天国にひとりでいたら、これより大きな苦痛はあるまい。


「何度目かのう」

誰もいない教室で仁王はおもむろに呟いた。
窓際の席には赤い夕陽が差し込んでいた。
明暗のくっきりと分かれた世界の中で、仁王は頬杖を突きながら窓の外へと視線を向けている。
その向かいで柳生は本を読んでいた。
今日は柳生の誕生日だった。幸村の発案で柳生の誕生日祝いを真田の家で行うことになっている。
約束の時間は十八時。それまでの時間を柳生と仁王は教室で潰していたのだった。
柳生は仁王の言葉に一瞬だけ視線をあげると、仁王の横顔に目を細めた。
赤い色は銀の髪を普段とは違う色にしている。仁王の髪の色は変幻自在に色を変える。それは仁王のプレイスタイルのように。
ぼんやりと綺麗な色だと思う。仁王の気に入らないところは数えればきりがない。それでも柳生は仁王の髪の色のことだけは好きだと思っていた。
それこそ初めから。

「さあ」

本当は仁王の質問の意図を分かっていたが、柳生はわからないふりをした。
仁王はそんな柳生のことを知ってか知らずか意地悪そうな笑みを浮かべ、二人の間に置いてある箱の中のケーキをプラスチックのフォークで切り崩した。
頬杖を付きながら食べるなど、行儀が悪いと思いながら柳生は仁王に注意をすることはしなかった。
それは柳生が仁王にこのケーキを食べきってもらうよう、頼んでいたからだった。
上品な甘みのケーキは誰だっかわからない。しかし柳生の誕生日を知った人物が差し入れてくれたものだった。
柳生はあまり甘いものが好きではない。そのため、半分ほど食べたところで食べきるのを諦めた。
しかしそこそこ有名なケーキ屋さんのもののようであり、その上もらったものである手前捨てるのも忍びなく仁王に渡したのだった。
仁王は心なしか楽しそうに最後に残っていた苺に仁王は深々とフォークを突き刺すと、それを口の中に放り込んだ。

「なあ柳生」

ゆっくりと苺を咀嚼し、それを飲み込んだ時、乾いた音が教室に響いた。
それは仁王が机の上にフォークを落とした音だった。
どうやら全てを食べ終わったらしい。
柳生はそこでようやく本をぱたんと閉じた。そして仁王に対して首を傾げて見せる。

「なんですか」
「来年も、お前の誕生日祝ってやるぜよ。どうせ来年も一緒に過ごしてくれる彼女もおらんじゃろうし」
「失礼ですね。彼女くらいいるかもしれませんよ」
「ほうかの。お前さんに彼女ができるとは思えんがの」
「そんなのわかりません」
「強気じゃのう。まあ俺以外にお前の誕生日を祝ってくれるやつが現れるまでは、俺が担当してやるぜよ」

「二十歳の誕生日も」

そういうと仁王はにやりと笑った。
仁王の言葉に柳生は一瞬、目を見開きそして苦笑した。
柳生は未来なんて不確かなものを信じていなかったからだ。
そしてそれは仁王も同じである。
来年は一緒にいないかもしれない。
そんな思いをお互いに抱えながら一年一年を重ねていることを柳生は知っている。
尤もそう思いながらまた次の年も一緒にいる、という結末をくりかえしてはいる。
それでも仁王も柳生もお互いが傍に居続ける未来を信じていないのは同じであった。
柳生はゆるく首を振る。

「また口から出まかせを」
「俺が嘘を吐いたことあったかのう」
「嘘しかつかないくせにどの口が言うんです」
「この口じゃ」

と、仁王の手が伸びる。
ネクタイを引き寄せられたと思った瞬間、仁王の唇が柳生のものに軽く触れる。
追いかける時間もなく、彼は柳生から体を離した。

「期待しときんしゃい」

至近距離で向けられた仁王の笑顔に柳生はため息を吐いた。
柳生は呆れたようにはいはいと軽く受け流し、立ち上がる。
舌で唇となぞると、じんわりと果物の酸味とクリームの甘みが広がった。


(本当に嘘ばっかり)


