った手にそれはじくじくと響いた。 歌は止まない。 その声は酷く儚く、同時に酷く優しかった。 怒りもなければ哀しみもなく、侮蔑さえもない。 眼下を複雑に走る道路から聞こえるクラクションの音も、都会の喧騒も酷く遠い。 明瞭さを持つのは千石清純という存在と、歌と、そして痛みだけだった。 ソファーに体重を掛けなおす。 机の上にはすこし歪んだケーキの箱があり、すこし散った薔薇の花束が置いてある。 どれも昨日この男がこの部屋に残していったものだった。 そして彼がその対価に受け取ったのは。 「何の歌だ」 歌声は止む。 千石は座りなおすと、外に向けていた顔を、部屋のほうに向ける。 月に照らされていた左頬は影になり、視界から消えた。 そして笑う。 いつものような飄々とした、その笑顔で。そして、優しい声音で。 「英語の。誰のか知らないけどきれぇだったからさ」 「そうかよ」 千石は一瞬、憮然とした声にきょとんとし、そっと目を伏せた。 感情も思いも、この男には全て見破られる。 だからきっと、今自分が感じていることも全て筒抜けているのだろう。 千石は少し考えるようにし、適当な言葉を見つけたのだろう、顔をあげた。 「セレナーデの代り」 「は?」 「セレナーデ。知ってるでしょ」 「彼女の為に男が歌う奴か」 「うん。俺跡部くんのこと大好きだし?」 「いってろ・・・」 ほんとうだよ。 念を押すように千石は言うと、また窓の外に視線を向けた。 月光に照らされる、左頬。 罪悪感と後悔。 これに襲われるのは初めてではない。 昨日の今日だ。 偶然といえば偶然だった。 昨日は偶然、非常に虫の居所が悪い日だった。 笑い声が聞きたくなかった。 特に千石のを聞きたくなかった。 鬱陶しいとさえ思った。 本当に笑っているのかそうでないのか、それを判断するのが酷く億劫に感じた。 そういうときに限って。 来て欲しいときに、絶対来ない癖に。 気が遠くなりそうだ。 右の手に感触が取り付いて離れない。 もう痛みなど残っているはずもないのに、痛みがまとわりつく。 そしてそれ以上に。 まるで傷付くことなんてないというかのように。 まるで痛みなど感じてなどいないかというように。 此処に戻ることを臆さない千石の存在が、その思いが重い。 一度だけでもなく、何度も何度も。 床に落ちたケーキの箱。 花弁を踏みつけていた俺の足。 ぱきりとその下で折れた茎。 後悔を感じるその前。 明瞭な感触がまだ右手に残っていたそのとき。 まだそれは赤いだけの痕。 そして、困ったように、否、優しく、浮かべられたその笑み。 網膜に残り、リフレインを続けるその光景。 左手の爪を試しに立ててみる。 しかし痛みの性質が違うのだろう、何の気休めにもならなかった。 窓の外に意識を向けたままの背を見るのに限界を感じ掌で額を覆う。 「お前馬鹿なんじゃねえか」 「ん?」 「殴られといて、何ニコニコして此処来てんだよ、ほんとあたまわりぃ」 千石の歌を聞いたのは初めてだった。 其処に綺麗とかの意味は本当はない。 千石が暗示するのは、その言葉の裏側にあるそれ。 今日千石がとる態度が行動が何を意図するかはわかっている。わかっている。 それでも、痛みは、消えない。 「跡部くん」 声に視線を向ければ、千石が目の前に立っていた。 夜空と、夜風を背負い、目の前に居る。 眉をしかめれば、千石はフローリングの上にひざ立ちになり、視線の高さを合わせた。 「赦してるよ」 頬を、千石の乾いたそして冷え切った掌がすいと滑り、そのまま首に絡みつく。 大して力は込められてはいない。 しかし、力でない何かがしっかりと俺が逃れることを拒絶していた。 右の肩口に千石の顔が埋められ、確かな熱が伝わる。 千石の呼気。 左手で千石の頭を抱えてやる。 掛けられる体重の割合が、少し上がった。 「赦してるから」 顔を上げ、顎を今度は俺の肩に乗せなおす。 声が今度は鮮明に、耳に届いた。 「だから」 赦してあげてよ ため息をつきそうになった。 どれだけ千石が態度で示そうが。 隠喩として、歌の中に織り交ぜようが。 結局、救われた気になるのはその言葉だけなのだから仕様が無い。 「てめぇも相当お人よしだな」 「はは、多分それはきっとお互い様でしょう?」 千石の指が、右手の上をそっと辿る。 そこから。 消えなかったあの痛みと感触が、徐々に溶け出していくのを感じた。 *END* ***** こんなので御免なさい・・・。 一応・・・跡部誕生日に・・・と書きかけていたものでした(誕生日なのに暗いな・・・ バイオレンスな跡部と千石が好きです。 MとかSとかではなくね。一時の感情とか衝動から殴っちゃったりね。 そんで後からその行動に対して傷付いたりね。好きですよ。 |