何を注いでも混ぜても
色を変えぬ水などないように



れない水




「変わらぬものなど、ないと知っていた筈なのにな」

隣に立った男が勢いよく蛇口をひねった。
途端透明な水が流れ出しその下にあった硯に残っていた墨汁と混ざり合っていき、排水溝へと吸い込まれていった。
黒く渦を巻くその水は、既に水道の蛇口から流れだした時のものとは全く別物でただ濁り、汚れていた。

放課後の書道室にはもう誰も残っていなかった。
残っていたのは課題を提出していなく、先生に名指しで居残りを命じられた仁王と趣味で書をたしなむ、柳だけである。
開け放した窓からは透き通った秋の近づいた風が舞い込み、墨の匂いが教室の中を渦巻いた。
仁王は自分の手で洗うのが面倒でただ流水に晒したままにしている硯を見た。
そろそろ墨は落ちてきているようだった、殆ど水が汚れなくなってきている。
机に視線を移すとそこには二人分の半紙とそこに記された文字が見えた。
課題の文字を記してある仁王のものはただやっつけ仕事的に書かれたものである、繊細さもなくただ乱雑な字である。
しかし柳のものは本人の性格が起因しているのか、もしくは教えている人物の性格だろうか、丁寧で何処か力強く、滑らかだった。
仁王は僅かに口角をあげ、あざ笑う様にして、蛇口をひねった。
二つ分聞こえていた水の音が一つ、虚空に消えた。

「俺にいってもしょうがないじゃろう」
「お前にしかいえそうになかったんだ」

柳は苦笑した。
そして華奢なように見えて武骨さを確かに持っている指で優しく硯を撫でていく、撫でるという表現が適当なほどその指の動きは優しかった。
しかしその指がその動きに似つかわしくない力でラケットを握るのも、扱うのも仁王は知っていた。
そしてそのラケットが、誰の為に振られるのかも知っていた。
長い時間何も変わらずに、振られ続けるラケット。
それを扱う指が墨によって黒く汚れていく。

「一度負けたくらいで弱気になっとんか、参謀らしくもなかよ」
「弱気になってなんかないさ、何時も通りだ」

柳はいつもの悠然さを以て、一つ一つ片付けを進めていく。
筆一本一本も丁寧に洗っていく。
水音は止まない、排水溝では黒い水が渦巻いていく。

「変わらないと、信じていたんだ」

最後の一本を机の上の奇麗な布の上においてから、柳は力なく笑った。
それは理解できないものに対して理解を放棄するような諦め方ではなく、理解でき過ぎてどうしようもない、そういう類の諦め方であった。

「俺は三人とも、ただ、覇を争うライバルであるためにテニスをやっていくのだと信じていた、それだけが戦う理由なのだと」
「ああ」
「だが違った、精市は立海の地位を護るために戦っている、弦一郎はそんな精市の願いを叶える為に、立海を守った」

守り切れなかったけどな、と仁王が揶揄すれば柳は笑った。

「実際俺達は今でもライバルであるのだろう、だが、それだけじゃないんだ、それだけの純粋な関係性じゃない」
「ほう、例えば」
「うまくは言えないが、そうだな、今まで三人が三人とも八百屋の店頭に並ぶ野菜のようなものであったのに、今では人間と酸素の関係に変容している、言うなればそんな感じか」
「ふうん」
「それが無性に悲しいんだ、ずっと対等であると、同じ位置にいると信じてたものが、違う次元にあって、そのことに今まで気づかないようにしてきた自分が」

真田と幸村にある関係性、幸村と柳にある関係性、柳と真田にある関係性に仁王は一瞬思考をめぐらせた。
誰が酸素で誰がその酸素を欲しているか、その図式でさえ、軽々と想像が出来た。
そしてその図式は確かに三年前には存在をしていなかったように思う。
あの時の三人は、雲の上にいた。
三人で一つで、三人で同じ立ち位置に立って、同じものを追いかけていた。
ツールもゴールも全て同じものを。
切欠なんてなかったのだろう。
今強引に汚された水のようにではなく、一滴、一滴を気を長い時間をかけて垂らして行った結果がここにある。

柳が蛇口の方に視線を向けた。
洗面台から排水溝にかけては透き通った水が流れている、しかし完全ではないのだろう。
見えないレベルで墨が混じっている、もしかすれば今日柳が使った墨だけではなく、他の生徒が使ったものも混じっているのかも知れない。
些細な事象で、少しずつ、汚れていく、色を変えていく。

仁王はそこで一瞬自嘲し、放置していた自分の硯を取り上げた。
そして机にある道具一式の中に乱雑に突っ込んだ。
撥ねた一滴の水は、柳の半紙に散った。
そして僅かに灰色を残す。

「だから」

あいつだって、いつまでも同じとは限らないぞ。



************* * * * * * * * * *



「まっとんたんか」
「すぐ終わるから待ってろって言ったのは誰ですか」

どこがすぐなんですか、柳生は眉間に深く皺を刻みながら本を閉じた。
そして鞄に本をしまうとそのまま踵を返し、校舎を出て行く。
その後ろ姿を見ながら仁王は苦笑した、そして下駄箱から自分のローファーを出す。
そしてその靴のかかとをはきつぶしながらその背を追った。

柳には言わなかったことがあった。
仁王は元々、不変なものがあるなんてそんなこと信じてはいなかった。
むしろ、変化のない物など、のぞんですらいない。
いつか、この前をいく男と道をたがうことすら、恐れてさえいない。
不可抗力とすら言えるその事象が。
存在しなければ前をいく男と出会えすらしなかったのだ。
汚れぬ水などこの世界に一滴だってあるわけがない。
仁王を嫌悪していた男が、仁王に興味を向けるようになったように。
そしてそれは仁王も同様なのだろう。

「柳生」
「なんですか、仁王くん」

振り向くその視線も、自分の名を呼ぶ声も全て。



「お前さん、ほんとに変わったのう」



笑顔を向ければ、柳生はなんですかそれ、と忌々しそうにつぶやいた。


(それは不可能の象徴としての) れない水


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永劫を信じて始まった三強と
いつかの別離を知って始まった28

title酸性キャンディー