I love you そんな簡単な言葉で言い表せる程、単純ではないけれど a
petal of the cherry blossom 「お疲れ様です。お先に失礼します」 降ってきた声に柳生が顔を上げると、同じ課に所属する後輩が申し訳なさそうに頭を下げたところだった。気が付けば、オフィスに残っているのは柳生と、今目の前にいる後輩だけになっている。いくつかの電気は消されており、それにすら気づいていなかった柳生は苦笑した。 「お疲れ様、ゆっくり休んでくださいね」 「はい、柳生さんも」 足早にドアの向こうに消える後輩の背中を送ると柳生は小さくため息を吐く。そしてゆっくりと背もたれに体重をかけた。決算月なだけあって、流石にここ最近は忙しく、なかなか早く帰ることができていなかった。そうはいっても普段、柳生は部内でも時間の管理がうまいのと仕事の効率がいいため残業をしたとしてもこんなに遅くなったり、部内で帰宅が最後になることはほとんどなかった。しかし、今日に限っては昼間のトラブル対応が響き、こんな時間になってしまっていた。 緊急性のあるものに関しては既に片付いてはいるため、帰っても差し支えはないだろうが、あと一つ書類が残っている。きりもいいため、それを終わらせてから帰るとしようか。そんなことを思いながら柳生は腕を上に伸ばし、固まった筋肉をゆっくりとほぐす。 と、その時柳生は机に放置していた自分の携帯電話がちかちかと点滅していることに気が付いた。 どうやら、メールが来ているようだ。柳生は携帯を手に取るとメールの受信ボックスを開いた。 普段、あまり携帯のメールを使用し、誰かと連絡を取ることも少ないうえにキャンペーンサイトやWEBサイトへの登録を全く行わない柳生の携帯にはメルマガを含め、ほとんどメールが届かない。 それ故、今日一日見ていなかったのにもかかわらず、携帯電話の受信ボックスの先頭にある未読メールはたった一つだった。そしてその差出人の名前に柳生は一瞬目を見張る。それは、ここ最近ほとんど連絡を取っていない人物からだったからだ。 title:(no title) Subject:満開 簡素なメールには添付ファイルがついており、開封すると画面が一面、薄桃の花びらで埋め尽くされた。 並木道、満開の桜。夜闇の中街灯に照らし出された桜がはらはらと散っているのを収めた写真だ。そして、その景色に柳生は見覚えがあった。 (懐かしい…) 写真に写っている場所は人生のある時期、毎日のように歩いた道だった。同様に桜が満開なこの道を、六度、柳生は歩いた。 そしてその時、自分の傍には沢山の仲間がいた。柳生は中学高校と部活に青春を捧げていた。立海大学付属、中学校高校のテニス部に。同じ目標を掲げ膨大な時間と情熱を柳生は、そして仲間たちはテニス部に費やした。学生時代の思い出はと言われてもテニス部以外のことを今、柳生はうまく思い出すことができない。それくらいに柳生にとってテニス部は青春のすべてだった。 その中でも、常に柳生の隣にあった男がいる。柳生が思い出す学生時代の風景には彼がいないものなどほとんどないといっても過言ではない。美しく輝かしい記憶の中にも、悔しさが滲む感情の隣にも、様々な場面で常に彼は柳生の隣にいた。 ほとんど同じ身長。自分の正反対の性格、特徴的な方言。鋭い目つき、突拍子のない思考回路と言動。猫背な背中。そして、銀色の髪。同学年で、同じ部活、自分のダブルスのパートナー。そして今、柳生にこのメールを送ってきた男、仁王雅治だった。 彼と自分は学生時代、たくさんの季節を共に過ごしてきた。そして沢山の時間を共にしてきた。それはテニス部だけに止まらない。苦しいことも楽しいことも、辛いことも嬉しいことも。勝利という目標に向かって二人で切磋琢磨し、その結果に喜び、そしてともに悔しい思いもしてきた。 春夏秋冬。二十四の季節を、仁王と柳生は共に過ごしてきたのだ。 そのなかでも特に、春は二人にとって大きな転機となった季節でもあり、思い入れが深い特別な季節でもあった。仁王と柳生という運命的に出会った二人の出会いの季節でもあり、そして同時に別れの季節だったからだった。 仁王と柳生が出逢ったのは桜の散る四月のことだった。 立海大学付属中学校のテニス部。まだ真新しく、いくらかサイズの大きい制服を着ていた時。そこで柳生は仁王に出逢ったのだ。 第一印象は最悪だった。校則違反の髪色に、軽率で人を馬鹿にしたような言動。