※ぼんこさんの描かれたイラストのイメージで書かせていただいたお話です。 日常を少し変えてやるだけで 見える世界は、そのものが持つ意味は百八十度変化するんだ。 f irefly 「いくら考えても解らない」 昼休みの中庭にかしゃんと、鋭い音が響いた。 音に何事かと仁王は携帯電話から視線をあげる。すればそこには花壇に向かい仏頂面をしているテニス部の部長の姿があった。 昼ごはんを早々に食べ終わった幸村はさっきまでスコップを使って雑草を抜いたり、間引きをしたりと日課である植物の世話をしていたはずだ。しかし今、手に嵌めている軍手の中には何もない。 どうやら鋭い音の正体は鉄製のスコップを投げた音だったらしい。 少し離れたレンガの上に投げ出されてるスコップを見つけ、仁王はパンを食べるのに座っていたベンチから立ち上がった。 そしてそのスコップを拾いながら、幸村の方に向き直る。 「神の子であるお前さんが弱音とは珍しいのぅ?」 「茶化すなよ」 幸村は憮然とした表情で仁王のことを見上げた。 その表情が思っていたよりも切実そうな色を宿しており、仁王は思わず浮かべていた笑みをしまった。 そして仁王は一つため息を吐くと、幸村の隣にしゃがんだ。 幸村は膝の上に両手を置き、その上にじっと顎を乗せ、花壇の花を見つめていた。 「本当に分からないんだ」 「何が」 「越前くんの言っていた言葉の意味が」 あの夏からずっと考えているんだ、と幸村は空を仰いだ。 幸村につられて仁王も空を仰ぐ。しかしそこには既に夏の影はない。 青空は高く、透き通っているし、空気もひやりとしており、あの夏のような体中を包むねっとりとした温度はどっかに消え失せている。 そして何より、世界を真っ白に染めていた暴力的な太陽の光はまるであの姿は幻か何かだったと言わんばかりにその面影を消し去っていた。 それでも。 仁王はあの夏を今でも簡単に思い出すことができる。 そしてあの日を、我らが神の子が敗北したあの日を。 ―楽しんでる? そう、彼は言った。 全国大会の決勝、二勝二敗の状態。 この試合で全てが、この一年の全てに決着がつく試合で 。 それも立海の、誰よりも勝利だけを追い求めてきた男を前にして彼はー越前リョーマはそういったのだ。 テニスは楽しい、お前はテニスを楽しんでいるのかと。 正直言えば、仁王はあの時、越前の言葉に驚いた。 あの場面でそう言える彼に対して。そしてそんなことを、テニスのことを楽しいという尺度で考えてもこなかった自分たちのことも。 幸村もそうだったのだろう。越前の言葉に対して幸村は答えることができなかった。 幸村にとってテニスという競技は勝つためのものであり、自分の夢と、先輩たちからの重圧と、後輩からの尊敬を叶えるための手段でしかなかったからだ。 楽しむという次元で語るべきものではない、それが幸村の中の答えだっただろう。 しかし、その思想で築き上げられた王国は一年生ルーキによって瓦解させられた。 初めて味わった挫折。止まってしまった時間。そして幸村の前に聳え立つ、言葉。 きっと、幸村はまだあの夏から動き出せていないのだろう。 それは彼の迷いのあるプレイからも読み取れる。部活を離れたところで何回かテニスをする機会があったが、幸村のプレイはどこか精彩を欠いていた。 神の子と呼ばれ、部活内でも中学テニス界をも席巻したあの、圧倒的なプレイが霞んでいた。 それがきっと彼の内面の問題なのだろうということもみんなわかっていた。それでも誰も、彼が手を差し伸べられるのを望むまでは何もしないでいようとそう思っていたのだが。 幸村は、はあ、と深くため息を吐いた。 「ねえ、仁王。テニスを楽しむってなんなんだろう」 「なんなんじゃろうな」 「ちぇ、仁王もそういうこと言うんだ?柳も、皆、答えを教えてくれないんだよね」 参謀の癖に。 そういうと幸村は唇を尖らせる。 拗ねたような様子の幸村の頭を仁王はガシガシと乱暴に撫でた。 「お前は難しく考えすぎなんじゃ」 「でも、」 「ぐだぐだ悩むんじゃったらアイツに聞いてみりゃあええ。きっとそれが早いじゃろ」 「アイツ?」 「越前リョーマ」 「そうかもしれないけど・・・嫌だ」 「何でじゃ」 「だって、俺がボウヤにアドバイスを貰うってことだろ?そんなの、かっこ悪い」 「面倒くさい奴じゃのう」 煮え切らない様子の幸村に辟易しながら、仁王は立ち上がった。 