迷わず手を伸ばせ
さすれば道は開かれん






ぐ想い








きっかけは、彼の手首から消えたリストバンドだった。


夏が終わった。
そうやっと自覚ができたのは学校に行くときの自分の荷物からテニスに関するものが消えうせた九月のある日だった。
ふと、ラケットのグリップの感触が懐かしく愛おしく感じたとき、それが自分の傍らに既にないことを丸井は改めて自覚した。
自分の半身で相棒。どんな季節もどんな試合でも常に丸井と一緒にあったラケットがボールが、ユニフォームがない。鞄の容量のほとんどを占めていたテニスに関連するものはほとんど姿をけし、その代りに丸井の鞄に詰まっていたのは言いようもない空虚だった。
そしてもう一つ、丸井に夏が終わったのだとそう思わせるものがあった。
それは部員たちとの距離感だった。
この三年間、全国で名高い強豪の立海では当然のように毎日練習が行われていた。そうそれはスポーツが盛んな立海の生徒にすら呆れられてしまうくらいに、そしてその渦中にいる自分たちが自分たちに対して呆れてしまうくらいに。
それ故に、同じクラスで生活をしていない部員たちとも毎日顔を合わせたし、会話だって交わしていた。クラスメイトの馬鹿な行動や、先生の面白い話から始まり、小テストの内容まで話し合った。長期休暇だって毎日朝から晩まで一緒に過ごした。それこそ、いつも机を並べているクラスメイトよりもずっと長い時間を共有してきたといっても過言ではないだろう。
しかし、全国大会の閉幕とともに夏は終わってしまい、立海男子テニス部は他の運動部や文化部の例にもれず、下の代へと部活の主導権を譲り渡した。
それによって丸井を始め三年の生活はがらりと変化した。
放課後に練習でコートに行くこともなければ、筋トレをすることもない。学校の外周を走ることだって絶無だ。時間を共有する機会の消失。その結果、丸井は全くと言っていいほど、テニス部のメンバーと話を交わすことがなくなってしまった。同じクラスに所属する仁王を除いて。
もっと言えば顔を見る機会すらも激減した。移動教室などですれ違った時に軽く挨拶をしたり、合同授業で一緒になったときに少し話す程度にだ。テニス部の中でも特に朝から晩まで毎日丸井と一緒にいたジャッカルですらここしばらくまともに話をしていない。
だから丸井は気付かなかったのだ。チームメイトの決定的な変化に。
朝昇降口で久しぶりに会った人物は左手に自分の上履きを下げていた。朝の淡く白い光を背負いながら丸井くん、おはようございます、そう優しく笑ったのは隣のクラスの元テニス部員の一人だった。
しかし丸井はそんな彼に挨拶を返す前に、彼の体の一部へと視線を吸い寄せられてしまった。
その手に。もっと言えばその手首に。
くっきり残った日焼けの跡。本来あるものとは正反対の白色。
テニス部が共有し続けた勝利への指標。それが、彼の細い手首にはなかったのだった。

「なあ仁王」

丸井は早足で教室に入ると自分の席に向かう。そして軽い鞄から教科書を抜くのもそこそこに丸井の後ろの席で机に突っ伏している男に声をかけた。仁王は毎日の様に丸井が来る前に学校に登校し、教室の机で眠っている。寝るくらいならもっと遅く来ればいいのに。そう何度か言ったがそのたびに仁王は習慣ってのは恐ろしいんよ、と肩をすくめた。仁王は静かな教室に必要以上に響いた丸井の声に億劫そうに顔を上げた。

「なんじゃ、眠らせてくれんか」
「さっき、ヒロシにあったんだけどさ」
「おう」
「ヒロシ、リストバンドしてないのな」

 立海テニス部員は総じて手首にリストバンドを付けている。鉄板を入れ、ある程度の重量を持つそれを付けるということは普段の生活の中でも少しでも筋肉を付けえることができるようにという立海代々の習慣だ。試合の中でだってよっぽどのことがないと外さない。外すときは相手の力量に対して本気を出すという賞賛の意味を示す時くらいだ。いわば立海が最強であることを示すもので、それをレギュラーで共有していることを示す証でもあった。だから、全国大会が終わったとはいえ、次の三年間を見据え、丸井はこのリストバンドを外さなかった。
他のメンバーだって、幸村が次の三年間こそ、三連覇を成し遂げると宣言したことに対して大きく頷いていたのだ。それなのに。
丸井の言葉に仁王はうっすらと笑う。

