いっそ恨んでしまえれば いっそ恨まれてしまえば 「お兄ちゃんを許してあげて欲しいの」 夕暮れの住宅街の一角で千歳を呼び止めた少女はおもむろにそう切り出した。 自分よりかなり小さい少女が怖いものを見上げるように、唇を強く噛みながらしっかりと両眼で千歳を捉えている。 そこに映る眼帯を掛けた自分の姿を認め、ああこの少女は桔平の妹かと、そう漠然と判断した。 時折、試合のコートの応援席で、両眼を輝かせながら親友のコートを走る姿を見つめていた少女。 一緒に息を飲み、表情を綻ばせる、あの空間を共有していた少女かと、千歳は思う。 あの輝いた瞳は僅かに涙をたたえて千歳を見つめている。 それがなぜか無性に悲しかった。 「わかってる、お兄ちゃんは取り返しのつかないことをしてしまった、私が許してなんていうの、おこがましいの、それでもこのままじゃ、お兄ちゃん、テニスやめてしまう、私は、お兄ちゃんが千歳さんと楽しそうにテニスしてるのが好きだった、本当に好きだった」 少女は腕の中にあったラケットを強く抱きしめた。 そういえばこの前、桔平の買い物に付き合ったときにラケットを買っていたのを思い出す。 そんなかわいいのお前に似合わん、そういったら彼は俺のじゃなかと笑っていた。 そんな、少女の細腕に強く抱きしめられたラケットは悲鳴を上げているように見えた。 そしてそれはそのまま少女の表情に投影されている。 務めて感情を表さないようにしているのは窺えたが、それでもまだ噛み殺せるほどの技量はないのだろう。 橘の面影を確かに投影している彼女の表情は、夕日によって陰影を刻まれ実際年齢よりは大人びて網膜には映ったが、それでも自分が知っている人物よりははるかに幼い。 「だから、許してほしいの、今じゃなくていいの、だけど、いつか」 「杏ちゃん、やったな」 「え?」 「もうよかばい、事故だけん、仕方なか」 そういって自分は橘の謝罪を受け入れなかった、受け入れてしまえばすべてが終わってしまう気がしたのだ。 何の未練もなく、東京へ行ってしまう気がした。 熊本でのすべてを捨てて、新しい土地で、彼は笑ってテニスをするのだろう、九州に一人置いて行かれた自分のことを忘れて。 彼がそういう人間でないのは百も承知だった、それでもそう思わずにはいられなかったのだ。 だから、傷をつけた。 こっちにもいえないかもしれない傷があるのだから、と。 親のいない時間帯を見計らって訪れてくれた白い病室で彼は一度も笑わなかった。 千歳の言葉に困ったように口角を持ち上げるにとどまった。 その時深く傷をつけてしまったことに気がついたが、もう遅かった。 自覚してしまったことがさらに自己嫌悪を増長したが、その瞬間確かに自分は心に満足が広がるのを感じたのだ。 それは独占なのか、支配なのか。 なんでもよかった、ただ、あの男の心に住み着きたかっただけだ。 失わないための予防線を張って、そこに。 そんなことを部室の窓からコートの中を駆ける少年を眺めながら考えていた、 夕暮れのコートで彼はもうひとりの自分を引きずりながらラケットをふるっている。 相手コートに打球が突き刺さるたびに少年は満面の笑みを浮かべた。 そしてまた、ボールを追う。 時間の経過すら気にしていないと云わんが如くに彼は飽きずにコートを縦横無尽に駆け回る。 目の前に永遠のライバルを思い浮かべながら、ずっと。 彼には同じような気持ちを感じては欲しくないと、千歳は思っている。 純粋に、強さを競うライバルとして、越前を心に住まわせてほしいと願う。 間違ってもライバルとの対戦を待ち望むと同時に、顔合わせたとき、笑ってくれるか、そんな心配をしなくてはいけないような関係にはなってほしくなかった。 