そう、いつだって簡単に、僕たちは二人の世界に逃げ込んだ。



ンダーランド







まだ温度の上がりきらない、しかし、爽やかさの中に確かな温かさを感じることのできる、そんな朝だった。
みずみずしい空気の中に静謐さが満ちている。ゆっくりと登っていく太陽の光によって朝がほどけていくのを、明度を増していく青い空を見上げながら感じていた。
校舎裏の中庭の一角には、まだ喧騒は届いてこない。しかし、校舎の向こう側ではそろそろ朝練が始まる時間だ。
『練習をしよう』
日本代表合宿の案内が届くや否や、部長の幸村は元三年レギュラーを集め、そう言い放った。
全国大会の決勝で、青学に敗れてそのまま引退をしていた三年レギュラーが高校生の合宿に参加をするならば僅かな期間だと言え、テニスから離れ、鈍った体を叩きなおす必要はあった。
しかし、既にテニス部は後輩主導で次年度に向けて動き出していた。
後輩が自分たちがかなえられなかった夢をかなえていくことを邪魔する気は毛頭ない。
そのため、幸村は先生に交渉をし、中間テスト期間で部活が停止する期間だけという約束で学校のテニスコートの使用許可を取ったのだった。
合宿に召集されたメンバーで、高校への内部進学の枠も、そして普段の成績に関しても問題ないことが幸いした結果だった。
正直、朝起きるのが辛くなってくる季節に差し掛かってきていた。それでもまたテニスができるというその事実に少なからず気分は高揚する。
しかし、今日はどうやら参加することはかなわなそうだった。
見慣れた風景は造作なく脳裏へと浮かび上がってくる。きっと今頃、今まで後輩に任せ切ってきた備品の準備を早起きな副部長が行っているに違いない。
幸村はきっと何かしら理由を付けてそんな様子を見守っている。柳は入念に今日のスケジュールを確認している。ジャッカルは朝からぎりぎりに部室に駆け込んできたダブルスの相方の世話をする羽目になっているのだろう。
中庭の木に背を預けたまま、腕を伸ばし腕時計の時間を確認する。
正確無比に、時刻を刻む腕時計。その文字盤が示す時刻を見やりながら、ため息をつく。
午前六時五十八分。
今から行ったところで遅刻は確定事項であった。そしてそれ以上にここから動くことがそもそもできそうにない。
自分の左のほうに視線を向ければ、テニスバックと今日の授業のための勉強道具の入ったカバンが投げだれている。そして自分同様に朝練の場にいなくてはいけない人間が一人。
銀色の髪を有する男は自分の肩にもたれかかり、その双眸をしっかりと閉じて微睡の世界に浸っている。
彼のズボンの後ろポケットに入っている携帯電話はさっきからひっきりなしに鳴りつづけているが、彼がそれを取ることはなかった。そして、対照的に自分の隣ある鞄に入っている電話は、さっき短く一回鳴っただけだった。
少しだけ。
そういって寝入ったのにも拘らず全然起きる気配は見せない。そろそろもたれ掛られている肩は血管が圧迫されている為か緩く痺れてきていた。
時計の針が無慈悲に時間を刻み、七時を指した瞬間、そこでもう今日の朝練に参加することをあきらめた。
手を伸ばし、彼のポケットから携帯電話取り出す。
もうじき鳴らなくなることは分かっていたが、それでも少し鬱陶しい。ずらりと並ぶ着信履歴に、ため息を吐きながら電源ボタンを少し長めに押した。

しばらくすると校舎の向こうからボールを打ち合う音が聞こえてきた。強く張られたガットに、勢いがついた黄色いボールがぶつかる音。
普段はサッカー部や野球部の掛け声や、金属バットにボールが当たる音に混じってしまい、あまり感じないが、静かな学校に響くインパクト音は意外と大きく響いていた。
その音を聞きながら、自分もどうせさぼるならば寝てしまおうと目を閉じた瞬間、自分の肩に頭を預けたまま眠り込んでいた男が身じろいだ。
片目を開け、様子をうかがうと男はぼんやりとした目で虚空を見つめていた。そして首を緩く降る。
その動きに合わせて銀色の髪と、後ろで結わかれた髪が、制服の上で揺れた。
彼は携帯電話を取り出そうとしたがズボンに入っていないことに気が付くと、手を伸ばし強引に右腕を掴んでくる。その乱暴な力に痛いと非難をする間もなく、彼は目を細め、真剣な表情で腕時計を覗き込んだ。
そして思っていた以上に時間が経過していたことと、既に部活が始まっており、もう間に合わないことに気が付いたのだろう、一つため息を吐いた。そしてそのまま無造作に腕を放り出す。地面に当たった腕が少し痛い。