「ああ、何じゃ今頃気づいたんか」
 
仁王は大して大事ではないといった様子であくびをするとまた腕に頭を乗せて目を閉じてしまう。

「勉強に邪魔じゃいうとったぜよ」
「勉強?」

仁王の言葉に丸井は首を傾げる。立海はエスカレーター式の学校だ。限度を超えるくらいまで落ちこぼれない限りはそのまま次のステージへと進むことができる。そのため普通に進学をするためだったらそれこそ勉強の必要など皆無だった。ましてや柳生は学校でも有数の優等生だ。必死に勉強する必要などない。ましてそれのためにリストバンドを外す必要だってない。
丸井はすうと背筋が冷えるのを感じた。それは一つの可能性を示唆していたからだ。しかしその可能性を認めたくなくて丸井は喘ぐように疑問を口にする。

「なんで」
「知らん。外部でも受けるんじゃなか。立海に医学部は無いしのう。それ以外にこの学校で、必死に勉強する理由なんてないじゃろう」

少なくとも今の時期に。その言葉に丸井はクラスを見渡す。確かに数人は外部受験をするクラスメイトがいた。家の都合で引っ越すためだったり、将来を見据えてもっと上の学校を目指すためだったり理由は様々だ。柳生もそんな中の一人なのだろうか。
そこまで考えたところで丸井は単純に嫌だと、そう感じた。何故かはわからない。それでも来年の春からの生活に彼が欠けるということは丸井にとって「ありえない」ことなのだ。

「じゃ、じゃあ、春からヒロシと一緒にいれなくなるってことかよ。テニス、できなくなるってことかよ」
「詳しいことは俺だって知らん、本人に聞けばよか」

そこで仁王はゆっくりと顔をあげ丸井を見た。そして自分の中に巻き起こったさまざまな感情を見つけたのだろう、仁王は眉を顰めた。

「なあ丸井、何あせっとんじゃ、お前は」
「そんなこと」

ねえよ。
そう答えようとしたが、丸井の咽喉からは声が出てこない。そんな丸井に、仁王は悪戯っぽく笑う。

「仲間思いって言えばいいんかのう?」



◇ ◇ ◇



「貴方のテニスはかっこいいですね」

強と呼ばれる同級生に手も足も出なかった時だ。あの時の丸井はただただあの三人を倒しこの部活で頂点を目指すべく、日夜練習に励んでいた。しかしいくら努力を重ねても三人の天才との間に横たわる実力の差は埋められなかった。その日も三強から一ポイントも取れずに負けた。悔しくて悔しくてどうしようもなかったとき、コートの外から声をかけてきたのが柳生だった。
彼は緑のフェンスの向こうで柔らかく微笑んでいた。優等生然とした佇まいで、悠々と。
丸井は思いがけない言葉に目を見張った。それは丸井が自分にテニスについてこの部活内の人に褒められたのが初めてだったからだけではない。丸井はこの絵にかいたような優等生である柳生に勝手に苦手意識を抱いていた。そしてその苦手意識故にほとんど会話らしい会話を交わしたことがなかった。そんな相手からしかも肯定的な言葉を告げられたことに嬉しいと思うと同時に戸惑ったのだ。
素直にありがとうとそういえばよかったのだろう。しかし丸井は敗戦の瞬間を見られた上にフォローを入れられてしまったことに対する気恥しさから思わず顔をそらした。

「は、何言ってんだよ。かっこよくても勝てなきゃ意味ないだろい」
「確かにそれもそうですね」

柳生は顎に手を当てて考え始めた。丸井はコートに散らばったボールを集めながら帰り支度を始める。
一通り、片付け終わったところで柳生の元に戻ると、柳生はパッと顔をあげて丸井の方を向いた。そしてにっこりとほほ笑む。

