だからずっと走るのだ。





時が止まったのだと思った。

全国大会の会場は喧騒に包まれていた。
暑い風に、暴力的な光線を届ける太陽に。そしてそんなのお構いなしに響き、コートを席巻する熱い歓声。
そんな中で毛利は同級生に交じって声をあげていた。
本当はあのコートに立つだけの力量を毛利は持っていた。実際関東大会まではレギュラーとして試合に出してもらったりもした。
一年にしては大抜擢だった。しかし、全国大会は自分からそれを辞退した。
毛利は確かに強かった。しかし、別に圧倒的に強かったわけではなかった。
一年の中では群を抜いていたし、二年生の相当数は圧倒出来ていただろう。三年だって何人かは毛利よりも実力が下だった。
しかし、レギュラーとなれば話は別だった。この部活をここまで連れて行くだけはあると舌を巻くほどの実力は確かにある。
毛利だって勝てない訳ではなかった。それでも彼らがこの場所では自分よりも強いであろうことはよくわかっていた。
まず、学校への愛着。三年というプライド。最後という、特別性。
強い思い。それは時に実力なんて簡単に凌駕する。それを毛利は知っていた。だから、どこか一試合くらい出るかと誘われたときだって首を縦には降らなかった。

「ゲームセット、ウォンバイ立海6-4」

審判が、勝敗をコールする。途端、毛利の左右の同級生は歓声を上げた。それに倣い毛利も右腕を空に突き上げた。
まさに試合は一進一退の攻防を繰り返している。
今までストレート勝ちをしてきた立海にしては珍しく、ダブルスを立て続けにとられていた。
そしてやっとシングルスで二つ取り返す。すべては最後の大将戦にゆだねられた。

「部長なら絶対大丈夫だよな」

隣で、自分よりも背の低い同級生が心配そうに毛利を見上げていた。
それもそのはずだった。
今、立海に対するのは関東大会の決勝で立海にボコボコにされたはずの学校だったからだった。
ストレート、ひと試合15分で片の付く秒殺の試合だった。
しかし今ならわかる。あれはただ温存したのだ。全国大会に旋風を起こすために。
氷帝学園。
東京都にある中学校。テニスの実力は中堅クラス。しかし偏差値の高さと学費の高さで有名な学校だった。

ベンチでは先輩たちが円陣を組んでいる。
うなだれているのは負けたダブルスの先輩たちだろう、それを部長が宥めていた。
後は任せろ、そういってハイタッチをしている。そして王者の風格を漂わせ、コートに入っていった。
辛子色が緑のコートで鈍く、光る。

と、その瞬間だった。

時が止まったような気がした。
正確には空気が凍ったような錯覚。
すらりと高い身長。
銀色の髪。
氷帝の部長がコートに降り立ったその瞬間、会場の空気が一変する。
決して熱い闘志を燃やしている風ではなかった。
しかし、どこかひやりとするような静謐な空気の中に、強い思いが見え隠れする。

試合開始のコールと同時に放たれる、完璧なフラットサー ブ。
ネットの上ぎりぎりを高速で通過するそれ。
会場の誰もが息を飲んだ。
どう考えてもプレッシャーがかかる試合だった。
負ければ敗退、勝てば全国の決勝戦。
百戦錬磨の立海の部長でさえも、少し表情をひきつらせて いるのにも拘らず。
彼は。
氷帝の部長は、ただ、何でもないと言わんばかりに冷静に ボールをうち続ける。
ネットになるかもしれない、ラインから出るかもしれない 。
そう、迷いそうになるような際どいコースを正確無比に突き続ける。
歓声も、夏の暑ささえ彼には届かないと言わないばかりに 。
決まったボールにガッツポーズを見せることもなく、せっかくの決め球を立海の部長が鋭いリターンでポイントを奪って見せたとしても動揺すらなにも見せずに淡々と。
その髪の間から見える双眸はただ、勝利だけを見据えて。

