「伊織ちゃん」

あの人が笑う。
私は走る。
伸ばした腕は空を切って、あの人には届かない。
あの人は笑う。

「伊織ちゃん」

少し心配した表情で、笑う。
腕が使えない私がこけない様に心配しているのかも知れなかった。
耳を塞ぎたかった、でも塞ぐべき手段である掌は使えない、あの日欠損してしまった。
伊織じゃない、伊織ではない。
私の名前は・・・。

あの人が笑う、困ったように笑う。
口を開きかける、またきっと私のことを、呼ぶのだ。
理屈では分かっていた、脳内の神経回路に刻まれた幾重ものあの人は、私をそうとしか呼ばない。
わかっていた、わかっているけれど、でも。
ただ、ただそれは、私を責めているように、責め立てるように、聞こえるのもまた真実だった。

ああ、貴方は私を・・・私を許してくれていますか。


のぐるほし、おそ咲きそうび



ごとん、と音がした、その音に意識を覚醒させ、体を起こす。
相変わらず欠けた両の腕がないのは不便だったが、しかし幾分慣れた、特に支障もなく、革張りのソファーの上に鎮座する。
大きく一つ息を吸い、体の関節を伸ばしてやる。
雑然とした部屋の中に時計はない、まして自分が眠りに落ちた時間さえ分かっていない。
しかしカーテンを引いていない窓から見える世界は光にあふれていて、まだ日の昇っている時間だということはかろうじてわかった。
そしてぼんやりと夢の内容に思いをはせる。
短いような永遠と形容していいような、とても辛く、それでいてどこか懐かしい、既に見慣れた夢。
頬に残っていた涙の筋をごしごしと拭う。
これももう、すでに慣れた習慣だった。

「うなー」
「おう、起きてたか」

声がした方に視線をめぐらす。
見れば、玄関からリビングに通じる廊下を一人の少年があるいて来ていた。
整った表情に禍々しく刻まれた刺青、耳についた三連ピアスとしてのストラップ。
前くくっていた髪はほどいている、故に歩くたびに、その毛先はさらさらと揺れた。
彼は、零崎人識という。
この部屋に久しぶりに人が訪れたことにまず驚き、外国に行くと言い残していたことをぼんやりと思いだす。
もう会うことはないとかも言ってなかっただろうか、しかしただ一人ここに残されている舞織にしてみれば嬉しい来客であり、人識を目を眇めて見つめる。

「うなー久しぶりですねー外国は楽しかったですか」
「あーまあな」
「うふふ、それはよかったです」

笑った舞織の傍まで来、人識はソファーに座る。
そして傍に堕ちているものの中からそれを見つけ出し、眉をひそめた。

「あんたこんなのと添い寝してたら怪我すんぞ」

人識はソファーの傍に堕ちていた大振りの鋏を手にとった。
いや、それを鋏と形容していいのかすらもうわからない、寧ろナイフが二本、連結された、そう形容する方が正しいのかも知れない。
両刃の、物を切るためではなく人を殺すために設えられたそれ。
確かに触れたら簡単に人間の肉くらい裂いてしまう、それは凶暴な「兇器」だった。
それをみて、ああ、さっきの音はこれかと舞織は場違いに思う。
きらりと、電球の光を弾いたそれに、舞織はうふふ、と笑う。

「いやですよ人識くん、お兄ちゃんの鋏が家族を傷つける筈がないじゃないですかー」

これは家族を守るためのものなのですよー?
そういえば人識は少し表情を歪めた。
憐れんでいるのか笑ってるかも判然としないくらいその表情筋の動きはただ曖昧だった。
その視線を、反応を舞織は黙殺する。

人識の手の中に収まるは、錆一つ、否曇りひとつない鋏。
それもその筈だった、奇麗に磨かれたそれが最後に血に濡れたのは相当前。
あの、兄が、最後に自分にこれを託して、太刀使いの胸を貫いたそれが最後だった。
そして、あのあと、目の前の少年がきっちりと血を拭きとって以降、この刃は、血を知らない。
血塗られるために作られたそれが、血をもう飲むことはない。
血塗られるために託されたそれが、血をもう飲むことはない。
殺すようにできている殺人鬼が、血を見ないと同様に。

目を閉じた先に浮かぶ景色はあの人が死ぬ間際、託された血塗れの自殺志願。
渡されたあの人の二ツ名。
電車の中の圧倒的なあの赤色。
全てを縛りつけるあの言葉に視線。
大将と音楽家が家を出ていく瞬間。
それを泣きながら見送った自分。

全てが脳内を巡り、一つの真実に帰結する。
それを示すが、血に塗れぬ「自殺志願」だった。
ふうと一つ息をつく。
そして何か月もの間、対象がいなかったがために吐き出すことはなかった言葉を呟いた。


「もう敵、とれないんですね」


言葉は酷く空虚に、空に散った。
舞織の言葉に人識はひたと、手の動きを止める。
そして自分の手元に注がれる視線に、苦笑して見せた。

二度と血に塗れぬ自殺志願。
人を殺すだけの道具。
家族の為に人を殺すための道具。
流血の繋がりを証明するための。
愛を、証明するための。
その道具、自殺志願。

「別に、零崎の掟には結構忠実だった兄貴だけど、俺は復讐なんぞ望んでねえと、思うけどな」
「そうかもしれないですけどね」


「でも、お兄ちゃんの愛に報いたいじゃないですか」


「報いたいのですよ」
「・・・そか」
「ほかに方法なんて、知らないから」

愛の為に凶器を振るうその方法しか、知らないから。

あんなに皆に愛されていた一族の長兄の命と引き換えに参入を許された自分。
誰も自分を恨んでいないのは知っていたが、それでもどうも居心地が悪いというのが本音だった。
愛してくれているとは、感じる。
しかし、それは自分にとっては虚像で、それは兄への愛に報いていない自分の自責がそうさせているのだとも知っていた。
かといって、そんな自分をだまして安穏と生きれるほどに、舞織は器用ではなかった。
彼の死を忘れて、安穏と平和に生きることを、あの兄は許してくれるだろうということも知っていた。
それでも、どうしても、あの愛に、報いたかった。
変態だけれど、本当に変態だけれど、それでも、無償の愛を、家族というだけで、本当にそれだけで、注いでくれたあの人に。
ただ。