「丸井くん、いいことを考えました」
「なんだよ」
「簡単ですよ。彼ら倒す必要なんてないんです。ダブルスで頂点を目指せばいいじゃないですか」

そうしたらプレイスタイルを変える必要もないし、彼らと競合することもありません。そう、柳生は優しく笑った。
丸井はそんな柳生の発言にただただ驚くしかできなかった。どうしても花形のシングルスになりたいと思っていた丸井はダブルスを専門にするという考え方を持っていなかったのだ。そして何より、ほとんど話したことすらなかった彼が自分のことを褒めてくれ、その上、自分が自分らしいプレイスタイルを貫けるよう、考えてくれたのが嬉しかったのだ。丸井は思わず自分の口角が上がるのを感じた。

「なあ、柳生」
「はい?」
「これからよろしくな」

丸井の言葉に、柳生は一瞬驚いたように目を見開き、そして次の瞬間には笑った。

「はい」

 

◇ ◇ ◇



あの朝、柳生の手首にリストバンドが付いていないことに気づいて以来、丸井は何かと柳生のことを目で追ってしまうようになっていた。
楽しそうにクラスメイトと談笑している姿や、教科書を持ち、足早に廊下を歩く姿。風紀委員として腕章をつけて校門に立ち、校則違反の生徒を取り締まっている姿。仁王が勝手に柳生から借りた教科書を取り返しに来る姿。
それらを眺めながら丸井は彼の姿を見つけたことに少し気分が高揚するのと、同時に日焼けの跡が少しずつ薄れていっても相変わらずリストバンドを外したままの柳生の手首にどこか悲しくなるのを繰り返していた。
それでも丸井は柳生に真意を確かめることもできずにただただ遠くから柳生のことを見ていることしかできない。それは決定的な別離を突きつけられたら恐らく自分がショックを受けるだろうことが目に見えていたからだ。
そんな時だった。

「そんなに柳生が気になる?」

体育の合同授業で一緒になった幸村と授業で使ったバスケットボールをボールカゴに戻し、体育倉庫へと片付けていた時に徐に丸井はそう問いを投げかけられた。突然の問いに丸井は驚き、一瞬足を止めそうになったがその言葉を発したのが幸村だということに無性に納得をする。
特に幸村と柳に関しては他人の感情の変化に酷く敏感だった。部活をしている時は大抵の隠し事はすぐに彼らに見破られてしまっていた。その目ざとさはどうやら今も健在で、部活を離れていても余すことなく発揮されているようだった。丸井はそんな幸村に辟易しながら彼の言葉に応じた。

「そんなことねえし」
「そんなことあるでしょ。だって、お前最近、柳生のことばかり見てるんだもの」

幸村はそういうと丸井が押していたボールカゴからバスケットボールを取り出して指の先でくるくると回し始める。幸村の超然とした様子に丸井はため息を吐く。
丸井はがしがしと頭をかきながら幸村の言葉に「まあな」と答えた。

「幸村くんだって気になるだろ。柳生が受験するかもしれないってきいたらさ」
「まあ、気になるよ。もし、本当に柳生が立海からいなくなるなんて言ったら、俺は全力であいつを引き止める。柳生の将来の道なんて知らない。あいつなら絶対に勉強と部活を両立できるだろうし、何より全国制覇にはあいつの力が必要なんだ」

幸村はそこまで言うと一度言葉を切った。そして丸井へと視線を向ける。

「でも俺と丸井は、違う」

幸村はまっすぐに、丸井を見据えたままきっぱりと続けた。

「俺は柳生をテニス部から失うことが怖い。だけど丸井は違うだろ。お前が怖いのは柳生と一緒にテニスができなくなることじゃあない。一緒にいられなくなることだ」
「……」

幸村の言葉に、丸井は何も答えることができず、ただ押し黙っていた。それは幸村の言葉が図星だったからに他ならない。
そうだ、丸井が柳生がいなくなることについて恐れていたのは彼とテニスができなくなることではなかった。否、それに対しても嫌だとは思っていた。それでもまず、一番に丸井の中に去来するのは柳生が自分の生活からいなくなることに対する恐怖だったのだ。
勿論幸村や仁王が自分の生活からいなくなると思えば、自分は嫌だと思うだろう。しかしそれよりも先に来年のテニス部のことに自分は思いをはせるに違いない。
眉を顰める丸井に幸村は苦笑するとバスケットボールをボールカゴの中に戻した。そしてボールカゴを体育倉庫の奥へと押しやる。

