もしも、目が見えなかったら。
きっと気付かないまま、幸せな気持ちも知らないまま。



のなかにひそむしあわせ









窓からは秋らしい、少し温度の下がった風が吹き込んできていた。

クラスには放課後にも関わらず、机に向かう生徒が疎らに残っていた。
普段であれば女生徒の楽しそうな声や、男子のくだらない雑談で満ちている教室には代わりに程よい静寂と、鉛筆を走らせる音が響いている。
そしてそんな教室に時折響く声は、今日帰りどこに寄ろうとかそういう楽しそうな声ではなく、こんな問題わかんねーよ、とか早く帰りたいといったネガティブなものだった。
机に向かうクラスメイトの前には一様に白いプリントが拡げられておりそこにはびっしりと計算問題が並んでいる。
数学の時間に抜き打ちで行われた復習テスト。
ほとんどの生徒が内部進学できる付属校では往々にあることなのかもしれないが部活を引退した三年生たちは一様に虚脱感に苛まれていた。
部活があった時間を持て余す。しかしかといってその時間を勉強に充てるわけではない。身体的にも感情的にも宙に浮く、そんな時期である
そんな三年生のことを憂慮した先生たちによる毎年恒例の締め付けの一つがこの抜き打ちテストだった。その上、50点以下を取った生徒は課題が終わるまで返さないという罰ゲーム付きの。
基礎的な計算問題など皆無。受験を想定した問題は普段から公立校の一段上の問題を解いている立海の生徒でも手こずるのは必至だった。
まして、数学を苦手教科としている丸井にとっては拷問以外の何物でもない。
早々に諦め机の中に隠し持っていたお菓子を取り出して、脳の回転をあげるためだと嘯いて口に放り込む。

「なあ、仁王も食う?」

前の席に座る仁王は後ろ向きに椅子に座り、背もたれの部分に腕をのせそこに顔を埋めていたが丸井の言葉にのろのろと顔をあげた。
仁王の机には丸井や他のクラスメイトが苦戦をしている数学のプリントは置いていない。
得意科目は数学。そう公言しているだけあって仁王は普段授業中寝ているのにも関わらず、クラスで上位の点数をとっていた。
その実力たるや、クラスメイトにもお前には仁王がついてるんだからすぐ終わるだろ、と揶揄される始末。
実際、さっきから仁王は丸井が式の展開の仕方を間違えると寝てただろ、と言いたくなるような体勢からそこ違う、と間髪いれずに指摘を入れてくる。
しかもその指摘ですらりと問題が溶けてしまうのだ。
仁王は面倒くさそうに手を伸ばすと丸井の手からチョコチップの練り込まれたクッキーを受け取り口に放りこむ。
そしてその序でに因数分解の解法ミスを指摘した。仁王が指を指したところに黒く油の染みが残る。

「口動かさんとさっさとプリント終わらせんしゃい」

机の上にあったクッキーの袋を取り上げると、仁王はそれを乱暴に自分の机の上に放った。
そして元通り、椅子の背に腕を置くとそこに顔を埋めてしまう。
銀色の髪、そこに風に膨らんだカーテンの隙間から太陽の光が落ちる。
陽光を浴びて透き通る銀糸に、丸井は不覚にも見とれてしまった。

ピクリとも動かなくなった仁王を尻目に丸井は課題へと意識を集中させる。
因数分解。二次方程式。文章問題。
頭に入っている公式や解法の手順を思い出しながら丸井は紙のうえにシャーペンを滑らせていく。
途中、詰まった場所は教科書で調べて解こうとするが、しかしそこにはヒントすら記載されていなかった。
なんで応用問題というやつは教科書に解き方がのってないのだろうか。こんなんじゃ勉強などできるものか。
そう思いながらも終わらなければ帰れないのでは仕方ない。丸井は頭を抱えながらも他のクラスメイト同様、手を動かし続けた。

