そういえば今日って七夕ですね。
練習が終わったとき、部室の中の片づけをしていた太一が楽しそうにそう呟いた。
うきうきと笑顔を浮かべる後輩に練習でぐったりしていた部員は呆れたようにそれでも弟を見守るようなそんな優しい表情を浮かべる。

「千石先輩、今日は晴れるらしいですよ」
「へー」
「きっと夜空いっぱいの星が見れるです、織姫さまと彦星さまも今年は泣かないで済みますよ」
「七夕の雨は二人の涙とか言うもんな」

まあ梅雨時だから仕方ないんだろうけどな。南がそういうと太一はそういう夢の無いこと言わないでください!と頬を膨らませた。
そんなやり取りを聞きながら千石は一人の男のことを思い浮かべていた。
天の川なんてスケールの大きいものではないけれど、それでも普段通りに生活する中では姿を見ることすら敵わない人物のことだ。
テニスの実力も、言葉通り済む次元すら違うそんな彼は今日という日に何を思うのだろうか。
(よし)
千石は鞄に練習着やテニスの道具を乱雑に詰め込む。その際に鞄の中に転がっていた携帯電話を拾い上げ、制服のポケットに押し込んだ。
そしてこの後マックに行くかサイゼリヤに行くかで揉めている部員たちの間を抜けて部室のドアに手をかける。

「じゃあ俺、先に帰るね〜お疲れ」

おい、千石。お前今日日誌当番だろ。
そんな南の叫び声を背に千石は部室を飛び出すと駅までの道のりを走りだした。
世界はオレンジ色。






々を渡る舟








『何か用か』

開口一番、もしもしすらも省き不機嫌そうに答えた跡部に千石は苦笑した。
しかしそれは聞きなれた跡部の声で、電話の出方である。しかし彼がこういうぞんざいな扱いをするのは親愛の証だということを千石は知っている。
日の落ちた住宅街にはほとんど人影はない。街灯も本来であれば家路を行く人のために灯るのだろうが残念ながら今は千石の幾道を導くだけだった。恐らくみんな家で晩御飯を食べている時間であろう。
千石は肩にかかったラケットバックの重さを感じながら、のんびりと歩みを進める。

「今なにしてるの」
『学校のコートで自主練だ』
「うわーこんな時間まで跡部くん真面目だね」
『用がねえんだったら切るぞ』

嫌そうな声音でそういわれても千石は全く焦らない。跡部がそうは言いつつも携帯の電話を切らないことを千石は知っている。
そもそも跡部は忙しかったら電話に出ない。テニスに集中したいときはなおさらだ。
そんな彼が電話に出たということは今はどうやら忙しくないのだ、そう判断し、千石は勝手に話を進める。

「跡部くん、今日何の日か知っている」
『あーん?てめえの誕生日かなんかだったか?』
「誕生日だって言ったらどうするの」
『おめでとうって言ってやるよ』
「ありがとう。俺の誕生日は11月だよ、てかそれくらい覚えていてよね」
『なんで俺様がてめえの誕生日なんか覚えなきゃいけねえんだ』
「わー流石跡部様。最低だ」

ところで跡部くんは誕生日8月だっけ?
そう軽口を叩いたら今にも殴られそうな声で凄まれる。
きっと目の前にいたら容赦なく殴られていたに違いない。彼に殴られるのは痛い。一見細く見えるが実際はしっかりと筋肉がついているからだ。
あのしなやかな動きから殺人急のパンチが襲ってくるのだ。ただその場合、千石がやり返すため跡部だって痛い思いをするのだけれど。
その攻撃も今は届かない。まったく便利な道具だと千石は思う。相手の時間や思考を離れた場所でも簡単に共有できる。
もし携帯電話があったら織姫も彦星も一生懸命仕事なんてしないのではないかと思う。川が増水して渡れなくなったって泣いたりしないのではないだろうか。
千石は足元の舗装がアスファルトから石畳へと変わるのをテニスシューズで感じながら歩みを進める。

「正解は七夕でした」
『ああ、そういえば今日は七月七日だったな』
「跡部くん、朝のニュース見てないの」
『そういうてめえは芸能しかチェックしねえだろ。なあ千石、てめえは俺様をわざわざ不機嫌にするために電話してきたのかよ』
「天の川綺麗だよ」

一瞬だけ、足を止め空を見上げる。
そこには太一が言ったように雲一つない夜空と、星空が広がっていた。
さっきまで明るかった空が嘘のように、漆黒に塗りつぶされ、そこにちらちらと星が光っている。
山みたいな暗いところから見れば文字通り降るような星空が見えるのだろうけれど、東京の明るい空でもこれだけ見ることができれば十分だろう。
我ながら気障だ。どちらかといえば跡部の専売特許のような気がしなくもない。そう思いながら再び千石は歩き出す。

「気付いてた?」
『いや、今見た。意外と見えるもんだな』
「跡部くん、俺さー久しぶりに七夕の日が晴れているの見た気がする」
『確かに珍しいな』
「今日くらい晴れてたら織姫と彦星は出会えそうだよね」

そういうと千石は角を曲がる。
そこにはライトに照らされたコートが一つだけ、闇の中に浮かび上がっていた。
そしてその中心にいる人物は、全方向からあたるライトにいくつもコートに影を落としながら、夜空を見上げている。
右手にはラケット、左手には携帯電話を持ったままに。
白いライトが彼の首筋に滲んだ汗をはじき、髪が夜風にさわさわと揺れている。
そしてそこにある表情は驚くほどに穏やかだった。試合の会場でも二人でいるときも見たことがないようなそんな優しい表情。
やっぱり悔しいけど彼は綺麗だ。
そう思いながら千石はくすりと一つ笑う。
そんな彼が、これからどんな風に表情を歪ませるのだろうか。
間違っても喜んだような表情は見せてくれないだろうけれど、驚いてくれはするだろうか。
電話の向こうから声が聞こえてくる。目の前にいる彼の横顔も僅かに口が動いている。しかし千石の耳にはもうその声は聞こえてこない。だってもう、声が届く。電波なんて不要だ。
やっぱり前言撤回だ。電波だけじゃ足りない。それはやっぱり便利でどこまでもリアルだけど、本物ではない。
千石は乱暴に携帯を閉じると、コートに入るためにフェンスの扉を押しあけた。まだ、彼は気付かない。突然切れた電話に不機嫌そうにしている。
そんな彼の背中に千石は。


「ねえ、跡部くん」


何億光年と距離が離れた星々の物語に比べたらとんでもなくスケールが小さいと笑われてしまうかもしれない。
それでも切実な距離に感じてしまうことだってあるのだといえば。
キミはまた笑うのかもしれないけれど。


「会いに来てあげたよ」


きっとこれからも、星を渡る舟に乗って。