「ねえ、丸井。後悔してからじゃ遅いんだよ」

幸村は、寂しそうに笑った。



◇ ◇ ◇



決勝の試合が終わった時だった。暴力的な日差しの中で自分の敗戦が信じられなく、丸井は呆然とベンチに座っていた。
目の前では最後の試合が始まっている。全国大会の決勝戦。対するは関東大会で真田を破った青学のルーキーだ。
手術を終え、やっと帰ってくることができた幸村が、今まで自分たちが積み上げてきたはずの責任をすべて背負って戦っている。それなのに自分たちがやっていたのはただの時間稼ぎのための試合だったのだ。この三年、幸村が不在の半年。ましてこの一か月は何だったのかと思ってしまう程に丸井はショックを受けていた。今までずっと勝ってきたというのに、最後の最後にこんな。
悔しさから丸井はギリギリと強く手を握る。色を失ってしまう程に強く。すれば丸井のその手を、白く冷たい手が抑えた。

「丸井くん、惜しかったですね」

そこにいたのは柳生だった。柳生は優しく丸井に微笑みかけてくる。その優しい表情に丸井は思わず涙が滲みそうになるのを懸命にこらえた。

「俺、自分がふがいねえよ」
「そうですね」
「幸村くんに申し訳ねえし」
「はい、でもきっと幸村くんは勝ってくれます。だから、丸井くんも次は勝てばいいじゃないですか」

負けを知った人の方が、強いんですよ丸井くん。
柳生はそう言って笑う。その表情に丸井は胸が熱くなり、今まで何とかこらえていた感情があふれるのを感じた。両目から零れたものを丸井は慌ててユニフォームで拭おうとする。すれば柳生は手に持っていたタオルを丸井の頭からかぶせてくれた。
白で覆われた世界の中で、変わらずに丸井の手を握っている彼の手の温度だけがリアルにそこにあった。
暫くして、落ち着いた丸井が頭からタオルを外すとやはりそこには優しく微笑む柳生の姿。

「丸井くん、来年も一緒に、テニスをしましょうね」
「ああ、絶対だぜ」
「はい」

コートの中では黄色いボールの応酬が続いていた。



◇ ◇ ◇



「おや、丸井くんではないですか」

学校から駅までの通学路。久しぶりにテニスをしようという幸村を待つために丸井は花壇に座り、コーラを飲んでいた。
そんな丸井の背中に唐突に降ってきた声に、丸井は勢いよく振り返る。
そこにいたのはここ最近丸井の思考を占拠する一人の男だ。相変わらずきっちりと着こなされた制服に伸ばされた背筋。そして華奢な眼鏡をかけた男、柳生比呂士だった。
丸井は柳生に声をかけられたことに自分の心臓がドキリと音を立てるのを感じた。それは柳生と話せることについて嬉しく思ったからでもあり、自分の手に持つものが風紀委員の彼に見咎められかねないものであったからだ。条件反射で丸井は手に持っていたコーラを後ろに隠した。

「げ、ヒロシ」
「なんですか、げって。ははあ、さては丸井くん、そのコーラ買い食いですね」
「さ、さあな」
「仕方ない人ですね、まあ今日は見逃して差し上げましょう」

柳生はそういうとため息を吐いた。そして地面に投げ出されている丸井の鞄に視線をやった。丸井は引退をしてもラケットバックに荷物を詰めて登校していた。しかし鞄の中にはラケットを始めとしたテニスの道具を入れていないため、いつもぺたんとしていた。
だが、今日の丸井の鞄は夏の時と同じような形状でそこにある。平たく言えばテニスをするための道具が、入っていたのだ。柳生は眩しそうにラケットバックを見やると優しく微笑んだ。