あともう少し。
最後の問題を解く前に、一度集中を切り丸井は固くなった体を伸ばすために天井に一つ伸びをした。
筋肉と関節、それをじっくりと伸ばし、シャーペンを手にしようとした瞬間、腕の隙間から丸井をじっと見つめている視線とぶつかる。
銀色の髪の下から覗く二つの瞳。それがまっすぐに丸井に向けられていた。
見つめあったのはほんの一瞬。その後、仁王は何でもなかったようにその双眸をゆっくりと伏せてしまう。
しかし、丸井が視線を手元の問題用紙に落し、しばらくすると頭のあたりに注がれている視線を感じた。
じりじりと焦げるようなそんな視線だ。
その持ち主など、確認するまでもない。
丸井は視線を感じながらも再び無理矢理にシャープペンシルを紙の上に走らせようとする。
しかし計算に没頭しようとすればするほど、今日一日の出来事が次々と脳裏に去来し、集中などとてもできなかった。
否、出来事ではない、視線だ。
そうそれは例えば、体育の時間。
バレーボールの試合でスパイクを決めた瞬間。
ネットの向こうで不敵に笑っていた男から感じたもの。
家庭科の時間、隣でじゃがいもの皮をむいていた男の隣で綺麗な玉ねぎのみじん切りを披露した瞬間。
ほう、うまいもんじゃのうと目を細めた男から感じたもの。
そのそれぞれのシーンで隣に、向かいに、前に佇んでいた男の視線だ。
それはある意味、感じなれた視線ではあった。しかし、その視線の持つ色は、その意味は、今目の前の男が持つはずのない色で、意味である。
そう、他の人間が丸井に向けるべきはずのもので、今前にいる男が向けるべきものではないのだ。
それが今、目の前の人物から向けられている。その理由は考えるまでもなくたった一つしかない。
まったく、気付かないふりをしてやろうかと思っていたが、ここまで露骨にされては仕方ない。
丸井は深く深くため息を吐き、顔をあげる。
目の前には両腕に顔を埋めている銀色の男の姿がある。その男に丸井はシャーペンを投げつける。
かちゃんと、ジャーペンが机に落ちる。
そして机に身を乗り出すと突然のことに驚いたように顔を起こした男の髪を掴み、他のクラスメイトに聞こえないように耳元に唇を寄せた。

「で、お前ら何で引退したのにそんなことしてふざけてんの」

丸井の言葉に、仁王は驚いたように目を大きく見開き、そしてきゅと眉根をよせた。
その所作だけで今まで完璧に作られていた仁王の虚像は崩壊する。
訝しげな不満げな表情。それは一年生の時からずっと一緒にいる部活の、他のレギュラーの表情だった。
隣のクラスの柳生、比呂士。
テニス部のレギュラー、超高速のパッシングショット。トレードマークは眼鏡。
ジェントルマン、仁王の相棒、そして。

「なんだ気付いていたなら言って下さればいいのに」
「気付かないと思ってんだったら俺のこと見くびりすぎなんじゃねえの」
「ちなみにいつから」
「朝、お前と目が合った瞬間から」
「本当ですか」
「本当。嘘言ってどうすんだよ」

柳生は、さすが丸井くんですねえ、と低く呟いた。
その声に尊敬がこもっていたが同時に少し残念そうな響きも交じっているのを丸井は聞き逃さなかった。
それが少し面白くなく、丸井は銀色の髪においていた手でぐしゃぐしゃと柳生の髪を乱暴に乱す。
そして柳生の髪から手を離すと、椅子の背もたれに体重を預けて腕を組んだ。

「大体さあ」
「はい?」
「仁王はそんな目で俺のこと見ねえし」

丸井の言葉に柳生は一瞬、きょとんとした表情を見せ、次の瞬間に口元を緩めた。
確かにそうですね、盲点でした。そういって緩やかにやさしく口角を持ち上げる姿は、見慣れたクラスメイトのものとは似ても似つかない。
何時もだったら強引にでも引き寄せてキスの一つでも奪ってやりたいところだったが、ここが教室であることが辛うじて丸井を思いとどまらせる。
他の人間に見られるから、という意味ではもちろんない。
仁王とキスをしていただなんて不名誉な噂など流されてしまったら丸井が困るからだった。
そしてそんな丸井の心理を見抜き、柳生はこうやって艶やかに笑って見せるのだから。
ああ、なんて性質が悪い。
ほんと誰に似てしまったんだか。

