夢を見た
眼を開けた次の瞬間朝日にそれは溶け出す
記憶機構にも全く痕跡を残さずに

continuation of dream

まだ夜明けの余韻を色濃く残す朝の昇降口。
誰一人いない朝の昇降口を使うのはいつ以来だろうと少し考えた。
いつもは朝練の後、駆け込むように何人かで騒がしく通過するようなところ、それが昇降口というものの認識だ。
しかし今日は部活に出る気持ちにはなれなかった。
こんなことは初めてかもしれないと思いながら、柳に連絡はもう入れておいた。
彼が一番詮索をしないでくれる、本来は副部長に連絡を入れるのがセオリーなのだろうが。

今朝、襲われた感傷の正体は、上手く説明することが出来そうにはなかった。

下駄箱を開ければ自分の上履きがないのに気がついた。
詰まらないいたずらにあったのだろうかと一瞬考え、隣のクラスのよく知った下駄箱を開ける。
見慣れたテニスシューズの上段に踵が踏み潰された不恰好な上履きがある。
ため息をつき、その上履きを履き、自分の靴を自分の下駄箱に仕舞い、閉める。

探せというところだろうか。

教室に一度行くか、それとも行くか一瞬迷い、そのまま右へと進路をとった。


扉を開ければ潮風の匂いよりまず先に纏わりつくような匂いが鼻をついた。
電気をついていず、光源は朝日。
真正面に大きくとられた窓の外には校門が見え、その先には海が見える。
白いカーテンは窓一枚分だけ開けられ、潮風にその身を躍らせていた。
その隙間から外を眺めているのは見慣れた後姿をした男子生徒。
眼の前にイーゼルを立て、正確なサイズは知らないがとにかく大きなキャンバスを目の前にしている。
そこに載せられた色の種類と絵の進行具合からして、気まぐれで今日の朝から描き始めた絵ではないだろうということは推測できた。
足元を見れば其処に脱ぎ捨てられているのは間違えなく自分の上履きだった。

「貴方は美術部員ではないでしょう、いいんですか」
「開口一番から説教せんでほしか、おはよう」
「おはようございます」

隣まで足を進めれば、絵の全貌が見えてきた。
季節が混同している絵だった。
空を彼は今塗っているのだろうが、半分ほどは冬のからりと晴れた青空で、半分は夏の雲の浮かぶ空だった。
校門の傍の木は、桜の咲いているものもあれば紅葉しているものもある、そしてそれらを上から塗り潰しているのだろう、中途半端に緑のもあった。

「変な絵ですね」
「暇々に描くから季節がずれるんよ」
「そうですか」
「文句付けんで静かにみんしゃい」
「はい」

横顔を見れば彼の表情がいつも練習をするときと比べ物にならないくらい真剣で、少し驚く。
いつもこれくらい真剣に取り組んでいればいいのに。
真剣な顔をした彼の表情は見ていて気持ちが良い。

周りを見渡せば一年前授業で仕様がなく、油絵を描いたときを思わせる道具が机の上に散乱しているのが見えた。
ぞんざいに広げられているが一つ一つはとても綺麗に大切に手入れされているのだろうことが窺える。
朝日にその道具たちはきらきらと光っている。
油壺に注がれた溶き油は、少し黄色がかった色をしていた。
テストで点数を取るときのためだけに覚えた一つ一つの道具の名称を一つずつなぞってみる。
しかし、簡単に行われたその作業では時計の秒針が二周もせずに終わってしまう。
ため息をそっとついたが、隣の彼は気にした様子もなく、安堵すると共に少し拍子抜けした。

携帯を取り出せばメールが来ている。
みれば短く、わかったとあった。

その言葉に連鎖されるように朝のことを思い出した。
何か夢を見ていたはずだ、胸に深く沈むような、重い夢を。
逃れるように無理やり意識を浮上させようとしたのは覚えている。
苦しいと、逃げたいと、止めてくれを何度も夢の中で叫んだ気がする。
あくまでも、そんな気がする、だ。
目を開けて、荒くなった息と、首筋を流れる冷や汗が確かに残されていた。
しかし、それだけだ。
それだけが夢の残響だった。
あんなに逃れたいと渇望したのに。
全てが消えてしまった。
何か大切な夢だった気がする。
大切で怖くて、忘れてはいけない、そんな夢だった気がする。
眼が覚めた瞬間、そのことを認識し、耐え難い絶望に満ちた感傷に見舞われた。
泣きたくなるほどの感傷は、きっと初めてだろう。