「誰かと待ち合わせですか」
「あー、そう幸村くんが久しぶりにテニスしようっていうから」
「なるほど」
「柳生も、暇ならいかねえ?」

丸井の言葉に柳生はきゅっと眉根を寄せる。そして困ったような表情を見せた。

「すいません、これから塾なんです」
「そっか、大変だな」
「そうでもありませんよ」
「だけどお前だってたまにはテニスやらねえと体鈍るぜ。たまには付き合ってくれよ」
「ええ、是非」

ではまた、と柳生は柔らかく微笑むと踵を返した。そして丸井の前を横切り、駅までの坂道を下っていく。
いつの間にか日が短くなっていた。既に赤く色づいた太陽が柳生の色素の薄い髪を照らし出している。
丸井はそんな柳生の後姿を眺めながら目を細めた。いつもそばにあった彼と久しぶりに交わした会話に丸井は嬉しく思うと同時に言葉に言い表せないような胸を締め付けられるそんな感傷に襲われていた。
今までは、そうそれこそ夏までは毎日の様に交わしていた他愛のない会話。
そんな日常でさえ、こんなにも縁遠いものになってしまっている。

このままでいいのだろうか。

柳生がゆっくりと歩いて行く足音を感じながら、一歩一歩確実にはなれていく自分と柳生の黒い影を見ながら丸井はそんなことを思った。
部活が終わったことで一足飛びに離れた距離。激減した会話。そんな変化に戸惑った秋。
そしてこのままあともう一つ、季節を越えなくてはいけない。
寒い冬。テニスをしないままに過ごす季節。
そしてめぐる春。テニス部が再始動する季節。
その時に果たして、柳生はそこにいるのだろうか。
丸井は右手についているリストバンドに視線を落とした。柳生はこれを外している。勉強をするために。
そんな柳生が春、同じ桜を見上げている保証がどこにあるのだろう。
そして彼がいない季節に自分は何を思うのだろうか。

『貴方のテニスはかっこよくて、見ていて気持ちがいい』
思わぬ相手からの賞賛。それに嬉しいと思ったことも。
『次は勝てばいいじゃないですか』
そういってゆったりと目を細めた彼の表情を見てささくれ立った気持ちが凪いでいったその時に感じた感情。
丸井が立ち止ったとき、いつも隣にいて的確な言葉をくれた、柳生。
その時に感じていた全ての思いを、感情を自分は失ってもいいのだろうか。

(そんなの、嫌に決まってんじゃん)

全てを丸井は失いたくないと思った。
それはテニスコートに彼がいないことに対しての感情ではない。
自分の手の届かないところに行ってしまうことに対しての気持ちだった。

『俺は柳生をテニス部から失うことが怖い。だけど丸井は違うだろ。お前が怖いのは柳生と一緒にテニスができなくなることじゃあない。一緒にいられなくなることだ』

幸村の言葉は、その通りだった。自分はテニスプレイヤーとしての、チームメイトとしての柳生を失うのが怖いのではないのだ。
柳生比呂士という存在を、自分の生活の中から失うことが、怖いのだ。
あの優しい笑みを、時折見せる悪戯っぽい視線を、誰のことも平等に大切にできるあの姿勢も。

(後悔は、してからじゃ遅い、よな)

まだ間に合う。途切れそうな関係は今ならまだ繋ぐことができるはずだ。
それならば、後悔なんてものはしなかったことにするより、したことに対して後悔した方が絶対に良い。
よし、と丸井は心を決めるとゆっくりと息を吐き出す、そして大きく吸い込んだ。
ちゃんと、柳生に届くように。

「ヒロシ」

大きな声をあげた丸井に柳生は驚いたように振り向いた。
茶色の髪が赤い光に揺れる。それと同時に丸井は柳生の方へと走った。
手の中から落ちたコーラのペットボトルが地面に落ちて鈍い音を立てる。だがそんなことは構っていられなかった。
丸井は手を伸ばす。揃いのリストバンドのついていないその細い手首を掴むために―。