一目見たときから柳生は仁王とはウマが合わないとそう、判断した。それは仁王の方も同じだったのだろう、仁王の方も柳生に対して不必要に干渉をしてくることはなかった。しかし、お互いにといっていいのであろう、気付けば仁王も柳生も相手のことをいつも目で追っていた。 この男にだけは負けたくない。そう思っているうちに柳生は仁王から目が離せなくなってしまった。そしてそれは仁王も同じだったようだ。互いに互いの胸の内に宿った感情の名前を探り合っていた。 均衡を崩したのは仁王だった。ある時仁王は思いつめたような表情で自分の感情を柳生に吐露したのだった。そしてその感情を柳生は迷わずに受け止めた。仁王がどう思っていたかはわからない。しかしそれは柳生が無意識にずっと求めていたものだったからだ。 仁王と共にいた時間は柳生にとって酷く楽な時間だった。見た目も、正確も正反対に見えてその実柳生と仁王は酷く似ていたのだ。自分が求めることも、嫌いなことも口にしなくともすぐに分かりあうことができた。二人でいる世界は完全で、安全だった。そして何よりも心地が良かった。 しかし、六度目の、二十五個目の桜が散る季節に仁王と柳生は違う道を進むことを選んだ。明確なきっかけは恐らくなかった。喧嘩をしたわけでも他に心を惹かれるような人に出逢ったわけでもない。強いて言えば、お互いの中に会った不安が明確な形を持ち始めたことが切っ掛けだったのかもしれない。 もし、もっと恋に盲目であれたのならばもっと何か違ったのかもしれない。目の前の感情に溺れて全てに目をつぶることができれば、きっと今でも自分の隣にはあの男がいたのだろう。 しかし、柳生は残念なことにひどく現実的な思考をする人間だった。そしてそれは仁王も同じだったのだ。根本的に同性に対して性志向が向いているわけでもない二人が、目の前のたった一人と過ごす先の見えない未来に全てをかけられるほど怖いもの知らずになれなかった。 それ以前に、おそらく己らは自分たちが選んだ道の果てで、もし不幸になってしまった時にその原因をお互いに相手に求めてしまうだろうことが見えてしまった。 大切にしていたものを全て憎み、ともにあった過去を全て否定し、お互いのことを徹底的に傷つけてお互いに不幸ぶることが容易に想像が着いてしまったのだ。 共にいても、幸せにしてやることも幸せになることもできない。そうおもった。だから、手を離した。どちらからということもなく、そっと。 その時、桜吹雪の中で仁王は笑っていた。 どこかかなしそうで、さみしそうな笑顔で笑う彼。しかし、きっと自分も同じような顔をしていたのだろう。だから柳生は仁王にそれ以上には何も言わなかったし、仁王も柳生に何も言わなかった。何も言わなくてもいい。それくらい仁王と柳生は似ていたのだ。 その後しばらく、仁王と柳生は距離を置いた。もう会えないかもしれない。そう思っていた。それでも柳生はあの時からずっと仁王の幸せを祈っていた。自分が彼を幸せにすることは永劫なかったが、彼の幸せを祈ることはできる。 そしてその思いは今も続いている。これからもきっと、そうだろう。 そのことを、ふと仁王に伝えたいとそう思った。あの後、何度か彼と会う機会はあったが、二人きりで会う機会はほとんどなかったし、会ったとしてもそういうような話をすることはなかったからだ。 柳生は顔をあげると壁にかかる時計に目をやる。写真に写っていた場所はここからそう遠くはない。今から行ってもそんなに時間はかからない。 柳生はノートパソコンを閉じると手早く荷物を鞄に押し込み、トレンチコートを手にする。残っている仕事は明日片付ければいい。明日の朝少し早く来れば済む話だ。 オフィスの電気を消しながら、柳生はボタンを操作しメールに文字を入力する。そして送信ボタンを押すと、届いたかどうかも確認する前に鞄に携帯電話を放り込んだ。 『今、行きます』 ++++++++ タクシーを降りると、柳生は坂道を走った。 左右には桜並木が並んでおり、僅かに吹く風に花弁が舞い、はらはらと散っている。地面を埋め尽くす薄桃の絨毯の上を柳生は駆け抜ける。 軽く走っただけで息が切れ、体が重くなってしまうことに柳生は苦笑した。嘗てはこの坂道をラケットと教科書がいっぱい詰まったカバンを背負いながら軽々と駆け抜けたというのに。 坂の上―立海大学付属中学校の校門に出ると、校門前のガードレールに一人の男が座っているのが見えた。 