手紙。

朝靴箱を開けたら、一枚の封筒がはらりとおちた。
薄桃の封筒に差出人も宛名も何もない。
周りに知り合いがいないのを確認すると、その中にあるやはり薄い桃色の便箋を開く。
そこには女子の綺麗な字で、「昼休み、第一理科室で待ってます」とあった。
一瞬考え眉を寄せる。
そして其れを乱雑にたたむと、ため息をつきそれを鞄の中に放り込む。
何もなかったかのように。
上履きを履き教室へと進路をとる。
その道すがら、微かに頬に浮かぶ笑みを、押し殺しながら。

***

第一理科室の表札を確認し、腕時計を見れば昼休みの終了まで十五分あった。
こんなもので良いだろう。
ドアを引く。
薬品の匂いが満たされた薄暗く陰気な空気が鼻をついた。
酷く埃っぽい沈黙の中、自分の足音だけが響く。
理科室の空気は好きだ。
持ち主不在のままにじっと陰気な空気の中立ち並ぶ備品に眼を走らせながら歩く。
ホルマリン漬けの並んだ棚。
窓から射す弱い光を弾くガスバーナー。
電流計に電圧計。
中途半端に閉められた暗幕が作る仮初の闇。
そのなかに。
手の中にある手紙の差出人であるその人物はいた。
その人物は部活の時嫌でも顔を合わせるくせに。
それでも最近それ以外の時には接点がなく、久しく会話らしい会話を重ねていない人物だった。
壁に凭れて床に足を投げ出し、だるそうに、それでも薄く笑みを浮かべるその人は。
小さく、それでもはっきりと柳生、と微笑んだ。

誘われるようにため息が漏れた。
そして手の中のものを投げつけて言う。

「なんなんですかこれは」
「よく出来とるやろ、頑張ったんよ」

銀色の男は彼の所有する意地の悪い笑顔を浮かべた。
それは久しぶりに自分だけに向けられるもので嫌悪より先に静かな喜びが心の底辺に添って広がる。
表情には出さなかったはずだが彼は一層笑顔を浮かべると座るように促した。
彼の座る傍の実験台の上に上げてある椅子を下ろし、そこに座る。
彼は少し不満そうな表情をしたが、それ以上は何も言わなかった。

「お前さん、俺が行かんと会いにこんし」
「そうですね、貴方がこれを書いた確信があったらきませんでしたよ」

彼は低く笑った。
そんなのは信じていないという風に。

「たまにはよかろう?」

彼は立ち上がると歩みを寄せる。
引き摺られる踵の潰された上履きの足音。
この音を聞くのも久しぶりだと頭の片隅で少し思う。

頬に触れる彼の節だった温度のない手。
そして重ねられる唇に彼もこの時間を求めていたことを知る。

彼が書いた手紙が女子の筆跡だったのは、自分が彼が書いたものだとあからさまにわかればここにこないことを熟知していたからだろう。
自分が彼に屈するを最大の屈辱ということを見越した、其れ故の行動だろう。

彼は本心を語ることはまるでしない。
其れは此方としても同じだ。
嘘に嘘を重ね真実など、まして感情など口にする気も毛頭ない。
しかし其れは必要がないからだともいえる。
そんな面倒で鬱陶しいことをしなくてもお互いはお互いを熟知している。
彼の行動一つ一つに忍ばされるものをそのままに返す自分。
其れが嫌悪を伴うことだと知りつつも、それでも至福が多少付きまとう。

思わず吐息を漏らせば彼は嬉しそうに眼を細め、その両腕で強く背中を掻き抱く。

遠くで始業のベルが鳴った。
生徒の声は此処まで届かない。
どうやらこの教室は次の時間は使われないらしい。
緩められない揺ぎ無い力に抵抗を諦め、そのまま彼に従う。

「仕様のない人ですね、貴方は」
「そうやね、でもお前も同類じゃろう?」

そう笑った彼に、ため息をつき、目を伏せることで答える。

「その通りですよ」

そして、下ろしていた腕をそっと彼の背中へと回した。

そう、この時間を用意した彼への。
最大級の賛辞として。