その時ふと思い出した、コートで対峙した時、彼の表情に浮かんだものを。 はじめはチームのための重圧にだろうが、険しい表情をしていた彼が、時間が経つにつれ、一年前と変わらない少年の無邪気なそれで、目を輝かせていたあの表情を。 (そう、わらっとった、桔平) もう二度と見ることはないと思っていた、それを。 永久に、失ったとそう思っていたそれを。 千歳は思わず、頭を抑え、しゃがみ込んでいた。 失ったのだと信じていたあの笑顔は、そうだ、まだ目の前にあったのだ。 見えなくなった右目に、最後にはっきりと映ったきり、見ることのなかった笑顔が、左の網膜に映った瞬間が。 体を壁に預けて、床に座り込む。 窓の外のコートは見えなくなったが、窓から空は見渡すことができた。 奇麗な夕焼け、オレンジが世間を席巻する、たった一瞬の、それでも長い時刻だった。 それは、少女が自分を見上げ、同時に哀しい目をして、そうじゃない、そうじゃないのと呟き、駆けて行ってしまった時と同じ、色をしていた。 立ち上がり、鞄から携帯電話を取り出す。 そして、メールの新規作成からメールを打つ。 本文を打ち終わってからまた、壁に背を預け、額を両手で覆った。 無機質な携帯電話が自分の体温に順応し、段々と温度を上げていく。 その様子から、自分が緊張していることに気がついた。 今更だという気持ちもあった、それでも、区切らなくてはいけないのだとも知る。 そしてこんな卑怯な手で、彼を繋ぎ止めなくてもかれはじぶんをみてくれるだろうとも、わかっていた。 「白石」 「なんや、千歳」 「俺、最悪たい」 「は?なんや、急に」 送信ボタンを押して机の上に携帯を放った。 ガタンと木の机にぶつかり鈍い音を立てたのを一瞬白石が視線で追ったが、腕を引き、意識をそこからそらした。 力を入れすぎたのだろう、必要以上に顔が寄ったのに彼は露骨に嫌そうな顔をする。 自尊心が高い彼は衝動的になされる行為は好まないのだろう、まったくその気のない千歳相手だと特に。 千歳は白石のその表情に苦笑し、肩に顔を埋めることにとどまった。 「なんや急に、誰か入ってきたらどうすんのや、小春たちの二番煎じになるで」 「解放してやったとよ」 「は?」 「桔平」 「橘?」 「笑っとった、きっと全部ばれとったんよ」 「許してほしいの」 記憶の中の少女が繰り返す。 あの時本当はあの小さい頭に手を乗せて、わかったと頷いてあげるべきだったのかもしれない。 そうすればきっと少女はやさしく微笑んだのだろう。 きっと自分はあの少女も傷つけた。 彼女にも消えない傷を刻んだのだ。 許して欲しい、またあの少女に会うことがあったらきっと自分はそういうだろう。 一年も、一年もかかってしまってすまないと、自分の醜さと幼さをすべてさらけ出して。 今、きっと彼女は笑うだろうけれど。 彼女の兄が、許してくれたように。 「かっこ悪かね、俺」 「今更やろ」 暑いわ、アホ。 そういって引きはがそうとしない白石にありがたく思いながら、流れる感情をやり過ごす。 机の上で携帯電話が鳴っている。 これで終わるのかと思うと悲しいと思うと同時にまた、始まるのだと、泣きたいほどに。 Sub:no title 桔平、許してやるたい、謝ってこんね あ なたはやさしい +++++++++++ やさしいのは橘兄妹と白石なのでした。 コメンタリーきいて千歳は緩いんだか結局わからなくなりました。 すげえ、自分追い込んでいるイメージあったんだけど。 (無我のために自分の限界まで自分を追い込んだり、橘と試合するまで無我封印してたりいろいろ) でもやっぱり千歳は後ろ向きがいいです。 title群青三メートル手前 |