喧騒の中で柳生はひっそりため息を吐いた。
大学から近い居酒屋は喧騒に包まれている。流石学生街というべきなのだろう。ゼミやサークルなどが終わった学生らしき人で店内は混雑していた。
柳生の目の前には安いながらも学生の胃袋を満足させるには十分である味と量の宴会料理が所狭しと並んでいる。
そしてそれを囲むのは大学の同じ夢を目標に、日々切磋琢磨し、協力し勉学に励む仲間たち。
ゼミで取り組んでいる論文の中間発表が終わったこともあり、普段から騒がしい先輩や同級生はそれに輪をかけて0陽気で、楽しく笑っている。
六年間、ずっと一緒に全国の頂点を目指していた仲間とはまた違う目的を持った人の集積であったが、柳生は彼らのことを好ましく思っていた。
あのストイックさや、強情な雰囲気とはまた別な部分にたいしてどこか物足りなく思うこともある。しかし不満に思ったことは一度もない。柳生にとって大学という場所は過ごしやすく好ましい場所であることに間違いはない。
それでも。
今日に限って言えば柳生は酷く苛立っていた。
気心の知れた仲間に囲まれて、区切りの誕生日に酒をあおっているのにも拘らず。
みんなが紙袋にいっぱいになるようなプレゼントを柳生に対して渡してくれているのにも拘らず。
煩いくらいの喧騒が、店内に満ちているのにも拘らず。
どこか柳生の心は空虚だった。

たった一人の不在。
かつていつも共にあったのに、年を重ね、進学をしたさきで交流が途絶えてしまった人物の不在。
その事実が柳生の心を酷くざわつかせていた。






せの在処







視界が揺れるのを感じながら柳生は一歩一歩、夜の街を歩いている。
くらくらと揺れているのは自分なのか、それとも世界なのかと思うほどに視界は不安定だった。
そして夜の大気は次第に冷え込んできているというのに、柳生の体は酷く暑い。
きっとそれはアルコールを摂取しすぎたからだろうとぼんやりと柳生は思考する。
通常からいくらか逸脱した自分の状態に辟易しながらもしかしその症状は時間しか解決できないことも十分に分かっていた。
柳生はため息をつきながら右手に持っていたペットボトルのキャップを緩慢な動作であける。
それは珍しく酔っぱらった柳生を心配した仲間が店を出るとき店の隣にあった自動販売機で買い、持たせてくれたものだった。
まだいくらか冷たい水を口に含むとひやりとした感触が口内、喉、胃へと広がっていく。
少し視界がクリアになったような錯覚を覚えるが、しかしやがてその錯覚はすぐに消え失せてしまった。

(飲みすぎたかもしれません)

柳生は深く息を吐く。その息すら熱く、その事に柳生は眉根を寄せた。
二十歳になったから。
飲酒解禁、と何かにつけて酒を飲みたいゼミの先輩や同級生に飲まされたということは少なからずある。
柳生は自分の許容量が分かるくらいは分別をわきまえているつもりだった。
だが、今日摂取したアルコールははその許容量を明らかに超えていただろう。自らの行動を振り返りながら柳生は思う。
普段よりハイペースで酒を頼む柳生にゼミのメンバーは二十歳になってさすがの柳生もはしゃいでいるのだろうと評していたようだったがそれはお門違いも甚だしかった。
はしゃいで飲みすぎたのだったらまだいい。しかしこれはただのやけ酒だった。

(本当にばかだ)

柳生は頭を抱える。
原因はわかっている。
今日、ふと噴き出した記憶の断片に柳生は苛立っていたのだ。
『ああ、今日柳生誕生日だよな。飲みに行こうぜ』
切っ掛けはゼミが終わったときに柳生にかけられたそんな他愛のない言葉だった。
今までの人生で交わしてきたたくさんの会話の中の、たったひとつ。
しかしその言葉は柳生の記憶の中からある人の言葉を浮かび上がらせた。
砂がこぼれるように失われていく記憶の、たったひとつ。忘れたとそう思っていた言葉の一つ。
しかし、それはまだ柳生の心のなかに残っていたらしい。
その言葉が、記憶が柳生の前にひらりと落ちてきたのだ。それはまるで幼い頃、押し花にしようと文庫本に挟んだまま忘れていた花びらが、ふとその本を開いた拍子に地面に滑り落ちるように。
正直愕然とした。そして同時に苛立った。その言葉を覚えていた自分にも、それを思いだし、隣にその人がいないことに少なからずショックを受けた自分にも。
どうしようもないくらいに。
そしてその苛立ちから逃れるように柳生は杯を重ねたのだった。

