全国大会の決勝の帰り道のことだった。
後輩たちと連れ立って会場を後にし、自分たちの学校で簡単な反省会と感想を共有した後、後片付けをし、校門を出たところで、長身の男が待っていた。
後輩たちは一様に怪訝そうな表情を作り、橘とその男を交互に見やっていたが、「おつかれっす」と、橘に挨拶するとそれぞれの方角へと散って行った。
橘は最後まで怪訝そうにしていた神尾の背を見送ってからそんな突然の訪問者にため息をつくと、傍まで歩を進めた。
男―千歳千里の神出鬼没っぷりには慣れたとはいえ、迷惑を感じないかといえばそうでもない。
というよりもその神出鬼没っぷりは九州にいたときに比べて明らかに酷くなっているようにさえ見える。
千歳はいつものように無害そうにへらりと笑い、のんきに手すら振ってくる。

「なんでお前こんなところに。四天の連中んとこいかんでよかとか」
「別に今日俺たち試合したわけでもなかばってん、俺がおらんでも問題なか」

どうせ金ちゃんは越前に纏わりついとるやろうし、謙也は従兄弟に会いに行っとるやろう。
千歳はそういうと腰かけていたガードレールから腰を上げ、橘のほうに手招きをすると、両手をポケットに突っ込みさっさと歩きだした。
夕日に照らされたアスファルトの上に千歳の長い影が落ち、閑散とした住宅街に千歳の下駄の音が場違いに響く。
その背中に橘はため息をつき、それでもその後ろに続いた。こういう時の千歳に何を言っても聞き届けてくれないことは長年の付き合いから既に分かっているからだった。
勝手知ったるというように歩き出した千歳は、橘のほうを振り返ることなく、住宅地を抜けていく。学校からの帰宅路と正反対の方向に、もう橘は自分のいる場所を見失っていた。
昔からそうだ、千歳は初めて訪れた場所であっても、迷いなく橘を導いていた。
地図を見ることも誰かに道を尋ねることもしない、千歳は本能で生きている男だ。
始めはそんな千歳の奔放さをうらやましくも思ったものだったな、と橘はぼんやりと思考した。
もっともその感情は周囲を振り回し、自分勝手に生きる千歳のことを、社会につなぐべき役目を自分がおっていることを自覚した瞬間に露と消えたのだが。
そんなことを、自分の前を誰かが歩いているという状況からふと思い出した。この一年誰かの背中が自分の前になるという状況など一度もなかったからだった。
この一年近くは、自分がいつも先頭に立って、後輩たちを導いてきた。部活でクーデターを起こし、一つ一つ自分たちで部活をくみ上げて。
いつも、彼らの追うべきものの背中であれるように。
その反動か、千歳の前では、自分の力が抜けるのか、一年前に二人でバカをやっていた時に戻ってしまう自分に安堵しつつも、その姿を見られることに対して酷く過敏になってしまっていた。
もっともそんな気持ちを知っているのか、部員たちは千歳の姿を見かけると、そそくさとその場から立ち去ってくれているのかもしれないが。

「おーやっぱりいい眺めばい」

千歳の声に顔を上げると、そこには夕暮れを水面に湛える広い川が横たわっていた。
自分の学校から少し距離はあるとはいえ、こんな大きな景色を一年間も気づかずに過ごしていたのかと、橘は愕然とした。
そして、この町にわずかな回数しか降り立ったことのないこの男が、この場所を知っていることにも。
さすがだな、そう橘はため息をついた。

「さっき電車の窓から見つけて、あとで桔平と来ようとおもっとったんよ」

饒舌にはしゃぐ千歳は下駄であることに構わず土手を降りると、そのまま無造作に斜面の草むらに寝転がった。
少し日に焼けた千歳の肌に、橙の色と、夕日が作る深い陰影が刻まれる。
川を渡ってきた爽やかにそよぐ風は、千歳の髪と一緒に千歳が埋もれている緑の葉を揺らす。
その景色に、橘はこの景色を自分は一体何回見ただろうか、そんなことを考えていた。
出会った時の喧嘩、部活帰り。大会の帰り道。
そこまで考え、今日はやけに感傷的な自分に自嘲し、千歳に隣に腰かける。
座り、高さが変わればいっそうに風を強く感じた。
水の匂いに草の匂い。そして、どこか秋の匂いさえ、そこには溶け込んでいる。
千歳はしばらく、風を大きく吸い込んだり、全身で土手の空気を楽しんだ後、体を起こし、高く伸びをした。
そしてああ、と思い出したようにいうと、橘に視線を向けた。

「桔平、あん試合楽しかったばい」
「あの試合?」
「全国の。ああやってお前と敵味方に分かれて戦うのも新鮮で、わくわくして楽しかったとよ」
「俺はもう遠慮したか。部を背負ってるくせに最後はお前との試合を楽しんでしまった。部長失格たい」
「でも、不動峰があそこまで上がってきたからこそ俺たちは戦えたんだし、今こうやっておれると」
「……」
「橘部長、よう頑張ったばい」

