いっそ憎らしいほどの青空だった。
透き通って高い青。
そのしたで、ネットの向こうの対戦相手は得意気に微笑んだ。
滴る汗が陽光を弾く。
運動の所為かはたまた勝利の高揚の所為か、彼らの頬は赤く上気している。
それを見ながら、自分の中の感情がぴたりと動きを止めていることに気がついた。
彼らが喜ぶ様も。
観客の興奮した声も。
そのなかでただ自分だけが立ちすくんでいた。
取り残されてしまったかのように。

ああ、こんなに世界は美しいと言うのに。







I t was such a sunny day








「脱臼は癖になる、気を付けろ」

するすると巻かれていく白い包帯に、毛利ははあい、と間延びした返事を返す。
医務室の窓からは柔らかい日の光が注ぎ、白いシーツやカーテンに光が反射して、室内の明度は高くなっていた。
そして同様に銀色の髪と、そこに差し込まれる青色をした髪も陽光を反射して淡く光っていた。
その様をぼんやりと毛利は見ていた。首は三十度斜め上。
簡易ベッドに腰掛ける毛利の前に立ち少し背を屈めるようにして手慣れた様子で手当てをする越知は相変わらずの無表情だった。
静かな医務室にしゅると布の擦れる音だけが響く。まるで世界から隔絶されたみたいに。
大きくて武骨な、それでも綺麗な越知の手が大切なものを扱うように毛利の手当てをすることにいたたまれなくなり毛利は越知に対してへらりと笑った。

「月光さん、うまいっすね」

しかし毛利の言葉は越知によって黙殺されてしまった。
ぽっかりと、無駄に部屋に響いた言葉が宙に浮き、行き場をなくしてしまう。
それでも真剣な表情で作業を続ける越知に毛利は口を噤む。それ以上なにも言わなかった。否、なにも言えなかった。
大抵の人は越知のこの表情を見たら越知が怒っているのではないかと思うのだろう。
しかし、毛利は越知が怒っている訳でも、不機嫌なわけでもないことを知っていた。
越知は鋭い目付きをしている上に基本的に何が起きても無表情を貫く。それ故、冷たい印象を周囲に与えてしまっているが実際はそうではない。
誰よりも他人を心配し、思ってくれている。ただそれを言動や行動に示すことが苦手なので結局は冷たいとか他人に無関心といったように映ってしまうのだけれども。
毛利は越知をずっと優しい人だと思っていたし、そうであることを知っていた。
しかし、その優しさを目にする機会はこの合宿に参加しているメンバーの中で一番近しい関係にあったと思われる毛利ですらほとんどなかった。
それは今日まで。
誰かに対して優しさを見せる越知を毛利は今日初めて見た。
そしての優しさの対象はあろうことか、自分で。
他の試合の見学を放棄してまで自分を医務室に連れてきてくれたことも。
いつも冷静でテニスに対して酷くストイックで礼節を大切にする人が、試合が終わった瞬間、対戦相手との挨拶の前に腕が外れうまく動けない自分を助け起こしに来てくれたことも。
しかし、それがきっと最初で最後なのだろうと、毛利は知っていた。
そしてそれの原因が自分にあったことが、その上、結果として自分の無茶が彼の手を煩わせてしまったことが、この大事な局面でさせてしまったことが何よりも悔しいと思う。
越知の手が、毛利の肩から離れる。そこで初めて越知と目があった。

「終わったぞ」
「あ、はい。わざわざありがとうございます」
「お前はすぐ無茶をする、もう少し自分を大事にしろ」
「もうしませんから」

ね、と笑いかければ越知は満足げに小さく頷いた。
正確には、無茶をする必要がなくなってしまったが正しいのだろうと、右肩が痛むのを感じながらぼんやりと思う。
毛利は視線を少し下げる。
ほっそりとした白い首が見える越知のユニフォームの襟元。
小さく、穴の開いたその場所。
そこに先程まであったはずのもの。
そして今は不在となってしまった、場所。そこを毛利は見つめていた。
反射的に、動く左の手で自分の襟元を探るが、越知の襟元同様やはり毛利の襟元にももう、何もない。
物を大切に扱わない自分が大切にしていたもの。失くさないようにずっと大切にしていたもの。自分と彼の誇りだった数字は。
日本代表の、数字。頂点の10人だったという印。二人で日本を代表するダブルスだったという証。
最強だったという証明。
それはなくなってしまった。
たったひとつの試合で。たったひとつの敗戦で、それは容易く失われてしまった。
それが脆く、頼りない場所にあった栄冠だったとわかっていたのにも関わらず。
毛利は強くそこを握りこむ。体の中を駆け巡る感情を押さえつけるように強く。
襟元をじっと握りしめたまま動かない毛利に、越知はゆるくため息を吐いた。そして襟元を強く握りこんだ毛利のの手の甲をその大きな手で包む。