あんなもの、幼さゆえの他愛のない約束だ。
柳生はふるふると頭を振ると、ペットボトルの中身を煽り、コンビニのゴミ箱にそれを投げ入れた。

人通りのない市街地をふら付く足を何とか踏ん張らせながら進み、大学に通うために一人暮らしをしているマンションへとたどり着く。
決して新しくはないが、一人暮らしをするには十分な広さで、何よりもセキュリティがしっかりしている。
柳生は男であるし、そんなに住むところに頓着があったわけではないが心配性な親がここにしたらいいと選んだものだ。
柳生は鞄から鍵を取り出すとエントランスのカギを開ける。そしてエレベーターに乗り込むと自分の部屋の階のボタンを押した。
ゆっくりと扉が閉じ、緩やかに箱が動き出す。微妙な浮遊感。それに柳生は溜息をついた。
どうやらなんとか無事に部屋まで帰ることができそうだ。
そう思うと安堵からか一気に眠気が襲ってきた。
欠伸を何とか噛み殺し、壁にもたれて眠ってしまいたくなるのを何とか堪え、扉が開くのを待つ。
扉の上にある数字の上を明滅する赤いランプが九で止まり、浮遊感が緩やかに収斂していく。
ようやく眠れる。部屋に帰ったらもう、そのままベッドで寝てしまおう。シャワーは明日でいい。
そんなことを考えながら柳生は今にもへたり込んでしまいそうな足を叱咤し、エレベーターの扉に歩み寄る。
そしてエレベーターの扉が開いた瞬間だった。

ーピリリ

ポケットに入れたままの携帯電話。
それが突然鳴りだした。
静かなマンションに携帯電話の電子音は必要以上によく響き、反響をする。
柳生は我に返ると慌ててポケットからそれを取出し、音を早く収めるために通話ボタンを押した。
駅やそれぞれの家に帰るメンバーと別れた時、柳生は相当酔っていた。
それを心配した同輩からの電話かもしれない。なんといってもペットボトルの飲料まで持たされたくらいだ。
大学の近くのマンションに住んでいるため電車に乗らなくてはいいとはいえ、一定の距離はあるのだ。
無事に帰ったことを伝えなくてはいけない。
柳生はそう思いながら耳に携帯電話を押し当て、努めて元気な声で電話に答える。

「はい、柳生ですが」
『おう柳生、久しぶりじゃのう、元気しとったか』

しかし聞こえてきた声は柳生の想定していた人物のものではなかった。
図らずとも柳生の思考は完全に停止した。
軽薄な言葉遣い。ひとを食ったような態度。聞き慣れたトーンの声。
それらが示すのはただ一人の姿で。
今までぼんやりとしていた思考が一気にクリアになり、血がざあっと引く感覚を覚える。
それは予想外の相手に焦ったからではない。
そして久しぶりに話したことによる驚きでもない。
まるで見透かしたようなタイミング。
柳生が望んだ人物から、望んだタイミングでの電話。
そのことに柳生は動揺をしていた。
しかし柳生はそんなことを悟られぬように、落ち着いた声出せるよう深く息を吸った。

「ええ、元気です」
『そうか』
「貴方はお元気でしたか」
『おう、元気じゃった』
「それはよかった」
『今日は出かけとったんか』
「ああ、そうなんです。誕生日でしたので、ゼミの皆さんにお祝いをしていただいて」

くらくらした。
不意打ちの電話に、彼の声に。
混乱と酔いから来る眩暈に前後不覚になりそうになり、柳生は廊下の壁にもたれかかる。
すると電話の向こうの彼は柳生のため息を拾ったのだろうか、低く笑った。