そういって千歳は橘の頭を撫でると、桔平本当に髪短かーと笑い、もう一度寝転んだ。
橘はそんな千歳に気付かれないようにため息をつくと、後ろに手を伸ばし、上体を支えながら空を仰いだ。

『桔平は頑張ったばい』

熊本にいたとき、そういって、橘は千歳に頭を何度も撫でられていた。
夕日でオレンジに染められた土手に座っていると、決まって彼がやってきた。
そして知ったような顔で隣に座ってきた、一人にしてほしい自分の気持ちを全く意に介せずに。
その時もたしか、練習試合か、大会の帰りで、負けたのか、無様な試合をした帰りだった気がする。
否、学校の体育祭や、球技大会、はたまた女子に告白して振られた時だったかもそれない。
そんな時、橘はよく学校帰りにある土手に座っていた。
そしてそんな時、必ずと言っていいほど、現れるのが千歳千里その人だった。
自分に一言もかけることなく、彼は無遠慮に橘の隣に座りへらりと笑って見せる。
そして、いつも金色の自分の頭を撫でていた。
桔平は、頑張った。そういって。
しかしいつも本当に頑張っていたのは千歳だった。
校内の練習試合で常に勝利を収めていたのは彼の才能も勿論あるが、あの異常なまでに自分を限界まで追い込み、力を引き出そうとして努力していた成果だったし、大会でも負けなかったのは、獅子学を勝利に導いていたのは、その努力の延長に起因する。
そんな彼に比べれば自分の努力など、本当に大したことなどないのだ。
今回だってそうだ、自分は頑張っていない。
自分はただ、辞められなかったテニスを続けただけだ。
千歳が、テニスを始めたと聞いてそれに追随しただけだった。
しかし見えない右目で、それでも千歳がテニスをやめなかったのは、彼自身テニスが好きだったのとなによりも自分がテニスを続けられるように彼が計らってくれたからだ。
そして、自分の前に立つために九州を抜けて、大阪で努力し続けた。
見えない右目を引きずって、それでもそれを感じさせないプレイができる水準まで自分を高めて。
それも全部。

(本当は)

ありがとうと、いうのが正しいのだろう。
しかし、そんな言葉を彼が望んでいるとは到底思わなかった。何が、そういうだろう。
それもそうだ、彼はきっと橘をテニスに繋ぎ留めるために努力をしたのではない。彼は自分より強い相手と、その中に含まれるかもしれない自分ともう一度テニスをするために、努力をしたのだ。
その結果、自分はここに居れる。彼が意図したのかどうかは知らないが、結果として、自分はテニスを続けることができている。全国大会まで進むことができている。そして。
それならば。

「千歳、頑張ったばい」

手を伸ばし、くしゃくしゃなくせ毛を乱暴に乱せば、千歳はきょとんとした顔で橘を見つめた。
そして、満足そうに目を細める。
その姿を見て、猫みたいだと、そう思った。もっともあのかわいらしい小動物と比べれば幾分千歳は大きすぎたが。
しばらく、おとなしく橘に頭を撫でられた後、千歳は緩慢に体を起こすと、橘の顔を小首をかしげて覗き込んだ。
杏が神尾あたりにやれば一瞬で落ちる仕草なのだろうが、そんなことを九州男児で自分よりも幾らも身長の高い男にされても全く可愛くはなかった。

「じゃあ桔平、俺、ご褒美がほしか」
「褒美?何がよか?」
「桔平の手料理たい、ちょうどミユキもこっち来とるし、久しぶりに四人で飯食わんね」
「ああ、そんなことならお安いごようたい」

橘はそう答えると、制服のポケットに手を突っ込み、携帯電話を引きずり出した。
親に、台所を借りる旨を伝え、杏に晩御飯は家で食べるように伝えなければならない。
四人で、食卓を囲むのは何時ぶりなのか橘はもう思い出せない。
きっと、杏も、ミユキも喜んでくれるだろう。この一年間、きっと一番心配していたのは彼女たちだ。
ミユキの好きな食べ物はなんだったか。確かオムライスとかそういう子供っぽいものだった気がする。そう思いながら自宅への電話番号を呼び出す。
と、その瞬間、携帯を持つ橘の右手が、千歳の左手にとらえられる。その反動で、携帯電話が落ちた。

「あともう一つ」

そういうと、千歳は長い体を器用にたたみ、橘の顎を右手で掴む。
一瞬かすめた熱。
しかし、次の瞬間には、それはあっけなく橘から離れた。


「元気でたとや?桔平」


橘の顔を覗き込み、いたずらっぽく笑う千歳に、橘はため息をついた。


「出るかアホ」



橙に照らされた二つの笑顔。
二人を照らす夕日は、一年前と変わらない色をしていた。






つかと同じ





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なでなでする千歳がかわいくて・・・!byぎゅっサバ