「おはようございます」
「おはようさん。もう朝練はじまっとんのな」
「気持ちよさそうに寝ていらっしゃったので起こしませんでした」
「ほうか」

気にした様子もなく彼はそこで大きく欠伸をし、伸びをした。
うっすらと浮かんだ涙をぬぐいながら眠そうに瞬きを繰り返す男に思わず笑みがこぼれる。

「後で怒られますね」
「誰に?」
「誰って、真田くんたちにです。合宿に向けての気合いが入っているようですから」
「まあ、そうかもしらんが、同罪じゃろう。それに」
「それに?」

と、手が、頬を滑った。至近距離で視線がかち合う。
その瞬間、男は表情をがらりと変えて見せる。
眠そうな表情を一変させ、表情を引き締める。
そしてゆっくりと口角を持ち上げると笑みを深くした。
それはよく自分が鏡で見る姿ではなく、いつも自分の目の前に常に立つ男の表情だった。

「貴方は、間に合ったでしょう」

私を置いて行けば。
声音まで変えてそういうと、仁王の銀色に擬態していた男、柳生比呂士は双眸を細めた。
仁王は、そんな柳生に眉根をひそめる。
それは自分を枕にしていた柳生に言われたくなかった台詞だったからだというわけではもちろんなかった。
それが確かに柳生の指摘通りだったから、仁王は反射的に眉をひそめたのだった。柳生との会話には一瞬たりとも気が抜けない。少しでも隙を見せれば簡単につけいれられるのだ。
柳生はそんな仁王の様子に楽しそうに続ける。

「いいんですよ、今から練習に行っていただいても」
「なんで俺が敵に塩を送るようなことせんといけん」
「心外ですね、敵だなんて」

貴方のパートナーじゃないですか。
そう柳生は妖艶に笑う。

普段から練習しておいたほうがええと思わん?

奇抜な作戦を柳生に提案した時は酷く嫌そうな反応を返されたものだった。優等生の彼を、ある意味落第生の模範のような恰好をしている仁王の生活態度、仕草に矯正することを提案したのだ、当たり前の反応だった。
初めは関東大会で使うだけの作戦だった。しかし、気が付いたら柳生はその状況を仁王以上に楽しみ、そして利用していたのだった。
柳生は酷くうまく仁王に擬態した。先生は無論、レギュラーのメンバーですら簡単に騙し遂せてしまうくらいに。
そうはいっても幸村や柳がこのような戯れに気が付いていないとは仁王も柳生も思っていない。それでも、黙認されているのか、それとも放任されているだけなのか、あまり入れ替わりをしていることに関して追及をしては来なかった。
今日だって。
もし見つかったとしても、傷がつくのは仁王の評価で、柳生はまるで自分が被害者のような顔をするのだろう。
真面目な優等生を装って。
そして真田たちもわかっているのかわかっていないのかわからないが仁王を取りあえず非難するのだ。半分くらい自分たちに何を言っても聞かないことを分かっていながらも。
詐欺師という名を冠して、自由奔放に振る舞っていると思われている自分よりもはるかに。紳士という名を傘に、自由奔放に振る舞う柳生比呂士という男は全く以って性質が悪いと仁王は思う。

柳生はまだ眠そうな目で、憮然とした表情の仁王の顔を覗き込み、そして楽しそうに口角を持ち上げた。

「仁王くん…じゃなかった、なあ柳生、練習いかんの」
「どうせ怒られるんは俺なんじゃ、ええ、もういかん」
「なら、HRの予鈴が鳴ったら起こしんしゃい」

そう言い残すと、柳生は再び仁王の肩に頭を乗せ、目を閉じてしまった。
間もなく、穏やかな寝息が聞こえてくる。
肩に感じる重量と、体温。それに仁王はため息を吐いた。
大概、自分は柳生に甘い。
性質が悪い男だと思いながらもこうやって彼の言動と行動に甘んじてしまう。
傍から見れば整合性を欠いていて、褒められた関係では確かにない。
寧ろ完全に仁王が不利な立場に置かれている状況だ。
他人には理解しがたいであろう理論と関係性。
介入を許さない閉じた世界。
それでも仁王はそんな関係に満足をしている。どうしようもなく。
そしてそれはきっと柳生も一緒で。

(ほんと、なにやっとるんじゃろうなあ、柳生)

心の中で悪態をつきながら。
それでも仁王はゆっくりと笑みを浮かべると目を閉じた。






それは、たった二人にしかわからない、二人だけの世界。






H appy birthday hirosi.Y*121019