「悔しいか」
「悔しいにきまっとるやないですか。だって折角10人の枠に入れたんですよ」
「そうだな」
「せっかく頑張って追いすがってきたのにこんな」
「ああ、だが」

「お前なら来年、またここに戻ってこれる」

平然と、超然と。いつものように感情を見せずに越知はそう呟いた。
その言葉に毛利は顔をあげる。
そして反射的に違うと、そう反論をしようと口を開こうとした。
しかしその瞬間喉が詰まり、言葉にならない。代わりに漏れたのは、熱い呼気だった。

(来年なんてないやないですか)

だって、あなたはこの合宿が終わったら高校を卒業してしまう。
そしてその先にある大学や、プロの道に進んで行ってしまう。下手したらテニスを辞めてしまうかもしれない。
この人との来年なんてないのに。ここに貴方と目指す世界最強の未来なんてないのに。
その背中を追いかけて、やっと同じフィールドで並び立って、ダブルスを組んでここまで勝ってきたというのに。
この一敗で、全てが終わってしまうだなんて。
そう思った瞬間、胸のあたりが熱くなった。
ぽたり。涙の雫が膝に落ちる。
毛利は慌てて腕で目を拭う。

「月光さん、すいません」
「何故謝る」
「わかりません」

しかし、一度決壊した感情は、留めることすら敵わず、ぽたぽたとユニフォームに落ちては吸い込まれていく。
じわじわと赤黒く広がっていく染みを自覚しながらそれでも止めることはできなかった。
と、ひやりと冷たい指先が毛利の頬を滑る。
顔をあげると、眉根を寄せた越知の表情が目に入った。
その表情に、余計に涙腺が刺激され、視界が歪む。

その瞬間だった。

「寿三郎」

後頭部に越知の大きな手が伸ばされそのまま強引に引き寄せられる。
抗う隙もなく、毛利の頭は越知の胸より少し下の位置に納まった。
溢れる感情と、熱い息が混じりあい、越知の胸元がじわじわと熱く湿っていく。
離れようと体を起こそうとするがあまり強い力ではないにも関わらず、毛利は体を起こすことができない。
それは毛利の頭を自分の方に押し付ける右手だけではなく、左腕がそっと毛利の背中に回されていたからだった。
毛利は左手で越知のジャージを掴む。
そして越知のジャージに顔を押し付けると瞼を強く閉じた。
溢れた涙は頬を伝わず、そのまま吸い込まれていく。次々と。
その間、越知は何も言わずじっと毛利を抱きしめていた。

「落ち着いたか」
「はい」

漸く涙が止まったところで、毛利の頭を押さえていた右手も、左腕も越知はあっさりと離した。
毛利は子供のように泣いてしまった自分を恥じながら、赤くなっているだろう目元を拭う。
顔をあげると越知のまっすぐな強い視線が毛利を捉えた。
鋭さの中にある優しさ。それらがしっかりと毛利に突き刺さる。

「寿三郎」
「はい」
「まだ終わりじゃない、また取り返せばいい。それに卒業まで時間はある、その先も」

「だから早く治せ」

俺だって、年下に負けるのは悔しい。
越知は自分の感情を恥じるように目を伏せた。
そんな越知の言葉に毛利は目を見張る。
そして同時に自分の短慮な思考回路を恥じた。負けた原因を自分で自己完結をして、卒業という二文字で勝手に自分だけで諦めて、自分だけが悔しいような振りをして。
言葉の表層だけを受け取って自分だけが不幸な振りをした。
年齢が違ってもダブルスは一心同体、そう強く思い込んで一緒に走ってきたはずなのに。
毛利はまだ薄く涙が滲むのをジャージの袖で乱暴に拭った。

「月光さん、俺もっと強うなりますから、だからまた二人でダブルス組んで、今度は勝ちましょう」
「ああ」
「すぐ追いかけますから」
「ああ」
「俺しつこいんで覚悟しとってください」

「楽しみだな」


越知の笑顔に。
毛利は少し腫れぼったい眼を自覚しながら笑みを返す。
越知はそれに満足そうに頷いた。



窓の外に視線を向ける。
そこにあるのは眩しいくらいの青。
それは、とても綺麗な色。

いつか、あのあおぞらのした。
あなたと笑っていられますように。
あんな、悔しい日もあったと、隣で




もう、何もかもを手放さないとそう誓った。
それはある晴れた日のこと。