S 非科学方程式


科学方程式



「双識くん、なあ、君は本当に、人殺しを厭わないのかい」

鉄錆の匂いで充満した室内で、一つの椅子に腰かけながら、科学者は呟いた。
その男の目の前には一つの惨殺死体があった。
ズタズタにされたそれと対話するように、科学者はそれと向かい合う。
死体は当然のようにそれにこたえることはない、それでも構わない、そう思っているのだろうか科学者は、笑う。

科学者が手を開けば、掌は酷く欝血していた。
それは凶器で人体を解体するときに使った、いつも男が使わない類の力の所為であった。
そして、死体を壁に繋ぎ止めるために突き刺した、そのために使った力の所為であった。
男は破壊屋だった。
数え切れないものを破壊してきた。
パソコン、システム、ネットワーク、エトセトラ。
しかし間接的には人を殺したことはあっても男は直接人間を手にかけたことはなかった。
男が今まで手掛けた殺人は、大概は、エンター一つを押すことによって完遂されるものでしかなかった。
実体を伴わない殺人、それは邪道ですよ、そう呟いた、背広の男を、兎吊木は思い出す。
殺人行為とはこんなにも容易いのだよ双識くん、もっと君たちのシステムも合理化すべきだ、そうすればもっと楽に沢山の人物を短時間で虐殺できように。
そういった時に馬鹿にしたように肩を竦めた男を、思い出した。
あの男の手は美しかったように思う。
欝血したところも見たことなければ、豆で堅くなっているのも感じたことがないような気がする。
やはり殺人鬼は構造が違うのかと考え、しかし奴らは後天的な殺人集団だったことを思い出す。
さすれば慣れだったのだろうか、と、思う。

「なあ、双識くん、確かに人殺しの感覚は味わってみてもよかったような気もしないではないけれど、だけれど、君みたいに延々と、やりつづけたいとは思わないよ、思えない、それがたとえ、我らが死線の蒼の為といえども、ね」

『ボタン一つで完遂される殺人に意味を見出しているならばそれは幻想ですよ』

高価な背広を纏い、ゆうゆうと喫茶店で紅茶を飲みながら男は携帯電話を指差した。
指差した先にある、磨きこまれた机の上に鎮座するそれは、兎吊木が先程殺人に使った携帯電話だった。
病的なほどに傷一つない、滑らかなフォルムをしたそれのボタン一つで、消えた命が、この世界にはあった。
それに明らかな嫌悪を男は見せたわけではなかった、それでも快くは思っていなかったのは窺えた。
そうか、と返した兎吊木にそうですよ、と男は答え、クリームで奇麗に模られたケーキをフォークで崩す。

『君としては意味はなくとも、この害悪細菌には十分に意味のある行為ではある、極論、どう殺すかはどうでもいい、死線の邪魔になる存在が消えればそれでいいんだからね』

兎吊木はそういうとコーヒーの入ったカップを持ち上げた。
黒くなみなみと注がれたカップは漆黒の中に兎吊木の白いフォルムを僅かに写す。
香ばしく深い香りに、なるほど道楽で生きる男のチョイスする店は相変わらず趣味がいいと感心した。

『ああ、なるほど、価値体系自体が違うということですね』
『そうだね、君は家族の為に殺すんだからその手で感触を感じた方が、自分が家族に貢献しているとそう、陶酔できるんだろうが俺達は労力云々以前に数を殺せればそれでいい、それでいい』
『でも邪道です』
『そうだな、仮にも次元は違うとはいえ、同じ命を持つ生命体だからな』

同じ命を持つ生命体。
その言葉に男は自嘲し、兎吊木は嘲笑した。
兎吊木が半分ほど崩れたケーキを、双識の手から奪ったフォークで余計に崩し、口に運ぶ。
その光景を、双識は組んだ手の上に顎を載せながら眺めている。
辺りは程よい喧騒に包まれていた、周りには生きるべき生命体が蠢いている。
そして、気まぐれで、ほんの気まぐれでゲームと称しでもすれば一瞬で惨殺されるであろう生命体が、蠢いていた。

『その命の重さを、たまには肌で感じてみるといいですよ、時々、感慨に耽ります、ああ、この人たちも自分と同じなんだって』
『偽善だな、星の数よりももっとたくさんの人を殺す殺人鬼のくせに』
『コンピューターウィルスのような貴方に言われたくないですが』
『わかったそこまでいうなら、一度、試してみるとしよう』

そういった兎吊木に男は楽しそうに腕を組んだまま視線を向け、楽しそうに、笑っていた。
眼鏡の奥の眼を、いつもは幾らか殺人鬼としての殺意を押し隠したその目を、完全に優しく細めて。

『その時は是非感想を教えて下さい』

「どんだけ大切だったんだい、全く君の家族愛には頭が下がるよ」

立ち上がり、凶器を突き刺した、そこに、足を進めた。
体を壁に貼り付ける楔の一つ。
暗い眼窩に深く突き刺さったそれ。
血で真っ黒に染まったそれは、鋏だった。
あの男が家族への愛への証明として振るったそれを模した、鋏。
それが深く深く、命を抉っていた。
命あるものを、絶っていくその過程、瞬間。
最後に生命が見せる抵抗に、用なしになった、嘗て生命維持のために体を巡っていた液体。
そのようなものはいままでの兎吊木の殺人の中には介在しなかった要素だった。
そして一度でいいと、そう思い知らされた要素である。
いくら、死線の蒼に頼まれても、もう、あまりかかわりあいになりたくない要素だった。
それが、彼女への忠臣と、愛情を示すために求められる行為であったとしても。

彼女の為に研究所を抜け出そうと決めた、故に男の愛情表現の道具を模した。
それを振るうときは最強の名を欲しい儘にする、愛の名のもとに生きる男を模した。
しかし最強だと思われたこの死線の蒼への思いは、あの男の家族愛には遠く及ばないらしい。
それを才能や、性質と定義付けて捨ててしまうことすら憚られるほどに。

「酔狂だ、しかし、この罪悪細菌は、自殺志願を、尊敬しようではないか」

鋏のハンドルを、指先でなぞりながら兎吊木は死体に語りかける。
俺は人を尊敬することなんて露ともないのだよ、と。

此処を出たら、死線の蒼にもう一度跪く前に、あの男に会いに行こうと、そう決める。
そして、いつも自己犠牲を当たり前と思い、殺し続ける男を抱きしめて労ってやろうと。



体温を失った死体に刺さる、無機質な一対の刃に。
何処か慈悲に似た温かみを、非科学を嫌う科学者は、無性に感じていた。



+++++++++++++
久しぶりに兎双。
サイコロジカルで、兎吊木さんが鋏を使った事にかこつけた妄想でした。