「今度、真田が帰ってくるらしい」

仕事が休みだったのか、事前の連絡ひとつよこさずに、突然柳が勤める大学の研究室に現れた男は、挨拶を口にすることもなく、開口一番そう言い放った。
そして、それに眉根を寄せた柳のことを無視すると、不躾な来訪者、幸村精市は、勝手知ったるといわんばかりに柳の研究室に踏み込み、慣れた手つきで自分用のお茶を用意し、ゼミ生が座るべき机に座った。そして自分の目の前に柳に座るように促した。
柳はため息をわざと幸村に聞こえるようについた。が、幸村はそれを気にすらしない。柳がしかたなく立ち上がり、自分のパソコンの前から自分用のコーヒーを手に、幸村が指定した椅子に移動する間に、幸村は自分のカバンとさっき買ってきたのだろう本屋の袋の中から数冊の雑誌を引きずり出していた。それは一様にテニス雑誌であり、その表紙は先日の世界大会で初めて優勝した男の写真で埋め尽くされていた。
精悍な顔つきをした男は、昔と変わらない、しかしどこか大人びた表情で、黄色いボールを追いかけている。

「そうか」

 机の上に広げられたテニス雑誌のいくつかは自分も持っているものだったが、その中から数冊自分が持っていないものを見つけ出し、ページを繰った。海外の知らない選手の中に、何人か見知った顔と、そして彼が写っている。真剣で、まっすぐな視線。それは自分たちが好む彼の強さの象徴だった。幸村は柳が雑誌を捲る様子を楽しそうに眺めながら、お茶を飲んでいる。

「しかもテニスやろうって言ってきた、絶対嫌だけど」
「精市は負けず嫌いだからな」
「俺があいつに負けるとでも」
「負けるだろう、仮にもあいつは今や世界指折りのプレイヤーだぞ」
「でも、俺はあいつの前ではいつだって最強でいたいんだ」

 現役時代は一回も負けなかったんだから。そういって幸村が握った手は、確かにもう、テニスをする人間の手ではなかった。ジャケットに隠されてはいたが、その腕も同様だ。元々太くも頑強でもなかった幸村の腕だったが、それとはまた別の貧弱さをそこからは感じる。
 対して、真田の腕は、あの時と比べて明らかに太いというわけでもなかったが、健康的に、そしてきっちりと鍛錬を経て鍛え上げたのであろう腕をしている。そこにはどうあがいても幸村が勝てそうな要素は見当たらない。もっとも、と柳は自分の腕に視線を落とす。研究室での勤務に終始する自分にはすでに現役時代の筋力の片鱗すらない。現役時代ですら彼に勝つことができなかった自分は、まさに論外だった。柳は苦笑する。

「テニスは無理だが、酒でも飲みに行くか」
「お前絶対日本酒好きだろ」
「イメージだけで語るな」
「真田は、ワインとか飲むのかな」

幸村は一瞬虚空に視線をうつした。どうやら真田がワインを飲む姿を思い描いているようだったが、しばらくして似合わない!と大きな声で笑った。

「でも俺たちが酒飲みに行くとか、面白いな」

幸村の言葉に柳は頷いた。
時々、学校帰りのコンビニに寄った時に見かけた酒や、金曜日の夜にご機嫌で駅へと向かうサラリーマンの姿を見ながら、自分たちもこんな大人になるのかと胸を躍らせたり、がっかりしていたことを柳は覚えている。
二十歳は、当時の自分たちにとって永遠に感じられるほどに遠いものだと思っていた。親に舐めさせてもらったアルコールの味はお世辞にもおいしくはなかった。こんなものを好  んで飲む大人など理解ができなかった。
しかし、今やゆうに自分たちは二十を超えていて、そのアルコールを好んで摂取しているのだから、時間の流れとは不思議なものだった。
柳は冷めたコーヒーを喉に流し込みながらページをめくる作業に戻った。手塚に跡部。越前も、そして切原の姿もある。 切原なんて、つい先日まで丸井あたりと一緒にふざけていたのにな、と柳が感傷に浸るくらいには彼らも大人びた表情をしている。
そしてこうやって自分たちの姿を客観的に見ることなどないから、気がついていないのだろうが、きっと、自分達も一緒なのだろう。大学で、だんだんと年を取っていく自分も。一般企業で荒波にもまれながら、だんだんとくたびれていく幸村も、きっと。
しかし、それと同時に言えることがもう一つあった

「ねえ、柳、俺たちは大人になったかな」

柳が口を開こうとした瞬間、同じタイミングで、幸村は呟いた。その表情は、いつか部室で見たものと重なる。変わった部分も確かにあるが、と柳は思う。この男も、年を取ったのかもしれないし、大人になったのかもしれない。それでも、確かに変わっていない部分を持ち合わせてもいる。年月の変化は確かに大きい。それでも、人間の形質を変容させてしまうまでは長くないのだった。
特に、自分たちの間にあるものを変えるには。

「なったのかもしれないし、なっていないのかもしれない」
「相変わらず回りくどいな」
「俺ば少なくとも俺は、お前たちの前では参謀柳蓮二に戻る」
「なるほど」

ということは、俺もお前と真田と居る時は神の子に戻っているんだ?
その幸村の言葉に、柳は頷く。そして同時に先日の真田の言葉を思い出した。それは、先日の大会の時のもので今回の優勝を誰に一番伝えたいかという質問に対する回答だった。
遠くに行ったと思っていた。見知らぬ土地で一人奮闘する姿に、彼だけが一足先に大人になってしまったのだと愕然としていた。それでも、その言葉に、柳はなんだこの男も大概変わっていないのだと拍子抜けしてしまった。

『中学時代の、友人二人に』

練習試合で大学の先輩に勝った時。ライバルに勝った時。はしゃいでいたようには見せなかったが、一番に彼は自分たちに報告に来た。それは勝敗の結果を柳がつけていたから、というのも少なからずあっただろうが、自分は負けなかったことを、暗に自慢していたのだ。
勝つのが当然だったとはいえ、勝利が誇らしくなく、自慢でない人間などいないのだ。
あの時は、そうか、とだけ返したが今度会ったときは、おめでとう、といってやろうと柳は思う。

「変わらないよ、お前も俺も。あいつも」
「そっか」
 そういうと、幸村は上に向かって伸びをした。そして、机に頬杖をつくと柳に対してにっこりとほほ笑んだ。
「柳」
「なんだ」
「俺は、お前たちのことが一生好きだよ」

遠く離れても年をとっても。
結婚したとしても、子供を持ったとしても。
きっといつでも自分たちはあの時に戻れる。
そして三人で、ずっと笑っているのだろう、そうそれは、この生涯、ずっと。
ずっと、変わらない。
柳は、幸村の言葉に微笑み、そっと目を伏せた。


「光栄の至りだな」