放課後の教室だった。
窓からは暖かな太陽の光がさしており、机の上に陽だまりを作っていた。仁王はその陽だまりに頬を付ける。
ストーブで温められた教室の中はほんのりと温かく、窓からさす太陽の光がその暖かさを助長していた。
仁王の右横では柳生が学級日誌に鉛筆を走らせている。整った字が白い紙の上に並べられていく。まじめな男だと思う。たかが学級日誌、手を抜いたところで教師に何かをとがめられるわけでもないというのに。
しかし仁王は何も言わなかった。仁王はそんな実直な柳生の横顔を見つめるのが好きだったからだ。
仁王はしばらく柳生の横画を見つめていたが、柳生の作業がもうしばらく終わりそうにないことを悟るとゆっくりと瞼を閉じる。
じわじわと体を温める温度に仁王は浮遊感を覚える。瞼は太陽の光で赤いが、意識はゆっくりと睡魔という闇に閉ざされていく。
しばらく仁王は押し寄せる眠気に辛うじて抗っていた。部活の無い、昼で授業が終わった午後を寝て過ごすのは確かに怠惰で幸せな時間ではあったが勿体ないとも思っていたからだった。
と、その時。指先が遠慮がちに仁王の髪に触れる。
のろのろと瞼を持ち上げるとそこには仁王の髪に触れる柳生の指先があった。鉛筆を置き、右腕で頬杖を付き仁王に左手を伸ばしている柳生の手は女子に比べてしまえば節だっており、そしてその大きさは明らかに男性のものではあった。それでもしなやかな柳生の手。
その柳生の指は仁王の髪をくるりと指に巻きつける行為を繰り返す。その感触を仁王は感じながら、しかし窓からさす陽光にうとうととしながら動かずにいた。
毎日自分で指を通す毛先はきしきしと痛んでいる。それは柳生に触れられていても明らかに感じることができた。

「痛んどるじゃろう」
「本当に。ぎしぎしです」
「こんだけ髪染めたり、色抜いたりしとったらそりゃあな」
「そうですね、でも」

「綺麗だとは思いますよ」

そういって柳生は目を優しく細めた。
まるで尊いものを見るようなそんな視線にこそばゆくなり、仁王は腕の中に顔を埋めた。

「校則違反じゃけどな」
「そうですけども」

柳生の指先が仁王から離れる。そして柳生は再び作業に戻ってしまう。
仁王は横目に、柳生が仁王の方に既に注意を払っていないことを確認すると、さっきまで柳生が触っていた毛先に指をからませる。
『校則違反だから黒くしなさい』
そういって揃いの腕章を付けた風紀院の集団の中に交じって校門の傍に立ち、口を尖らす男が本当はそう思っていないことを仁王は知っている。
仁王の格好を彼がするときに、太陽の光にその毛先を透かすことも知っている。
試合の時に、じっと仁王の毛先を見つめていることも仁王は知っていた。
だから染めないのだ、そう仁王は目を閉じながらそう思う。
譬え、生活指導の教師に呼び出され、延々と説教を食らっても。
反省の色が見えないからと反省文を原稿用紙三枚分書かされたとしても。
それでも仁王は頑として銀の色にこだわった。
柳生が目を細める、その横顔は。それは数少ない仁王の誇りだった。






わる、世界







「まさか素通りされるとはおもっとらんかったぜよ」

師走の居酒屋は賑わっていた。
会社帰りのサラリーマン。合コンと思しき男女の集団。そして仁王と同じくらいの大学生。
様々な団体が一つの店に詰め込まれ、各々酒宴と楽しんでいた。
駅からさして離れていない内装も特別おしゃれな店ではなかったが、武骨ながら手間暇かけたと思われる味のする料理を出す店で、仁王が気に入っている店の一つだ。
その一角のカウンター席で仁王と柳生は肩を並べ、酒を嗜んでいた。

久しぶりに見る柳生は全くと言っていいほどに変わっていなかった。
柳生は高校を卒業したのち地方の大学に進学していたため、仁王が柳生と会う機会と言えば半年ごとにやってくる長期休暇で柳生が神奈川に帰省をするときくらいだった。
仁王は半年くらいの空白を重ねながら目にする柳生の姿に変化を探すが、柳生にはほとんど変化がない。
髪形も、眼鏡も、少し色素の薄く柔らかい髪の毛も。街並みを歩むときのすらりと伸びた背筋も。
もっとも顔つきがだんだん大人びていくとか、骨格が中高生時代から比べれば完成に近づいて行くようなそんな変化は確かにある。
それでも、彼の芯のような部分は微塵も揺るがない。
目的に対しては酷くストイックなところや、努力を惜しまないところや、まっすぐな視線は何も変わっていない。
そんな柳生のことを少し羨ましく思いながら仁王は柳生の横顔を眺めるのが常だった。

仁王の言葉に柳生はばつが悪そうな表情を浮かべると、ビールのジョッキを持ち上げ口を付けた。
たった二杯のビールで柳生の頬はほんのり赤く染まっており、目がだんだんと据わってきている。
酒に弱いことも前々回くらいの帰省の時に二人とも二十を超えたからと初めて二人で飲みに行った時に初めて知った。