「でも、もう人を殺しちゃ、いけないから」


それは足の下から冷気が上がってくるような、絶望だった。
唯一の愛情の証明手段を、奪うその言葉に、なんど涙したことだろうと、舞織は思う。
大将も音楽家も、仇をとる、人を殺す、それであの兄への愛を証明できるというのに。
あの日あの赤色を突破できていたら。
あの日あの電車の中で突破できていたら。
この自殺志願が、血に濡れていたら。
あの人の手の中にあった時のように血に濡れていたら・・・。
途切れぬ悔恨に、舞織は唇を噛む。
癖のようになってしまったその仕草に、塞がっていなかった傷口からまた、鉄の味が広がった。


「もう・・・私、どうすればいいのか、わからないのですよ・・・」


噛み切れなかった涙が頬を伝った。
生暖かい液体が頬を滑り、プリーツスカートに次々と吸い込まれていった。
絶え間なく流れる涙を止めようとするが止め方すらわからない。
あの人の為に人一人殺せない自分も。
大将たちが仇を取りに出ていく後姿を見守る切なさも。
夢の中で繰り返し呼ばれる「伊織」という名前も。
全てが絡み合って悲しさが増大する。
そして何日も何か月もため込んだ思いを、全て人識にぶつけている自分が弱くて、憎たらしいと舞織は余計に悲しくなった。
わんわんと子供のように泣く舞織の隣に座った人識は特になにを言うでもなく、舞織がするがままにしていた。
しばらくし、泣きつかれてきた舞織に、人識は、呟く。

「それでいいんじゃねえか?」

不意に、呟かれた言葉に舞織の動きが止まる。
そして、怪訝そうに人識を見つめた。

「・・・なん、ですか」
「だからよ、兄貴の愛に報うの」
「・・・なに、いって・・・」

「だから、兄貴の為に泣ける、それでいいんじゃねえかっていってんだ」

かはは、と人識は笑った。

「大将も一賊の奴らも不器用だからさ、何か実体のあるものがねえと安心できないんだろうけどよ、別に俺はそんなことしなくてもいいんじゃねえかって思うんだよな」
「う・・・」
「大切なのは忘れないでいてやるってことじゃねえのか、生きてたことをよ」

人識の手の中にある鋏に目を落とした。
自殺志願。
曇りひとつないそれ。
ただ無機質で、確かな硬度をもつ、あの人の全て。
変態な言動、不自然な服装、あの柔らかいほほ笑み。
全部が脳裏によぎる。
暫く傾れでる記憶の洪水を目を閉じてやり過ごしてから、人識に視線を戻した。

「それ、でお兄ちゃんは、ゆ、るして、くれます、か」

その言葉に、人識はシニカルに笑う。


「許してくれんじゃねえか?そこまで器量の狭い男でもないと思うぜ?」


「・・・ほんと、ですか」
「ああ」
「ほんと、うに、ほんとう、ですか!」
「だから本当だって」
「ほんとう、にほんと、うにほ、んとうで、すか!」

「あのな・・・誰が一番兄貴のこと知ってると思ってんだよ」

困ったように笑う人識の表情と、どこかやさしい声音に、再び頬を涙が伝う。
今度のは明らかに安心からもたらされたものであるのを舞織は気付く。
そんな自分を見られるのも恥ずかしく、同時に今更だったがこれ以上泣き顔を見られるのも嫌だと思い、舞織は人識の肩に凭れかかる。
振り払うそぶりも見せない人識に、舞織は小さく、うふふ、と笑った。

「なんか、人、識くん、大人で、すね」
「かはは、またいろんなもの見てきたからなー、人生経験が豊富だって言ってくれ」
「うふふ・・・・・・」
「・・・っておい、寝るな」
「い、じゃないですかー人識く、んお兄ちゃん、なんです、よ?」
「ったくーあんたほんとしょうがねえな」

今度は俺が兄貴のポジションかよ、こりゃ傑作というより戯言だな。

人識は自嘲し、舞織は笑った。

「じゃ、人識くん、おやすみなさい」
「本気だったのかよ・・・」
「もちろんなのですよ」
「あーあーもうかってにしろ、全く傑作だぜ」


さっさと寝ろ、舞織。


意識が閉じる瞬間、僅かに網膜に触れた自殺志願。
相変わらず無骨で無機質で、有機体とはほど遠くて残酷な形状をしたそれではあった。
けれどなぜか漠然と、舞織は。



ああ、きっと大丈夫、お兄ちゃんは許してくれてる。



そう安心、した。



ねえ、そうでしょう?人識くん・・・。







あの人が笑う。
そして呟く、その、私の名前は、とても優しくて、暖かい。
そこに責めるような色はなく、ただ満面の。
そして全てを包み込むようなその笑みで、紡がれる名前は・・・。



『     』




++++++++++
舞織+人識
いっぱい詰め込もうとし過ぎた感じがします・・・あわわ。
別に舞織ちゃんは双識さんのことお兄さんとして大好きなだけです。
命の恩人として、世界を変えてくれた人として好きなだけです。笑
時間軸的にはラジカルの後。
人識くんが優しすぎますか・・・?すすすいませ・・・。
おそまつさまでした!