幸村はテニスのことや部活のことに関してはこちらが驚くほどの行動力を発揮する癖に、自分のことに関しては酷く二の足を踏むところがある。 それは強くあろうという彼のスタンスに基づいているのだとは承知をしていたが、それでも、困るのだ。この男がこのままでは。 来年がないのであればそれでいい。だが、次の年は確実にやってくる。その時に中心にいるべきは間違いなくこの男なのだから。 さてどうすればいいか。 仁王は首を傾げる。立海のメンバーではきっと駄目だろう。だが他校の選手に幸村に対する言葉を貰ってそれを伝達するのではきっとそれは意味がない。 直接、正論を。まっすぐに。 足元に視線を落とす。とその時、仁王の脳裏に一つのデータが横切った。 くるりと思考を回転させ、そしてそれが容易に用意ができるとわかったところで仁王は顔をあげる。 そして、にやりと、笑った。 「ええこと考えたぜよ。幸村、ちょっと耳貸してくれんか」 * 相変わらずうまい、と悔しくもそう思った。 神奈川の隣の東京にある青春学園のテニスコートを見ながらため息を吐く。 コートの中は活気にあふれていた。 赤也と柳に負けた海堂と、決勝では試合の機会には恵まれなかったが越前の記憶を戻すために奔走していた桃城が中心になって後輩たちの指導に当たっている。 そんな中、空いているコートではレギュラー陣の紅白戦が行われていた。 先輩と思しき選手と試合をしている越前は、相変わらずのラケットさばきで、思わぬショットを次々と繰り出してくる。 正確無比な強打、かと思えば絶妙なタイミングでのドロップ。不意を衝くロブ。 ステップも、足の速さも抜群で、越前の基礎能力の高さに改めて驚かされる。 そして何より、彼は常に笑顔だった。 少し、人を馬鹿にしたような、それでも次はこうしてやろうという思惑に満ちた、笑顔。 格下の相手には違いないだろう、だが虎視眈々と自分の技量を試してやろうと、楽しんでやろうという姿勢がそこに見える。 両手で、頬を引っ張ってみる。 果たして自分はどうだろうか。そしてチームメイトは。 やがて日が落ちて、練習が終わると、コートの出口に足を向けた。 越前はレギュラーと言えど一年だ。先輩たちが部室に向かった後も他の一年と一緒にコートに落ちているボールを拾っていた。 やがて、ボールカゴを下げた一年がコートから出てくると、皆一様にぎょっとした目を向けてきた。 それもそのはずだ、今年の大会で戦った学校の制服を着た男が立っていたら誰だって驚くに違いない。 何の用だろうかと不審そうに見上げながらもそそくさと去っていく一年生の中、ひとりレギュラージャージを着た越前が出てくると、声をかけた。 「よう、越前リョーマ」 「なんかよう、えーと、立海のペテン師さん?」 練習見てる時から気付いてたけど。偵察ならもう少しばれないようにした方がいいよ。 呆れたように彼が言うのに対して、偵察じゃないぜよ、俺も引退しとるきに、今更お前らんこと調べても何の意味もないじゃろう。そういうと確かに、と越前は笑った。 越前と肩を並べながら部室の方へと足を向ける。 その道すがら、立海との試合のことを聞けば、全国大会のことは覚えていないけど、といろいろと話してくれた。 個性がばらばらな癖に目標が明確で、その目標に対してみんなが一致団結していて、つながりが強いチームだとか。 テニスに対して凄くストイックで、まっすぐな人たちだとか。 技術に関して言えば青学を確実に上まわっている、とか。 もうすぐ部室に着く。その段階になって、そういえばと口を開く。 「それにしてもお前はほんま楽しそうにテニスをするんじゃな」 「だって楽しいし」 「うちの幸村にも見習わせたいぜよ」 そう言い、彼に視線を向けると彼はきょとんとした表情でこっちを見つめていた。 そして悪戯っぽく、笑う。 「楽しそうだったけど」 「ん?」 「だから楽しそうだったじゃん」 「誰が」 「神の子さん?」 自分が試合をしている時はそんなに楽しそうじゃなかったけど、と越前は唇を歪めた。 「俺はテニスができればそれで楽しいけど、あの人は俺と違うでしょ」 「・・・・・・」 「あの人にとっては誰とテニスやるか、それが大事なんじゃないの」 そこまで言うと越前は足を一歩進め、至近距離に立ち、じっと目を覗き込んだ。 