『酔っとんの』
「酔っていません」
『楽しかった』
「ええ、それなりには」

「ほーか、それはよかったのう」

突然、後ろから聞こえてきた声に、柳生は振り返った。
と、その瞬間、硬い箱が柳生の額に当たり、眼鏡がずれ落ちた。
かしゃん、銀のフレームがマンションの廊下に落ちる。
輪郭がぼやけた世界に目を凝らすとその向こうに、懐かしい色が、あった。
銀色、の。
柳生はぽかんとあけた口を閉じることも、携帯電話の電源を切ることも忘れ、目の前で携帯電話を片手に、もう片方の手で白い箱を差し出している男から目を離すことができなかった。
それは大学に入って、学校が分かれてからすっかりと疎遠になっている男だったからだ。

(仁王くん…)

あまりにも違う性格に、交友関係。そして生活リズムの解離。
それが災いし、大学に入ってからしばらくは連絡を取り合っていたが、お互いにバイトやゼミ等がはじまったせいでやがてその頻度は減り、二年に入ってから最近はめっきり交流と呼ばれるものなどなかった。
別に連絡を取りたくなかったわけでも煩わしいわけでもなかった。ただ、連絡を取るきっかけも、理由も柳生は、見つけることができなかったのだ。すぐ何かにつけて理由を求めてしまう自分を疎ましくも思いながらも。
そしてそれはいま、目の前にたつ仁王にしても同じで。

「なんで」
「なんでって、お前さん誕生日じゃろう」
「そうですけど」
「だから会いに来てやったんに、つれないのう、柳生は」
「いや、ですけど」

耳元で携帯電話の通話が切れた。
しかし柳生は呆然としたまま動くことができなかった。
そして同時に酔っているからだろう、余計に増幅された感情に襲われ、思わず柳生は俯いた。
零れ落ちそうになったものを堪えるために一度ギュッと目を閉じ、感情の波をやり過ごしてから目を開く。
と、そこには少し汚れてはいたがセンスのいい彼の靴が見えた。
しかしどうしても顔をあげることができない。
それは歪んだ自分の表情を見られたくないからであった。
そんな柳生に仁王は低く笑う。

「柳生、よっとんの」
「酔ってません」
「泣いとんの」
「泣いてません」
「そうか」

ひやりとした仁王の掌が柳生の頬を滑る。
変わらない温度と、手の感触に柳生は目を閉じる。
腹立たしいと思う。自分を振り回して、弄んで、惑わす男のことを。
腹立たしくて、嫌いで、腹立たしくて、許せなくて、それでも安堵を感じている自分に、柳生は自嘲する。
今日一日の苛立ちも、困惑も。
もっと言えばずっと、自分の中にあり持て余し続けてきた感情を簡単に氷解させてしまう仁王に。

「約束したじゃろ」
「なんのことだか」
「相変わらず素直じゃないのう」

彼はため息をつき柳生の手から何かを取ると、柳生の横を抜け、歩き出す。
柳生は慌てて、地面に落ちている眼鏡をかけ、仁王の方へと視線を向ける。
仁王はケーキを持っていないほうの手でキーホルダーを回している。
よくみると彼の指先で回っているリング状の金具についているのは柳生の部屋の鍵だった。
柳生は慌てて仁王の方へと足を踏み出す。

「ちょっとどこへ」
「柳生んち。せっかくケーキも持ってきてやったんじゃ、付きおうてもらわんと困る」
「こっちこそ、急に来られても困ります」
「固いこといいなさんな」

軽快な足取りで歩く彼の後ろ。
既視感を覚えながら柳生は目を細める。
そして混乱をし続ける思考の中、自分が喜びを感じていることに柳生は気づく。
あんなにたくさんの人にお祝いの言葉をもらったのに。
たった一人、彼に会えたことに。
約束を、あんな他愛のない、自分でさえ忘れていたような言葉を覚えてくれていたことに。
柳生は。

仁王は柳生の家の扉の前に立つとくるりと柳生の方へと踵を返した。
そして、笑う。

「のう柳生」
「はい」

「誕生日おめでとう」

この先も、ずっと。
こうやって、一緒に。
そう思ってしまうほど、思いたくなってしまうほど。
仁王は柳生にとって特別なのだと。


「ありがとうございます」


そう、思い知るのだ。




キミがいるのであれば、この世界がたとえ地獄であったとしても。








H appy birthday Hiroshi.Y*131019