いつの間にか詰めていた息をそっと吐き出す。

多分泣きたくなったのは何もかもを正確に且つ完全に残しておけるものがこの世にたった一つもないということに気付いてしまったから。

いつか何もかもが水泡のように消えうせてしまうのはよくわかっていることだった。
毎日のように、こんな優しく時間が過ぎていく日々は続かないのだと、確認するように過ごしてもいた。
しかし失念していたのは、何もかもを忘れてしまう日が来ること。
子供の頃親友と呼んだ人間の顔を思い出せないように。
テストのときどうしても意味を思い出せない英単語があるように。

彼の声を、顔を、言葉を、いつかきっと思い出せなくなる。

繋ぎとめるための手段など思いつこうと思えばいくらでも思いつく。
しかしその方法は完全なようで、不完全だ。
不完全な記憶と思考機構を司る人間の脳が考え付いたものだ、完全などありえない。

「どうした」

黙っていたのを不審に思ったのだろうか。
隣で一心不乱に青い空を塗りたくっている彼に、声を掛けられた。
パレットにはいろんな色が広げられ、多様に色が混ぜられている。

「なにがですか」
「なにかあったん?」
「なんにもありません」
「なんにもないわけなかろう、いつものお前なら朝練に行こうってしつこく言う時間じゃろう?」

言葉に詰まれば、追求の手から逃げられないのは眼に見えていた。
一瞬だけ考え話の矛先を逸らす。

「何で貴方は絵を描くんですか」

「繋ぎとめるため」
「何を」
「何かを」

彼は筆を無造作に机の上に置き、今度は指に絵の具をつけ、キャンバスに絵を描いていく。
白、緑、青、黄色。
木なんて緑一色で描き表わしてしまえばいいのにと思い、窓の外を見れば、確かに緑だけでは足りない気がした。

「具体的に、写真では駄目ですか」
「写真なんぞ論外なんよ、柳生」
「何故」
「一瞬じゃろう?シャッターを人差し指で押せば確かに絵は取れる、お手軽で完全」
「いいじゃないですか」
「でもそれだけなんよ」

「絵は良えんよ、これかいてたときの気持ちが後から見れば思い出せる」

「それだけではないですか」
「それ言われたら、言い返せん、そう、それだけ」

「でも絶対写真にも、ビデオにも、テープにも残らん気がする」

ああ、やはり彼は強いのだと思った。
気持ちだけでは足りない。
きっと、自分は等身大の彼を残したい。

自分が酷く弱い人間に思えて吐き気がした。
思えば彼と出会ってからだろう、こんなに自分が弱くなったのは。
離れたら強くなれるかと問われれば、答えはきっと否。
せめて彼ほど強くなれれば良い、気持ちだけ残しておけば大丈夫だと笑えるように。

「柳生」
「なんですか」
「まだ時間はあるんよ、焦らなくてもいい」
「なにが」
「なんか」

ずっと絵のほうに身体を向けていた彼が始めてこっちを向いた。
そして左手がそっとこっちに差し伸べられる。
彼の油絵の具がべったりとついた指が頬を滑る。
ぬらりとした感触の後、タバコの匂いがする息で唇を塞がれた。

ふと、この朝の出来事だけは覚えておこうと、そう思った。
絶対に、この不完全な記憶機構で。出来事だけは。

右手の指先で右頬についた絵の具を拭う。
指先についていたのは黄色の絵の具だった。
その指を彼のキャンバスに擦り付ける。
先ほど彼が綺麗に塗っていた青い空に自分が指を沿わせた通りに黄色の筋が入った。
掠れながら七センチほど尾を引いたその筋に、彼は少し驚いたようだったがいつものように不敵に笑い、消さんとく、と呟いた。

消さないで下さい。ここには私の気持ちが刻まれているから。

差し込む光に光る油壺も、筆の金属部分も、洗浄瓶も、全てが眩しく、全てが切なく見える。
今日という日も、またどこかに溶け出し落ちていくのだと思うと、夢の続きを見ているような気がして、また少し、泣きそうになった。




end・・・
*****
美術室の匂いが途方もなく好きです。
油絵の具と、溶き油と洗浄液の匂いが大好きです、とても落ち着きます。