「部長」

声に振りかえると、そこには二年生のまとめ役をしている後輩の姿があった。
ガタイはいい方だったと記憶しているが、越知からしてみると圧倒的に低い身長の彼は越知のことを見上げていた。
普段からいつも元気で、笑顔な彼が少しうかない顔をしている。何かあったのだろうか。不思議に思いながら声をかけると白い紙を差し出された。
白い紙には退部届、と歪んだ字で書かれていた。

「誰のだ」

彼が紡いだ名前は、準レギュラーに入っている二年生のものだった。
少し無口ではあったが、真面目で一生懸命で実力もある選手。レギュラーの後ろを、遅れないように小走りでついてくるようなそんな選手だった。
越知も目をかけていただけに少し、驚く。しかし、越知はその紙を迷わずに受け取った。

「そうか」
「はい」
「何か理由は言っていたか」
「…いいえ」

本当は何か、彼に伝えていたのかもしれない。それでも後輩は言葉を飲み込んだ。
それに気づいていながら、越知は踏み込まなかった。
越知は内容を確認することもなく、手に持っていたバインダーに挟む。

「受理しておく」
「…はい。よろしくお願いします」
「お前は練習に戻れ」
「…先輩は…」

彼はそこで言葉を切った。
引き留めないのか、そんな非難を感じた気がしたが、越知は気付かないふりをして踵を返す。

『越知は、氷帝の部長としては適任なんだがなあ…』

歩きながら、越知は先代の部長から言われた言葉を思い出していた。
優しい人だった。そして優しすぎた。この実力主義の氷帝の中で非情になれない人だった。
実力も、統率力もカリスマ性も、自分の方が数段上だっただろう。それでも自分が持っていないものをたくさん持っていた。
彼は、言った。

『実力も、カリスマ性もある。みんながお前の強さと冷静さに感服をしている。相談にも乗ってやる、優しいけど厳しい部長だ』

だけど。







ってからでは遅すぎる








わんわん。
風呂に行こうと廊下に出たところで聞こえた声に越知は足を止めた。
中学生のフロアは騒がしいらしいが、高校生のフロアはそれに比べたら幾分か静かである。そんな廊下に甲高く響くそれは本来合宿所で聞こえるはずのない声だった。
顔をあげ、廊下の先を見やる。廊下の突き当たりの談話スペースの端、そこにはしゃがみこむ三人の姿があった。
それは、遠野と君島、そして同室の毛利だった。何やら三人で顔を近づけて楽しそうに笑っている。
また何か企んでいるのだろうか。越知はため息を吐くと風呂とは逆方向である彼らの方へと足を進めた。

「何をしている」
「わ!月光さん」
「なんだよ、越知、脅かすな」
「心臓が止まるかと思いましたよ」
「…なんだそれは」

越知の声に三人は揃って振り返り、声をかけたのが越知と知ってほっとしたような表情を見せた。
毛利の腕の中にいたのは茶色の毛をした小さな子犬だった。
つぶらな瞳をしたそれは毛利にがしがしと体を拭かれるのに気持ちよさそうにしている。君島は恐らく大浴場から持ってきたのだろうドライヤーを手にしており、遠野は珍しく優しい表情でその様子を見つめていた。
確かに、これが平等院た大曲、もっと言えば柘植コーチや黒部コーチあたりに見つかっていたら面倒なことになっていただろう。
毛利は悪戯が見つかった子供のようにへらへらと誤魔化すように笑った。

「いやあ、合宿所に迷いこんどったんです。昼寝しとったらいつの間にか傍で一緒に寝てて。めっちゃ汚れてたんで連れてきて洗ってやっとたんです」
「…そうか」
「寿三郎、一番見つかってはいけない人に見つかりましたね」
「え、なんでっすか」
「越知君は、犬が嫌いなんです」

ね、と君島は意地悪そうな表情を浮かべて越知のことを見上げた。
君島のなにもかもを見透かしたような視線に越知は眉を顰める。

「嫌いなわけではない、苦手なだけだ」
「なんでですか?」
「犬が、俺のことが怖いらしい」
「え、ほんまですかぁ?」

うそだーと毛利は首を傾げると、犬を抱き直し、越知の方へと向けた。
その途端、犬はバタバタと暴れ、毛利の腕からすり抜けると遠野の後ろに逃げ込んだ。
越知君が怖い顔するからですよ、と君島は笑い、遠野は高く笑いながらその小さな子犬を抱き上げる。
毛利は一瞬困ったような表情を浮かべ、子犬のことと越知のことを見比べている。
こういうことは昔からよくあったため、越知にしてみれば慣れている光景ではある。
だからあまり小動物には近寄らないようにしていたのだが、どうやらいらない気遣いをさせてしまったようだと越知は思った。
特にこの後輩はそういうことに敏感だ。気にするな、そう言って立ち去ればいい。越知がそう思い、口を開こうとした瞬間だった。
困ったような表情を浮かべていた毛利がぱ、と表情を明るくし悪戯っぽく笑う。

