雲ひとつもない青空だった。
まだタバコを一日に消化する本数も今に較べたら少ないといえるだろう。
そんな頃。


《切り取られた空》


「ひっでーの」

声が振ってきた。
壁に凭れた姿勢で空を仰げばオレンジ色の髪が見えた。
そして薄ら笑い。
目の奥は笑っていない。

多大に湿気を含んだ路地裏の空気。
ビルに切り取られた空はどこか狭く暗く見えた。
路地の突き当りのブロック塀の上。
其処に肘を乗せてその男は言葉とは裏腹に何の関心もなさそうにくすくすと只陰鬱に笑った。
ただ、陰鬱に。

「んだよ・・・てめーもなんかようかよ」

立ち上がり、タバコの吸殻を投げつけてやる。
そいつは器用にそれを避け、にやり、と笑う。
オレンジの髪が綺麗に陽光に透けた。

「特にないけどね、通りがかったらさ、暴力の匂いがしたから」

ね?とそいつは俺の後ろに転がる、黒の学生服を着た男たちを指差した。
例外なく高校生。
そして一人残らずそいつらは地に臥していた。
陰鬱な薄汚い路地裏の床にはいつくばって、殆ど朦朧とした意識の中、時折呻き声が聞こえる。
自分の制服に、細かく赤の飛沫が散っているのを見る限り、唇を切ったか歯を折った奴がいるのは明白だった。

「売られた喧嘩を買っただけだ」

「あはは!そうだよねぇ?」

頭上を影が横切った、どうやらその男は塀から飛んだらしい。
十分な運動神経を持っているらしい、器用にその男は両足で着地すると伸びている高校生たちの顔を覗き込んでみていた。
一通り、確認するとその男は立ち上がり、制服の付いた埃を丁寧に払った。
その仕草は、いかにも汚いものが付いたというように軽蔑を、含んで、いた。

「亜久津・・・だよねぇ?亜久津 仁」

「あぁ?」

「山吹中、三年、で、もしかしてテニス部はいるって言う?」

「・・・」

当たり、そう男は呟くとにっこりと邪気のない笑顔を向けてきた。
眩しい位のオレンジの髪。
それを強調するためにだけ設えられたような白い学生服。
そしてビルの影の所為で青白く浮かび上がる頬。
こいつのことはよく知っている。
よく噂に上る男だ。
女好きで一ヶ月おきくらいに彼女が変わるとか
夜な夜な遊び歩いているとか
でも頭が良いとか、喧嘩が強いとか
テニス部ではかなり早い段階からレギュラーにいたとか

どうでもいい、取り留めのない噂だ。

しかし、そんなことは彼の一面しか描写していなかったのだろうと、漠然と思う。

「・・・ぅ・・・」

ずる、その男の後ろで身体を擦る音がした。
オレンジの髪の男はくるりと踵を返し、今にも起き上がろうとしている男に歩み寄る。
ずる、ずると身体を引き摺り、立ち上がろうとしている男を、見下ろしている。
何をする気かは、直ぐにわかった。
でも、とめない。
止める必要すらない気がした。
それは、多分、興味だ。

「おれさぁ・・・今、亜久津と喋ってんだけど・・・?部外者は黙っててくれないかなぁ?」

けらけらと嘲笑するように、そいつは言葉を吐き捨てた。
吐き捨てる、それが適当な表現だろう。

「弱い」

鈍い音がした。
俺は行為ではなく、その男の表情を見ていた。
笑顔。
邪気のない子供のようなそれ。

「ねえ、亜久津・・・テニス部入ってよ」

靴の裏を何度も何度も地面に擦りつけながら、その男は言った。
感触を消したいほど汚らわしい行為ならしなければいいのだ、それは飲み込んだ。

「弱いもの虐めって、アホくさいじゃん、テニス、いっぱいお前より強い奴いるよ」

「・・・んでおれが・・・」

「暇つぶしにはなんじゃないかな?」

まあどうでもいいけど、そういうとそいつは俺の顔をじっと凝視した。
おまえ、俺に興味あるだろ、そう、いわれているような気がした。

「俺の名前は千石清純」

そいつは踵を返した。
ざり、と地面をしっかり、靴底で踏みしめて。

「コートで待ってるから、亜久津」

俺も退屈なんだよ。

最後に向けられた笑みは、印象に残っていない



ただ、残っているのは・・・

吸い込まれてしまいそうな、色素の薄い、闇を映す眼。




end・・・