その双眸の中で揺れる銀色の髪の男。 しかし驚きに見開かれたその表情は正しく。 「ねえ、違う?神の子さん」 * 『もう、テニスは無理だろう』 白い病室の中で聞いた言葉。 『幸村部長がいなくっても立海の三連覇に死角はないっすよ』 赤也の言葉に胸が軋んだのは。 『手術を受けることにした』 なんで、俺は手術を受けようと、そう思ったのだろう。 『幸村』 『幸村くん』 『幸村』 『幸村くん』 『幸村部長』 『精市』 『幸村』 そうだ、俺は。 ただテニスがしたかった。 あいつら達と。 一人だけ置いて行かれることが怖かった。 自分だけあの輪の中にいないことが耐えられなかったのだ。 だから一刻でも早く、あの場所へ。あの場所へ。 一緒にいると、一緒にテニスをしているとわくわくして、楽しくて、胸がむず痒くなる様なそんな場所へ。 大好きな仲間と一緒に。 * 「なんだ精市、今日はご機嫌だな」 学校の近くのテニスコート。 ジャージを着て、靴紐を結んでいたときに頭上から声が振ってきた。 声に、幸村は緩慢に顔をあげる。 そこには部活仲間の一人、柳蓮二が立っていた。 柳の後ろでは他の部員たちが思い思いにアップをしていた。 ボールの軽いインパクト音がコートに響いている。軽い掛け声を掛けながら柔軟体操をしている人もいる。足音をさせながらコートの周りを走っている人がいる。 この音を聞いている時間が幸村は好きだ。 ゆるい音が後でとてつもなく強く、早い音に変わるのも、スイングするときにラケットが空を裂くような音がするのも。 今から考えられないような大声を出して、ショットを打つのも。 きゅっと、鋭く靴を鳴らしながらコートの中を縦横無尽に走り回る姿も。 いつも見ていたはずだ。それでもそれらが輝かしく見えるのが久しぶりな気がして幸村は思わず、頬に笑みを描いた。 「さすが柳、わかる?」 「何年付き合っていると思うんだ」 呆れたように笑う柳に幸村は頭をかいた。 「また苦労かけたみたいだね」 「お前に振り回されるのは慣れている。俺も、他の奴らも」 「はは、面目ない」 幸村はそういうと、ゆっくりと立ち上がった。 ひやりとした風が頬を撫でていく。 やっとそこで、幸村は世界が進んでいたことに気が付いた。 次の季節へ、次の年へ、そして次の夏へ。 また一緒に、テニスができる。同じものを追いかけて、同じ目標に向かって走ることが、できる。 それに気分が高揚する。自分の血液が熱くなり、体温が上がる。 楽しいと、そう思える。心から。 テニスのことを。この仲間たちと目指す未来があるから。だから。 幸村は深く息を吸う。そしてコートの中で思い思いの行動をとっていたチームメイトに、声をかけた。 「さあ皆、テニスをしようか」 * コートの中では試合が続いていた。 幸村と柳のペアに対するのはジャッカルと丸井。 くじ引きで組んだダブルスとはいえ、個人の力量に差があることもあり、試合は一方的なものとなっていた。 否、つい先日までの幸村とだったらジャッカルと丸井にも勝機はあったかもしれない。 だが、完全復活を遂げた幸村は正直相手にしたくない。 寧ろ、完全復活どころか吹っ切れた節がある幸村は今までの不調が嘘だったように、キレがある動きで鋭いショットを量産していた。 そして何より、楽しそうだった。 今の幸村には勝てる気がしないと仁王は思う。きっとあの青学一年ルーキーでさえも、今の幸村と試合をしたら勝てないのではないのではないかと思う程に。 その光景をベンチに座って眺めている時、同じく隣に座っていた柳生が小さく呟いた。 「おまじない、効いたみたいですね」 「効果覿面ぜよ」 仁王が得意げな表情を作ると柳生は困ったように笑った。 「本当、仁王くんって面倒見がいいですよね。見た目に似合わず」 「何、妬いとるんか柳生」 「まさか。馬鹿なこと言わないでください」 呆れたようにため息を吐くと、柳生は再びコートに視線を戻す。 柳生も、この夏は思うところが多くあったはずだ。 言葉にしなかった不満も、悔しさもきっと多くを抱えたまま、彼はあの季節を乗り越えた。 それでも、眩しそうに目を細めて幸村の姿を見つめる姿には、あの時にあった悲壮さは微塵もなく、それに仁王は安堵した。 「来年の夏も、暑くなりそうですね」 その横顔がやはり少し嬉しそうで、楽しそうで。 仁王は柳生にばれないように、笑った。 |