『お前ら、似てるよな』

仁王と柳生に対して言葉を発したのは自分だった。
丸井の言葉に二人は同じような顔をして驚き、そして顔を見合わせていた。
紳士と呼ばれる優等生気質の柳生と、詐欺師と呼ばれるどちらかといえば真面目とは対極にいる仁王。
ダブルスを組むように、そう幸村から言い放たれたとき、周りにいる誰もが、そして誰より本人たちが大丈夫だろうかと不安に思ったものだった。
それでも丸井は、どうしようもなく幸村の思考が読めてしまったのだ。
それは誰よりも深く柳生のことを知っていた丸井だけが知っている、確信に近い感覚だった。

そう、それは運命と呼んでも差し支えないくらいに。

丸井と幸村の予感通り、初めは犬猿の仲だった柳生と仁王は一足飛びに距離を縮めていった。
そのさまは見ていて必ずしも気持ちがいいものではなかった。
練習でも、練習後の自主練でも、休みの日でも彼らは連れだって練習をしていた。
初めは柳生をとられたようで、面白くなかった。
しかし、どう考えたところでテニスという括りの中では丸井は固定ダブルスをジャッカルとしか組むつもりはなかったし、第一柳生と丸井が組んだとしてもお互いの実力を完全に発揮することは難しいこともわかっていた。
それを考えてしまえば、勝つことが必須命題の立海で、確実な勝利を掴めるのは悔しいけれど、柳生と仁王のペアなのだということも。
だから柳生が仁王とのテニスの中で徐々に変わっていくのを丸井はただ見つめていることしかできなかった。
それでも。
柳生の透き通った両の目が変わらずずっと誰を見ていたか、それに気づいた瞬間。
柳生の柔らかい髪が脱色を繰り返して痛んでいく様も。
時々意地の悪い表情を見せるところも。
他人を揶揄するような言動を意図的に行うところも。
いままでどこか不愉快に感じたそれらの事象全てが愛おしく感じられてしまったから全く以って不思議だった。

多分これからも彼は変わり続けていく。
それは柳生が、そして仁王がお互いを相棒としておく限りにおいてそうなのであろうと思う。
それでも、変わらないものはたしかにある。
それを丸井はよく知っていた。感情を口に出すことは滅多にしないけれど、それを何よりも雄弁に語るものを。
だから、ただ見続けていくのだ。

丸井の思いを知ってか知らずか、柳生はおおよそ彼の本来所有するものからかけ離れた笑みを浮かべて見せる。
軽薄で、嫌みな笑みだ。
それに丸井は目を細める。
それは、自分では自覚していないけれど、自分が仁王に本来向けるものとは意味を異にする視線なのだろう。
そのことに今柳生の姿をしている男は気付いているのだろうか。
しかしそれは結局のところどうでもいいことだった、自分も大概柳生に甘い。柳生が丸井に甘いように。

「頑張ったらキスしてやるきに、はよ課題終わらせんしゃい」
「仁王の顔でされても全然嬉しくねえ、寧ろ気持ち悪い」
「わがままじゃのう」
「誰がだよ」


視線を合わせて、笑う。
それは傍から見れば滑稽でどうしよもない、そんな光景なのだろうけれど。
なによりも雄弁で、絶対な感情を証明する手段なのだった。






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丸井柳生!ひさしぶりに!
今回は本当に丸井柳生でした。笑

そしてそして!
Asterisk_session」の紗奈様がこのお話の前と後を柳生視点で書いてくださいました!
私の話からあんな素敵なお話ができたのかと思うと…ありがとうございました!
『めのなかにひそむゆうわく』というお話です。
柳生が可愛くて丸井が男前で仁王がかっこいいですので是非!