「私だってまさかあなたが黒い髪にしているなんて思いませんでした」
「髪の色で判断するんか、お前は」
「どう考えたって一番目立つじゃあないですか」

不可抗力でしょう。
そう吐き捨てると柳生は右腕で頬杖を付き、仁王のことをじっと見つめた。
それは、先ほどの出来事。
待ち合わせをしていた駅の改札で柳生は仁王のことを見つけることができなかった。
休日ということもあり、待ち合わせでごった返した改札前で、柳生は人並みの中、周囲を見渡していた。
ちょうど一直線上の位置に仁王が立っていたのにも拘らず。
そのまま、地上への出口へと踵を返した柳生の背中を仁王は追いかけながらそう言えば、髪を染めた話を柳生にしなかったことを思い出していた。
それに加え、柳生は医学部に進んでいたために6年制の大学では、周囲には仁王のような変化を遂げる友人がいないことも。
『柳生』
かけた声に安心したように振り返った柳生は、再会を喜ぶ前に視界に入ってきた仁王の姿に驚いたように目を見開いた。
眼鏡の向こうの柳生の双眸の中には黒い髪をした男が映りこんでいた。

仁王は首の後ろに手を滑らす。
そこにはあのトレードマークの一つだった髪の束すら、存在していない。
色をしっかりと抜いていた髪を真っ黒に染め直すのは思ったより多くの金もかかったし、長らく伸ばしていた髪を短く切ってしまうことに対して抵抗がなかったかといえばそれは否。
それでも仁王は髪を切った、そして髪を染めた。自分のアイデンティティで、彼が好んでいた色を捨ててしまうのは忍びなかったけれど。
誤魔化すように仁王は笑うと、枝豆を口の中に放り込む。

「シューカツじゃき、しかたなか」
「貴方が就活のために髪を染めるなんて、思ってもいませんでした」
「本当は染めたくなかったんじゃが、しかたなかろう」

「全然、似合いません」

柳生は憮然とした表情で仁王に手を伸ばす。
その指先は仁王の頬を掠め、仁王の髪に触れる。
熱くもなく、冷たくもない柳生の指はしなやかだ。
そして運動を捨てた柳生の指先はかつてよりはいくらかほっそりとはしていたがそれでも女子のような貧弱さや華奢さというのとは無縁だった。
柳生の白い指に仁王の黒く、短い髪が絡む。しかし以前よりも明らかに長さが短い仁王の髪はかつてのように柳生の指には絡まなかった。
柳生はしばらく、黒くなってしまった仁王の髪を指に絡ませようとしたり、摘まんだりしていたがやがてあっさりとその手を引っ込め深くため息を吐いた。
そしてすっかり泡の消えてしまったビールジョッキを手に取る。ゆらゆらと黄色い液体が揺れる。

「貴方の髪の色、好きだったんですけどね」

柳生の言葉に仁王は思わず顔をあげた。
仁王の反応に気が付いた様子もなく、柳生は残っていたビールをそのまま、煽る。空になったジョッキが店内の薄暗い光源にゆらりと光る。
アルコールで赤く染まった頬で憮然と目の前を睨む柳生の横顔を見ながら仁王はゆったりと目を細める。そして柳生の口からこぼれた言葉を心の中で反芻する。
それは、ふと零れ落ちた、無意識の言葉の断片だった。どの場面でも、どのタイミングでも彼が一度も口にしなかった言葉。意図的に言葉にしなかったもので。
アルコールの所為で柳生の緊張が緩んでいたからからかもしれなかったし、言葉を拾い損ねただけかもしれない。
自惚れるとするならば仁王が髪を染めたことがよっぽどショックだったのかもしれない。
しかしその無防備な言葉は、確かに彼の感情を投影したもので。
仁王は柳生に見えないように口角を持ち上げる。そしてカウンターに体を乗り出すと柳生の顔を覗き込む。
柳生はそんな仁王からの視線に怪訝そうな表情を作った。

「なんですか、仁王くん」
「なあ、柳生」
「なんでしょう」
「初めて聞いた気がするんじゃけど」
「ああ、そうかもしれません、まさか貴方が髪を染めるなんて思ってなかったので」
「そうじゃなしに」



「好きって」



口角を持ち上げ嫌味な笑みをかたどると柳生はぴたりと動きを止めた。
そして次の瞬間にはしまったというような表情を見せ、酷く不快そうにぎゅうと、眉根を寄せた。
その表情に、仁王が笑うと柳生は悔しそうにぐしゃぐしゃと髪を乱し、そのまま机に突っ伏してしまった。
ごつんと、額のぶつかる鈍い音が響き、腕がぶつかったために小鉢に渡してあった箸が机の上に零れ落ちる。
騒がしい店内とはいえ、響いた音に周囲から一瞬だけ好奇の視線が向けられたが、しかし当の本人はそんなことを気にした様子もなく、腕の隙間から恨めしそうな視線を仁王に向けてきた。
仁王は、柳生の茶色で柔らかい髪を払い、その表情が少しでも見えるようにする。
その時に指先に触れた頬は、アルコールの所為か、はたまた羞恥からか酷く熱かった。

「詐欺師の相棒の名前がなくのう」
「不名誉です、一緒にしないでください」
「就活終わったらもう一回染めてやるきに」
「もう絶対二度と言いません」
「ほう、それはどうかのう」

不敵に笑うと、柳生は困ったように顔をそらした。

嘗て誇りに思った色を捨てることが成長の過程で回避できないのだとしたら、大人になどなりたくないと思ったときもあった。
鏡に映った自分の姿に違和を覚え、すぐに元の姿に戻りたいと思わされた。
しかし、それで新しい彼の表情を見ることをできるのであれば。
ある意味それも悪くはないと思ってしまう自分は相当だと思いながらも。



分厚いレンズに知らない色が映る。
その色が変わった先で次に見る世界は、きっとまた。







H appy birthday Masaharu.N*121204