文化祭は佳境に入っていた。 一般公開も終わり残すは、後夜祭だけとなっていた。あと十分で後夜祭が始まるためだろう、先ほどまで喧騒に満ちていた校舎の中にはほとんど人は残っていない。管理者不在の教室は抜け殻のようにそこにあった。 そんな教室に一人だけ、人が残っていた。黒いシンプルなベストとネクタイ、そしてすらっとしたスラックス。いつもきれいに分けられている茶色の髪は後ろに撫でつけられている。誰もいない教室で、まっすぐに背筋を伸ばして黙々と作業に没頭するその人は仁王が捜していた人物だった。 綺麗なテーブルクロスのかかった机を挟んで目の前の椅子に座ると、ようやくそこで彼はゆっくりと視線を持ち上げた。手元には電卓と帳簿のようなものがある。さしずめ後夜祭に行きたそうにしていたクラスメイトの仕事を代わりに引き受けたのだろう。彼にはそういうところがある。いかにも親切心から出たように振る舞って、自分の希望を叶えてしまうのだ。そう例えば後夜祭というものに参加しなくてもいい口実をつくるために。 「後夜祭くらい、行けばええんに」 「いいんです、私はただこの格好をして突っ立ってただけですし。一生懸命準備した人こそ参加したいんじゃないですか」 「偽善者め」 「なんとでも」 柳生は肩をすくめると、再び作業に戻る。仁王はしばらく柳生の作業する様子を見つめていた。 柳生の作業がひと段落したタイミングで、仁王は柳生に声をかける。 「のう、柳生」 「はい?」 「Trick or Treat?」 言葉と同時に仁王は柳生の方に真っ直ぐに手を差し出す。 柳生は一瞬虚を突かれたような表情を浮かべ、そして言葉の意味に思い至ったのだろう目の前に差し出された手に眉根を深く寄せた。 それが合図だった。 仁王はおもむろに立ち上がると柳生の方に右手を伸ばし、何時もとつけている学校指定のものとは違う色のネクタイを引き寄せる。柳生は急な力に反射的に机に手をついた。その拍子に電卓が机から滑り落ち、空っぽな教室に音を反響させる。 至近距離で一致する視線。 「ちょっと、仁王くんやめたまえ」 「やめん」 「ここをどこだと思っているんですか」 教室じゃ、と仁王が笑いかけると柳生は嫌そうな顔をして押し黙る。仁王は宥めるように柳生の頬に左手を滑らせた。 「ええじゃろう」 「いたずらというには安直ですね、詐欺師ともあろうものが」 呆れたように柳生は吐き捨てると、それでもいつものタイミングでそっと目を伏せた。まつ毛が作った影が頬に落ちるのを確認し、仁王も目を閉じる。 重なると、そう思った瞬間だった。ふと、鼻先を甘い匂いが掠めた。普段の彼からはしない、その匂い。それが何かという思考に仁王が辿り着く一瞬前、仁王の唇にいつもと違うものが触れる。 反射的に目を開けると、至近距離で柳生が揶揄するような表情を浮かべている。そして二人の間には柳生の指が存在しており、何かを仁王の唇に押し付けているのが見えた。 仁王が言葉を発しようとした瞬間、柳生の指が仁王の唇から離れる。そして同時に教室の床に柳生の指の支えを失った何かが落ちた。 光の尾を引いて落ちたそれは、安もののチョコレートの粒だった。透明なフィルムで包まれた甘い匂いと味を持つ茶色の粒は、オレンジに染まった床の上で細長い黒い影を背負っていた。 唖然と、柳生の方に視線を向ければ柳生は不思議そうに首を傾げた。普段なら揺れる前髪が、今日は揺れない。 「いかがです、仁王くん」 貴方が欲しがったお菓子ですよ、と柳生は得意げにほほ笑む。 悪戯がうまくいったといわんばかりの満足げな表情に本当にこいつに紳士というあだ名を付けたのは誰だと、仁王は心の中で悪態をつきながら、安直な行動に出た自分を嫌悪した。 柳生は嬉しそうに続ける。 「こういう事もあろうかと残しておいてよかった、女子にはすごく評判がよかったんですよ」 「女子に配っとったんか」 「だってハロウィンですし。執事は淑女を喜ばせてあげなくてはいけません」 真田くんだって、持っていたんですよ。 柳生は床に落ちたそれを拾い上げると、ほっそりとした指先で両端を引っ張った。オレンジの夕日がフィルムに弾け、きらきらと光を振りまいた。 「今回は私の勝ちですね」 ことん、と軽い音を立てて机の上に落ちた茶色の粒を柳生は拾い、仁王の目の前に差し出した。仁王はいやいやながらも口を開く。柳生は仁王の口にそれを押し込み、そして満足そうに赤い舌で自分の指先を舐めた。 さしずめベストのポケットの中にでも入れていたのだろう、柳生の体温によって少し表面が溶けていたそれは仁王の口の中に入った瞬間からチョコレートの甘さを広げはじめる。 安物の、柳生には相応しくないような品の無い大量生産のチョコレート。香料などで味を付けられた濃厚で甘い砂糖とカカオの塊は、口の中の体温で溶け出し唾液と混じって喉の奥へ落ちていく。 仁王はその感覚を味わいながらため息を吐いた。 「甘いのう」 「どういたしまして」 格好に預かり、恭しくお辞儀をして見せる柳生に仁王は苦笑する。 全くこの男には敵わない。 「詐欺師の名前、そろそろ返上せんといけんかのう」 「何か言いましたか」 「なんも」 それでも。 彼がこうやって、自分をはめるための策略を巡らせて。 初めて会った時にはしえなかったその変化に関して言えば、間違いなく自分の影響で。 (そもそも勝負になっとらんのよ、柳生) 嬉しい感情を押し殺して、作業に戻った柳生を見ながら仁王は心の中で思うのだ。 チョコレートは既に溶けてしまった。それでもまだ、仁王の口の中には幸せな甘さが残っていた |