まだ、終わらない。


夏の残像




「なあ柳生、海いかん」

夏休みの校舎は静謐な空気を湛えていた。
否、本来は吹奏楽部の合奏や野球部の掛け声で満たされているはずだった、しかし今この空間を支配するのは夏の圧倒的な熱量を持った空気と蝉の声。
白いカーテンが抱き込む風は熱い、蝉の声はこの夏を食らいつくさんとするように激しく、生命力に満ちている。
しかし、その中にどこか寂しさを漂わせていることを仁王は知っている。
証拠に、声が響かない、音が響かない。
全ての活動が一度死に絶え、次の季節を迎える準備に沈む。つまり、来週新学期がやってくるのだった。
大半の部活が世代交代を終え、次の世代へと全てを引き継ぐ季節が、やってくる。
吹奏楽部も、野球部も、サッカー部も、バレー部も。
そしてそれは仁王が所属する男子硬式テニス部も例外ではない。

仁王の言葉に、仁王の向かいで鉛筆を動かしていた男は一瞬手を止めた。
そして怪訝そうに仁王の方を見やる。そして机に突っ伏したまま、鉛筆を指先で回す仁王の姿に呆れたようにため息を吐くと再び手元へと視線を落としてしまった。

「嫌です」
「なんで。柳生今年は海、いっとらんじゃろう」
「いってないですが」
「じゃあ、ええじゃろ、いこ」
「クラゲだらけの海になんでいかなきゃいけないんですか」
「やけん、夏らしいことなんもしとらんぜよ」
「していたでしょう、ずっと」

今だって、と柳生は開いたまま手の付けられていない問題集を仁王に投げつけた。
まだ半分も終わっていない夏休みの宿題だった。最も柳生はもうほとんど終わっている。あんなに朝から晩までみっちりと練習していたのにいつそんなものをする暇があったのだろうか。
しかし仁王だって本気を出せば単純な問題集など瞬殺で片付けられる自信はあった。柳生の陰に隠れがちであるが、もっと言えばテニス部の三大秀才に隠れがちであるが文武両道のテニス部員である。
勉強など造作もない、しかし仁王は柳生が投げてきた問題集を肘で押しのける。
ばさり、ページが地面でおれる鈍い嫌な音がした。それに応じて柳生の眉が寄る。それを仁王は腕の中に顔を埋めることで黙殺した。

この感傷の理由は分かっている。
きっと、引き留めていたいのだ。この夏を。

例年の夏とは仁王にとってテニスをすることに終始していた。
練習をして、関東大会で優勝して、練習をして、練習をして、全国大会で優勝して先輩を送り出す。
そしてまた次の夏に向けて毎日練習をする。それが仁王にとって夏のすべてだった。
しかし、今年は違う。
この先の季節に、テニスはない。
そう気が付いた瞬間、仁王は珍しく、自分が途方に暮れていることに気が付いた。
簡単に言ってしまえば、この先の季節をどう過ごせばいいのか、皆目見当がつかないのだった。
だから、できることならばずっとこの季節に居たい、そう思う。

宿題が終わらないふりをして。
夏らしい予定を詰め込んで。
まだまだ夏は終わらないのだということを。

目の前のペットボトルを水滴が滑っていく。
机の上にはじわじわと水たまりが広がっていく。
ペット樹脂の向こうには真っ白な入道雲と青い空が歪む。
蝉の声が空いた窓から滲んでくる。
手首のリストバンドの下には真っ白な肌が隠れている。
そして柳生がいる。
隣に、前に。柳生比呂士がいる。
去年の夏はいなかった、それでも今年の夏はずっと一緒にいる男が、今もいる。隣にいる。
夏だ、と仁王は口の中で小さくつぶやく。
夏だ、今は夏だ。ずっと夏だ。

きっと終わらない、季節だ。

「日曜日ならいいですよ」
「は?」

突然降ってきたことばに仁王は顔をあげた。
視線の先では柳生が目を細めて窓の外を見ている。
しかし、いつものように凛とした横顔には微かに感傷的な色が写っている。
柳生は呆然と自分を見つめる視線にため息を付き、目を伏せた。
あんなに太陽の下にいたくせにうっすらとしか焼けていない柳生の肌に陰が落ちる。

「なにが」
「だから海です」


「夏っぽいことしたいんでしょう」


私もまだこの季節に居たいんです。

窓の外を見やったまま、それでもはにかんだように鮮やかに笑った柳生は確かに。
あの太陽の下で勝利をつかんだ時のと同じ笑顔で。
仁王の横を駆け抜ける熱風は、いつか感じたもの同じ温度で仁王の頬を掠めていく。

「花火もせんといけん」
「ああ、そうですね今年はコートから見ましたからね」
「スイカ割りも」
「それは荷物が重くなります」
「祭りもいっとらんのう」
「幸村くんが許してくれませんでしたもんね」
「しかたなか、あいつらも誘ってやるかのう」

積み上げていく夏の残骸が、たとえそれが虚構であっても。
永遠であれと願うのだ、それこそ永遠に。



まだ夏は終わらない。