ゆいいつ、わかっていた、たいせつなもの





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「お前がテニスを辞める日が来るとは思わんかったぜよ」

大学の食堂だった。
午前中の授業中の時間ということもあり、学生の姿はまばらだった。
そこで仁王と幸村は向かい合ってカレーを食べていた。
仁王と幸村が通う立海大学はあまり学食がおいしくない。しかしこのカレーだけは唯一食べられるものだというのが仁王と幸村の共通認識だ。
カレーをスプーンで口に運びながら発された仁王の言葉に、幸村は一瞬虚を突かれたような表情を浮かべ、そして清々しい笑みを見せた。
その笑みがまるで春の日差しのように晴れやかで、仁王は拍子抜けした。

『テニスを辞めることにした』
そういう内容のメールが届いたのは昨日の夜の事だった。
何の前置きも、予兆もなく、いきなり届いたメールに仁王は少し驚いた。
怪我をしたのだろうか、越えられない壁にぶつかったのだろうか、もしかして病気が再発したのだろうか。
様々な可能性を考えて、その果てに仁王は朝一番に幸村の所も走った。
というのも、仁王は幸村がテニスを辞めるという選択をするということは何か悲壮感を伴うものに違いないと思ったからだった
テニスに魅入られ、テニスを全ての中心に置いて生きてきた人間がそれを手放すという。
そこに何か積極的な意味を見出せという方が無理な話だ。
深くため息を吐いた仁王に幸村は楽しそうに笑う。

「俺も思わなかった。だってテニスがないと生きられないと思ってたんだ」
「でも違ったんじゃな」
「そう、違ったんだ」

幸村は高校を卒業し、大学に入ってすぐに体育会のテニス部に入った。
そこで一年生ながらレギュラーを取り、活躍をしているという噂を同じ大学に通う仁王は聞いていた。
曰く、圧倒的な技量で先輩たちに一ポイントも取らせないとか、先輩に物怖じをしなく生意気であるとか良い噂からよくないものまで様々耳に入ってきた。
それでも時折見かける幸村はそんなことを微塵も気にした風もなく、昔と変わらず悠々と校内を闊歩していた。
そんな姿を仁王は眩しいものを見るようにして見つめていた。その手には既にテニスラケットはなかった。

「この前、試合に出たんだよ」
「ふーん」
「勝った。造作もなく勝った。俺も、チームメイトもみんな勝った。完璧な勝利だった」
「へー、大学でも立海のテニス部は強いんじゃな」
「でもさ、全然心が躍らなかったんだ。寧ろああ、やっぱりな、って思った」

「その時思い出したんだ、越前くんが言った言葉を」

仁王覚えてる?俺がお前の格好して青学行った時のこと。
幸村の問いに仁王は苦笑をしながら覚えていると返した。
テニスを楽しく、とは何かと悩んでいた彼に対して気まぐれで「会いに行けばいい」と言ったのは確かに自分だった。

「お前さんと越前リョーマの間にどんなやり取りがあったかは知らんぜよ」
「ああ、そうか。話さなかったっけ。あの時、言ったんだ、キミは本当にいつも楽しそうにテニスをするねって」
「ほう」
「それで彼はなんていったと思う」

仁王はそれに、わからん、と答える。
少し考えたふりくらいしろよ、相変わらずだなあと幸村は唇を尖らせた。

「楽しそうだったよって。俺はテニスすることが楽しいけど、あんたは違うんじゃないのって。あんたにとっては誰とテニスやるか、それが大事なんじゃないのって」
「ほう」
「それを思い出して、もういいやって思った。あのメンバーだからこそ意味があって、だからこそ楽しかったんだって改めて気が付いたから。だから、辞めることにした。きっと、この先あそこまで一緒にテニスをして楽しいと思えるような仲間と出会うことはないだろうし」