「月光さん」

と、毛利の手が越知の方へと伸ばされたと思うと、越知の手を掴み、自分の方へと引き寄せた。
斜め下の方から引かれて、越知は図らずともしゃがむ羽目になる。
素直にしゃがんだ越知に、毛利はにっこりとほほ笑んだ。
四人の視線の高さが揃う。

「そりゃ、あんな高くから見下ろされたら怖いに決まってるじゃないっすか」
「……」
「でもこれで大丈夫っすよ?」

毛利は遠野の腕から子犬を抱き上げると越知の方へと差し出した。
今度は犬は逃げずに越知の方を大きな目で見つめている。ぱたぱたと尻尾を振りながら。
越知が手を差し出すと、毛利はそのまま越知へとその子犬を渡した。
ふわふわとした毛並と温かい体温がじわりと伝わる。
越知が腕で抱きかかえても子犬は逃げ出すそぶりを見せない。むしろシャツに顔を擦り付けるようにしてくうん、と甘く鳴いて見せる。
驚く越知に毛利はほら、と自慢げにいい、その子犬の頭を優しくなでた。

「月光さん、ちゃんと歩み寄ってあげないとダメなんですよ?」
「……」
「月光さん、来る者拒まずで去る者追わずなんですもん。嫌いか好きかも意思表示してくれへんと勘違いされて終わってしまいますよ?この犬だって、月光さんが歩み寄らんかったら月光さんのこと、ただ怖い人って思って終わってしまったやろうし」
「……」
「月光さん、ほんまは優しくてええ人なんやから」

勿体ないっすよ?
毛利はそういうとにっこりと笑った。
越知は腕の中にいる子犬と、毛利の顔を見比べながらそうだな、と苦笑した。
そんな越知を見ながら、毛利はにこにこと笑っており、遠野は笑いをこらえており、君島はにやにやと意地悪い笑みを浮かべながら肩をすくめる。

「お前恥ずかしい奴だな」
「え?そうっすか?」
「寿三郎、私はドライヤーを風呂場に返してきますね」
「あ、育斗さん、俺もこいつに牛乳買ってやりたいんで一緒に行きます。月光さん、犬よろしくお願いしますね」

名前どうしましょう?そんなことを言いながら君島と一緒に去っていく毛利の背中を見ながら目を伏せた。
そんな二人の背中を見送りながら遠野が低く笑う。

「全く、毛利って面白い奴だな」
「そうだな」

ふわふわとした毛並の子犬の頭をゆっくりと撫でる。
子犬は気持ちよさそうに目を細めている。
思えば、越知は一度もこうやって誰かに対して歩み寄るということをしてこなかった。
いつも、高いところから見下ろして、視線を合わせてやることも気持ちを理解してやることもしてこなかった。
来る者は拒まず、去る者は追わずに。
恐怖されることも忌避されることも自分の身長と目つきの悪さを言い訳にして。
それでも、この後輩は何時だってそんな越知の心を簡単に踏み越えてくる。
本当に越知のことを理解しているのかそうでないのか判然とさせないで。それでも的確に。
それがとても嬉しいのだということを、越知はこの男に出会ってから初めて知った。
そしてようやく気付くのだ、自分が今までどれだけの人間関係から逃げてきたかを。
彼らが自分に何を求めていたのかを。

(お前もそうなのだろうか)

全幅の信頼と、尊敬を向けてくれる毛利という男も、常に自分を追いかけてくる彼も、もし越知が手を伸ばさなければそのままになってしまうのだろうか。
なんの言葉もなく、背を向けられたときに手を伸ばさずにいたら、今までと同じように失うだけなのだろうか。
もしそうなのだとしたら、それは。
越知は、シャツを握りしめる。胸が痛んだような、そんな気がしたからだ。

『月光さん、ちゃんと歩み寄ってあげないとダメなんですよ?』

そのときはきっと、この手を伸ばそうと越知はそう、思うのだ。
彼が自分に手を伸ばしてくれたように。
自分がこの犬に歩み寄れたように。


きっと。