そんな敵校の部長を毛利は呆然と見つめていた。
既に立海の部長の息は上がっていた。その横顔にはいつもある王者の余裕や威厳は微塵もない。
技量も、必殺技も。全てにおいて申し分のない立海の誇れる部長。
しかしその人物が立たされる劣勢に、毛利はやっぱり全国大会は怖いところだと思う。
立海は強い。申し分なく強い。それでもそこに慢心がないかと言われればきっとそれは、否。
14年連続関東大会優勝校。そして同じ数だけ全国に進んでいる強豪校。それが全国大会に進んだことのないこんな中堅校に負けるわけがないという慢心。
その点、今年の氷帝は勝利に貪欲だった。
冷静に、そして確実に。実直に勝利を追い求めてきている。強い意志を、もって。
それは、きっとこの部長の方針なのだろうと、毛利は思った。
そして愕然とした。立海なのだから、そして何よりもこの自分が負けるはずがないという思いを抱えていた自分に。
勝たなくてはいけない、ではなく、勝ちたいと思っていなかった自分に。

(かっこいいテニスをする人やなあ)

決して派手な必殺技を繰り出すわけでもない。
強いて言えば常人よりもはるかに高い身長から打ち下ろす高速サーブ。しかしそれだけだ。
他には全く言っていいほど派手さなんて微塵もない。
お坊ちゃま学校と聞いていた。しかしそこには金持ちの持つ軽薄そうな派手さなど全く感じない。
ただ実直に、基本に忠実な、静かなテニスだった。
まさしく、氷を冠するにふさわしいような。それでも表に見せない強い勝利の渇望をその双眸に宿す。

(あの人と、同じ景色を見てみたい)

毛利の周りで騒いでいた同級生も、相手校の応援団も。
そして偵察に来ていた他校の生徒すらも、息を飲んで試合を見守っている。
顔を覆う同級生、先輩たち。
誰よりも泣きそうな横顔な部長を尻目に。
ただ相変わらず冷静に、しかし確かな足取りでコートを去っていく氷を冠した部長の背中を、毛利は見えなくなるまでずっと見つめていた。





p lace oneself by the side of








「って、あれ」

意識が覚醒して一番に目に入ってきたのは見慣れた天井だった。
毎朝目にする天井。そして今自分が横たわっているのは自分が夜眠り、朝目覚めるベッドだった。
体を起こそうとするが鉛がつまったように動かない。その上、頭はふらふらとしておりかすかに気分が悪い。

(確かさっきまで)

視界が揺れるなか懸命に先程までの状況を思い出そうとする。
さっきまで真夏の太陽の下を確かに走っていたはずだった。
いつものようにぐんぐんと進んでいってしまう赤いジャージの集団の背中を見ながら必死に追いすがろうとしていた。
特にその中の一番高い背中を必死に追いかけていた。
しかし、途中で意識がもうろうとしてきたような気がする。走らなければと必死になりながらも、思わず足が止まって、そして。

「起きたか」

ふと、落ちてきた声に顔を向ける。
そこにはやはり見慣れたルームメイトであり、パートナーである先輩の姿があった。
ぼんやりとした視界の向こうに佇む人は銀色の髪に青が入った下の双眸をきゅっと細めている。
もともと目付きが鋭く、慣れるまでは何を考えているかわからない人ではある。
それでも、今、彼が自分を心配していることはよく伝わってきた。
ひしひしと。
ということは、なにか自分は心配をかけるようなことをしてしまったのであろう。

「あれ、俺どないしたんですか」
「ランニング中に倒れた。熱中症だ。水分を取っていなかっただろう」
「ああ、熱中症…」

そう思ってみれば確かに自分の身体は冷やされていた。
頭には水で濡れたタオルが乗っていたし、脇の下や関節には氷嚢が当てられている。
昔、自分も後輩の看病を行った際、よくやったものだった。
まさか高校生になってまで、誰かに看病されるとは思っていなかった。しかもこの身長とがたいだ。そうそう倒れるとは思っていなかった。

(水分取っとったんやけどなあ)

「えろうすんません、月光さんが看病してくださったんすか」
「俺は運んだだけだ、さして問題はない」
「あーまあ身長的にそうなりますよね」
「最近、練習がきつかったからな。疲れていたのだろう」

そういうと越知は背を屈め毛利の頬に触れた。
大きくて冷たい手の甲が、手のひらが触れるのがくすぐったく、そしてその冷たさが気持ちいい。

「熱は下がったようだ」
「あ、はい」

もう元気っすよ、と体を起こせないままに拳を振り上げると、越知は困ったような表情を作り、毛利の髪をくしゃりとなでた。

「あまり無理をするな」

飲み物を取ってくる。

越知はあっけなく手を離すと踵を返し、扉へと向かう。
そのすらりとした大きな背中が扉の向こうに消えたのを確認すると毛利は深くため息を吐いた。
そしてじりじりと体の中にくすぶる焦燥を感じながらぎゅうと目を閉じる。