大学に進む時、立海のテニス部のメンバーのほとんどが競技としてのテニスから離れる選択をした。
唯一真田がプロになるために海外に行ったくらいで、他のメンバーは基本的に部活には入らなかった。
柳と柳生は立海に進まず、他の大学を受験した。その先でもなにかに入ってテニスをするということはしていない。するとしても遊びで体を動かす程度だという。
ジャッカルも違う大学に進学をした。体育の先生になるのだという彼は勉学に励んでいるらしい。
丸井と仁王は立海に進学こそしたが、幸村と同じ部活には入らなかった。
丸井は本気でやるならジャッカルとのダブルスじゃないと嫌だといって、テニスのサークルに入った。
飲みサークルまではいかないが、遊びに毛が生えた程度のテニスをしている。妙技、と言って彼の得意技を繰り出しては女子たちから黄色い歓声を浴びる人気者を演じているらしい。
そして仁王も、自分の一番のライバルであり相棒である柳生がいないコートでするテニスに興味を持つことができず、結局部活にもサークルにも入ることなくバイト三昧の日々を過ごしていた。
その中で、幸村だけはテニスを続けるという選択をした。
初めはテニスをやめるといったメンバーをなじったり、なんでやめるんだと怒ったようにしていた幸村だったが途中からは大学の体育会に入り、今までと違うメンバーとテニスをし、最高のチームを作り、楽しくテニスをするのだと言い張った。
半分意地だったのだろう。
テニスは幸村にとって人生のほとんどを占めていたものであったし、彼の存在意義そのものだったといっても過言ではない。
だから、みんなが辞めるからと言って自分もおいそれとやめるというのは彼の矜持が許さなかったのだろう。
だがみんな知っていた。誰よりも幸村が大切にしていたのは立海というチームであり、自分たち部員だったということを。
それでも誰も何も言わなかった。言っても彼が自分たちの言葉に意固地になることだろうことが目に見えていたからだ。
柳生はそんな幸村のことを見つめながら、彼が傷つかなければいいのですが、と仁王にだけ聞こえるように言っていた。

それでも、どうやら幸村はそれなりにうまくその壁を越えたらしい。
もしかしたら意地っ張りな男のことだ、見えないところでは酷く荒れたのかもしれない。
そのとばっちりを柳あたりが受けたのかもしれない。
だが、今彼が笑っている。そしてテニスを手放すという。
あの仲間が一番大切で、共にいたことがなによりも楽しかったのだといって。
それは自分のエゴかもしれないが、何もに代えがたいほどに光栄で幸せなことだと、仁王は思う。
幸村は楽しそうにことばを続ける。

「ねえ、仁王」
「なんじゃ」
「彼は、覚えているかな。俺が仁王のフリをして青学に行ったこと」
「どうじゃろうな、そもそもお前さんのことを覚えているかも危ういんじゃなか」
「辛辣だね、もしかして仁王じゃなくて柳生?」

苦笑しながら幸村は仁王のほっぺたを引っ張った。
暫く、角度や力を変えながら仁王の頬を引っ張ってから、その手を放した。
そして両手で頬杖を突きながら俺さ、と続ける。

「もう一回あうことがあればさ、キミの言ったとおりだったよって言いたいんだよね」
「世界で活躍している越前リョーマに、お前が」
「そうそう」
「絶対覚えとらん。絶対」
「わからないよ、俺のこと好きだったかもしれないじゃん」
「お前さんのその自信はどこから来るんじゃ」

呆れたようにため息をつくと、幸村はふふふと気味悪く笑う。
と、その時、授業終了を知らせるチャイムが鳴った。
次の時間には幸村も仁王もそれぞれの必修の科目が入っている。立海大学キャンパスが広いこともあり、移動に時間がかかる。
それにそこまで授業に対して、まじめではない仁王としては早めに移動をし、後方の席を確保しておきたかった。そうしないと教室の前の方に座る羽目になってしまう。
幸村も同じことを思ったようだ。幸村は、じゃあ、今日は心配して会いに来てくれてありがとう、とトレイを持って立ち上がった。
仁王も幸村に続き立ち上がる。
そして、思い立ち、トレイの返却口に向かう幸村の背中に「幸村」と声をかけた。
幸村は、仁王の声に肩越しに振りかえる。そして仁王は、驚いたような表情を浮かべ、首を傾げるそんな幸村に笑いかけた。


「お疲れさん」


仁王の言葉に、幸村が、笑う。
その笑みが今までに見たこともないくらい、優しく美しいもので。
仁王もつられて、笑った。



「ありがとう、仁王」



きっとこの先、いくつになっても。
手にしたこの光を、きっと。






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ぼんこさんのお誕生日に捧げたお話でした!