◇ ◇ ◇


「よー待ちくたびれただろい」

昇降口に現れた人物に丸井は声をかけた。
そしてこっちだと呼ぶように手をあげると、急いできたらしい彼も丸井につられたように右手を挙げた。
慌てた様子で丸井に駆け寄るメガネをかけた茶髪の男―柳生比呂士の右手にはリストバンドはもうついていなかった。同様に丸井の手首にももうリストバンドはついていない。
それはこの前の夏で高校三年間のテニス部生活が終わったからである。そしてお互いに大学受験へと向かって勉強するためには確かに手首に負荷をかけるリストバンドの存在は邪魔なだけだった。
しかしリストバンドがないからと言って丸井はもう、心を乱されたりはしないのだ。

「お待たせしてすいません」
「いいって。まだ予備校まで時間あるだろい」
「丸井くん、ちゃんと勉強しているんですか」
「失礼な奴だな。流石にエスカレータっていっても行きたい学部行くためには頑張んねえといけねえんだよ」

そんなことを言いながら、靴をはきかえ、駅までの通学路を二人肩を並べて歩く。
空は既にくれかけており、空気はひんやりと冷たい。
そして夕日は並んで歩く二つの黒い影を地面に縫い付けていた。
それをぼんやりと眺めながら三年前の出来事を丸井はぼんやりと思い出していた。
柳生と道を違えるかもしれないと思い、焦りの中、柳生に対して思いを告げたことを。
そしてそんな丸井の気持ちを受け止めてくれた柳生のことを。
それから、もう十二の季節を一緒に越えてきたことを。
長かったようであっという間だったが、それはそれも楽しく、幸せな日々だった。
これからは進路が分かれてしまう。柳生は医学部に進学するために他の大学を受けてしまうからだ。
それでもあの時のような気持ちを忘れずにいればきっとうまくいくだろう、そんな自信が丸井の中にはあった。

(って、受験と言えば―)

と、そこでふと丸井は当時から疑問に思ったまま解決していなかったことを思い出した。

「なあヒロシ」
「はい、なんでしょう」
「そういえば、なんで外部受験するわけでもないのにあんなに勉強してたんだよ」
「・・・はい?」
「ほら、高校に進学するとき」

丸井の言葉に柳生は瞬きを数回する。
そして不思議そうに首を傾げた。

「おや、言いませんでしたっけ」
「聞いてねえ」
「そうですか、可笑しいですね」

本当に言いませんでしたっけ。
柳生はそういいながら実は、と続けた。

「親と約束したんですよ、テニス続けたいなら進学試験で一位を取るようにって…って仁王くんや幸村くんから聞いていなかったのですか」
「聞いてねえし!」

しれっという柳生に丸井は開いた口が塞がらない。否、それ以上に。

「って!なんだよあいつら知ってたのかよ」
「あいつら、とは」
「仁王と幸村くん」
「ああ、だって聞かれたんですよ。仁王くんはともかく、幸村くんが私の行動を見咎めない訳がないでしょうに」
「マジで」

ということはあの二人は状況を知ったうえで丸井を焚き付けるような言動を取ったということだろうか。そして自分は誘導をされたということか。よりによってあの二人に。
はーと深くため息を吐いた丸井に、心配した柳生が丸井の顔を覗き込む。

「私なりにテニスを続けるための努力をしていたんですよ、まだ君たちとテニスをしていたかったから」
「君たちと?」
「ええ」
「俺とじゃなくて?」

丸井の言葉に柳生は一瞬驚いたような表情を浮かべ、そして呆れたように笑った

「その手には乗りませんよ」
「その手って、どの手」
「君って人は」

ほんといい性格してますよね、とため息を吐く柳生に丸井は笑う。

部活の引退と揃いのリストバンドの欠落が齎した感情。
そして気付いた自分の中に眠っていた感情。
失われかけた、繋がり。
それを繋ぐために伸ばした手。
偶然と必然との絡んだ向こうにきっと道は続いている。
きっとこれからも、ずっと。

「ヒロシ」
「はい」
「これからもよろしくな」

丸井はそういうと柳生に手を差し出す。
そんな丸井の手を取りながら、柳生は笑った。

「こちらこそ」








+++
まるぎゅアンソロの別バージョンです。
元々はこっちで出そうと思ったんですが、仁王と幸村が出張ったので没になりました。笑
折角なのでテーマの秋の要素は出来る限り排除して日の目を見ることに。
もしよかったらアンソロと一緒に楽しんでいただけると嬉しいです。