黒い髪と、黒いスーツに身を包んだ男は、灰色のマフラーを巻き、空を仰いでいた。否、空ではなく桜を眺めている。足変わらず色の白い肌に、うっすらと笑みを浮かべながら。 柳生は上がってしまった息を落ち着けながら、男の横顔に声をかけた。 「仁王くん」 「よう、柳生。お疲れさん。早かったの。まさか来てくれるとは思ってなかったぜよ」 「意外と近かったので。貴方もお疲れ様です」 「お互い三月は忙しいのう」 そういって肩を竦める仁王に柳生は苦笑した。仁王も大学を卒業した後、普通にサラリーマンとして会社に勤めている。学生時代、あんなに奇抜な髪色をしたり、好き勝手していた仁王はそんな普通の道を歩まないだろうと誰もが思っていたが、意外と常識的な部分を持っている仁王は大学を卒業すると迷わず髪を切り、髪を黒に戻し、すっきりとしたスーツに身を包み会社に勤めている。 柳生が好んでいた銀色の髪も、肩で揺れる髪の束もすっかり影も形もなく、見た目から判断できる部分で言えば、口元の黒子くらいだろう。 暫く、二人で言葉もなく間断なく降り注ぐ桜の花びらを眺めた。ひらひらと、まるで雪のように音もなく道に降り積もっていくそれは酷く儚く、そして美しい。 そのままじっとしていると、仁王はぽつりと仕事の帰りに会社の傍の公園の桜が満開になっているのを見てふと、立海の桜を見たくなったのだと柳生に告げた。自分たちのルーツで、大切な時間を過ごした場所で見た桜を。 「それでな、写真を撮っていたら誰かに送りたくなって、そんでそんなら柳生じゃろうな、ってな」 「はい」 「あん時期の思い出はお前抜きじゃ語れんのよ」 「私もですよ」 私も、貴方抜きでは語れません。 柳生の言葉に仁王は満足そうに目を細める。そして、腰かけていたガードレールから立ち上がると仁王は柳生の前に立った。その、立ち位置に、景色に、あの袂と別つと決めたときの景色が重なる。 あの時、仁王は歪な表情を浮かべていた。しかし今、目の前にいる男にはあの時に宿していた悲壮感は全くなかった。そしてそれはきっと、自分も同じなのだろう。桜を背負ったままに、彼は続けた。 「のう、柳生」 「なんですか」 「春はやっぱり、ええ季節じゃのう」 柳生は仁王の言葉に、思わず目を見開く。仁王はそんな柳生に対して、な、と首を傾げた。 春。貴方と出会って、一度袂を別った季節。運命の出会い。笑顔の中の泣き顔。喜び、悲しみ、期待、絶望。様々な感情がないまぜになった季節。春のことを思い出すとき、柳生の中の感情を表す天秤はゆらゆらと揺れたままだった。次々と押し寄せてくる様々な感情に心は乱された しかし、きっとこれからは。 柳生はゆったりと口角を持ち上げた。 「ええ。本当に、いい季節です」 身を焦がすほどの強い感情ではない。自分の感情を抑えきれず、そんな自分を持て余すようなそんなこともない。それでも恋人とかそういうのとはまた違う気持ちであなたのことを大切に思える。世界で一番幸せになって欲しい人で在り、大切な人だとそう、言える。そうあらためて思い知った。 じんわりと幸せに浸っていると、仁王が隣で悪戯っぽく笑った。 「一杯飲んで帰るか」 「いいですね」 「この前旨い店見つけたんよ、柳のお墨付きじゃき、期待しんしゃい」 二人で肩を並べながら坂道を降りる。やはり並ぶ肩の高さはあの時と変わらずほとんど一緒だった。違うのは、嘗てのように肩を抱かない、手も繋がない。もっと言えば人目を忍んでキスをすることもない。 それでも二人で肩を並べて歩ける、そのことがこの上なく幸せに感じる。時間を共に過ごし、きっとこの人生が終わる最後の瞬間まで彼のことを大切に思える。そういられることが、自分たちが選んできた選択がすべて間違っていないことを裏付けているような気がして、柳生は安堵する。 いずれ、柳生も仁王も結婚をし、家庭を築くだろう。その時も、お互いの幸せを純粋に喜び、祝福しあえるのだろう。そしてその時、またあの時、あの道を選んでよかったのだと笑いあうのだ。 そこに少しの寂しさと、多くの幸せを滲ませながら。それでいいのだと、柳生は思う。 「仁王くん」 「ん」 「幸せですか」 柳生の言葉に、仁王は満足そうに笑った。その笑顔は、あの春に分かれた時のものとは違い、心からの暖かい笑みだ。 「おう、仕事がもっと楽じゃったらええんじゃけどな。柳生は」 「私ですか、私も勿論」 幸せです。 柳生の言葉に、仁王はそれはよかったと、また小さく笑った。 |