(無理するななんて殺生なこといいはるんやから、月光さんは)

無理なんてしているつもりは毛利にはない。
ただ立ち止まれないと思うだけだ。
毛利はこの合宿に来てから、一軍に上がってからただずっと越知の背中ばかり追いかけている。
正確には、一軍のメンバーの背中を、なんだろうが、ただ毛利は彼らの背中を追いかけている。
いや、追いかけることしかできないのだった。
二年の年の差なんて大したことないと思っていたのに、実際蓋を開けてみればそれは大きな差だった。
体格、骨格。持久力、筋力。
二年間、しっかりと鍛え上げられた彼らの肉体は想像以上に強靭だった。
ましてあのコーチたちが付いているのだ、巷の高校生たちに比べてしまえば完全に雲泥の差だった。
立海の先輩たちだって歯が立つ人間が何人いるのか毛利は分からない。

毛利は中学校時代碌に練習をしてこなかった。
練習をしなくても勝てたからだった。
追いかけるべき人もいなかった。
才能という観点は確かにある。しかし努力は、決して裏切らないのだ。基礎的な部分で言えばそれは確かに。
三年間、もっと練習をしていれば。
その分を取り戻すために、毛利はただ必死になっていた。

(三年と言わずずっと努力していたあの人を追い抜かすなんてできんのやろうけれど)

だから、せめて、追い抜けないとしても、隣にはせめて立ちたいと思う。
他でもない、あの人の隣に。

(一緒に勝ちたい)

勝たなくてはいけない、でもない。
勝って当たり前、でもない。
勝ちたい、彼と一緒に勝ちたい。
同じ景色を見たい。同じ思いを共有したい。

あの試合で彼の瞳から感じたあの強靭な思いを、一緒に抱えて走りたいと思う。

それは中学校三年間でついぞ毛利が抱かなかった感情だった。
彼の試合を見て、ショックを受けたのにも拘らず、結局、立海として勝つのが当たり前で負けないのが当たり前。そのモチベーションしか毛利にはなかったのだ。
だからこそあのすべてを突き破る、矢のような強靭な願望を毛利は大切にしたいと思う。
彼と一緒に、戦い続けていけるように。
まっすぐに。

そこまで考え布団を抱き込もうとした瞬間、首筋に冷たいものが当たった。
ひやりと冷えたアクエリアス。
緩慢な動作でそれを受けとると、越知は寝るんだったらこれを飲んでからにしろ、と呟いた。

「俺は練習に戻る。お前はもう少し休んでいろ」
「えー月光さんいってしまうんですか〜」
「当然だ」

そう、踵を返そうとした越知に咄嗟に毛利は手を伸ばす。
置いて行かれてしまうのではないか、そう漠然とした不安に襲われたからだった。
憧れた赤いジャージ。自分の枕元にもある同じ色のジャージ。そこに手が届く。
微かな優越感を感じ、毛利はそれを思いっきり引っ張った。
越知は怪訝そうな表情で毛利を振り返る。
振り返ってくれた、そのことに毛利は満足をした。
安い感情だった。それでもただじりじりとした焦燥がゆっくりと薄れていく。
まだ追いつける、そう思う。
追いつきたいと、そう思う。

「月光さん」

「俺、めっちゃ無茶します。やって俺、つようなりたいんやもん」
「……」
「だから月光さん」

「絶対勝ちましょう」

立ちふさがる敵は全て。それがたとえ高い世界の壁だったとしても。
一試合でも多く、一瞬でも長く、貴方と同じ景色を見ていたいから。



毛利の言葉に、越知は長い前髪の中に隠れた双眸を一度大きく見開き。
そして微かに表情を緩めた。

「ああ、そうだな」




長いテニス人生で交錯したのはたった一瞬。
それでも。
同じものをめざし同じものを手に入れる時間は。
たった数か月のその時間は。
何物にも代えがたく、この胸に息づくのだ。





それこそ、永遠に。